#4 青空文庫さん

 待ち合わせした喫茶店に現れた「中の人」は、女性というよりも美少年のようだった。この展開はあまり想像していなくて、私は数秒の間息を呑んだ。年齢は大学生ぐらい、ベリーショートの金髪にオレンジ色のメッシュが入っている。睫毛の長い大きな瞳、でもすっぴんのようだった。黒いTシャツ、黒い野球帽をかぶっていて、シルバーアクセサリーをじゃらじゃらと重ね、耳には貫通するタイプの銀色のピアスが付いている。夏休みにロックフェスに参加しにきた少年、という感じだった。既に九月で、冷房の入った喫茶店のなかでは多少肌寒く見えたのだが、一向にかまわない様子だった。

 思っていた感じと違ったのだけれど、その違和感と同じ程度に、私には彼女がそうだという確信があった。入口近くの席に座っていた私と目が合うと、彼女はフラッシュのような明るい表情を浮かべ、私に向かい「sugercubeさん?」と声を上げた。私は、アカウントで呼ばれることに激しい抵抗を感じ、椅子から降りて彼女の側へ行くと「佐藤です、初めまして」と口早に言った。


「あの写真、どういう基準でアップしてるんですか?」

 質問してきた彼女の態度は、最初に会ったときとは全く違った。私は「ネットで知り合った他人に会うって怖いな」と感じた。現れた当初、感激を満面に表していた彼女が、今では、喫茶店の換気扇の音が響く静けさのなかで、返事をじっと待っている。私は、彼女のその態度に、「ネット上で他人に好かれること」の縮図を見た感じがした。見つけられて、内容も見ないうちに好かれる。それから後に「友人」とするに値するかを検討され、そうでなければ簡単に削除される……。

 私が自分の戸惑いをつつくように、漠然とアイスオレのなかに溶けた氷をストローで触っていると、彼女は甲高い声を出して笑った。

「ごめんなさい、わたし、話し方怖いって言われるんですけど、悪気ないんで気にしないで」

 背は百七十センチぐらいあるだろうか。背の高い彼女が大きな声で言うと、あたかも運動場で命令している先生みたいだった。私は体育の面倒さを思い出しつつ、なぜか笑いにかぶれて苦しくこう言った。

「悪気なくても、怖いものは怖いです」青空文庫さん、ネットだとそういう感じしないのに、怖いって言われるんですか? と。

「リアルだと、言われる」と、彼女は頭を掻くような仕草をした。整った顔立ちだったが、所作の大きさなどから運動をしている少年のような印象だった。

「でもわたしの周り、変人ばっかだし、あんまり気にしてないから治らない。ビダイって変人多くて、みんなコワいじゃんて」

 彼女は私の三つ上の二十歳で、美大生だという話だった。青空の写真を投稿したのは去年から、ということ。たまたまアップした写真が「天使が雲間から降りてきているように見える」と言われて、他のサイトに引用されて沢山のコメントがついて嬉しかったこと。自分の投稿する写真で、喜んでくれるひとが大勢いるなら続けたい、と思ったこと。

 また、「自分の描く絵では他人に希望を与えるなんて無理だ」と感じていたから、写真に逃げた感じもある。あれは、わたしの現実逃避なのだ。だから続けられる……と、彼女は独り言のように言った。

 私の経験上、これは相手を生身の人間だと感じていない場合に出来る告白だった。

「絵はね……自分が救われないから、嘆き節みたいに紙に八つ当たりしてるだけ」彼女はケータイに保存している絵の写真を私に見せた。私の手元にそれが来たとき、一度画面が暗くなった。

「ここ押せばいいですか?」

「うん、でも」と彼女はふと天井を見上げた。「ライト点けても、よく見えないかも。アナログで紙に描いたのを撮ってるんだけど、元々暗い絵だから」

 実際、画面上に浮かび上がったのは、電源が切れているケータイの画面と同じぐらいに暗いぼんやりした絵だった。全体に黒くて土のなかのようで、ところどころ赤い稲妻みたいな線が入っている。画面が変わり、表示された絵もみな同じ調子で、まるで特定の病気に罹っている患者たちが寝ている、病棟のような光景だった。青空を商品として沢山並べている、あの青い文庫とは真逆の感じがした。

「マギャクですね」と、言うと「でしょう!」と手を打つみたいに彼女は喜んで言った。

「これが素です。でも、素の自分なんか別に価値はないって知ってるし。誰もトクしないですからね、評価されない物を並べたって、他人も自分も」そう言って、彼女はミルクを大量に入れたホットコーヒーを啜った。彼女の剝いたミルクの殻が、ソーサーの縁に吸殻のように積み重なっていた。

 彼女のような、敏捷な少年のような姿をした、才能豊からしいひとでも、八百の青空で自己を隠蔽しなければならないのか。私はそのことに、眩暈のように軽い絶望を感じた。彼女は私の表情を見て意図を悟ったらしく「でもまあ、目的に寄りますね」とフォローするように言った。

「どういう自分を見つけさせたいか? それさえ決まっていれば、動揺することも諦めることもないですよ。わたしの実態はこの絵だけれど、でも他人を喜ばせるために、ときには青空のようなものでありたいと――、自分じしんの姿のアカウントを切り替えられる」

 その気持ち多少分かります、と私は少し彼女に寄るつもりで言った。

「私も女子高生っていうのものになる、そのことで多少の息抜きをしています。現実には、別に評価もされない自分であり続けることの」自分でも、この吐露には多少の出血が伴うことを感じながら、私は何だが人間味の乏しい青空文庫さんに向かって喋った。

「#十代 #軽薄 #流行 #友達 #承認欲求 #仲間 #闇 私に求められているものは、そんなものだと見えて来る。擬態しなくても、他人は都合の良いように見間違える。習慣を手放す意志がないだけで、不断の情熱と間違えられてタグ付けされる。sugercubeに付くようなハッシュタグ、どれも佐藤瓜子、本名ですけれど、それには付かないな。でも、期待される衣装を着ていれば、他人は裸の私なんか想像しないですから」

「#hanakoは誰が期待してること?」

 彼女はまたも冷ややかな声になって言った。私は恐怖の正体を自分で掴めないまま、その手触りのなかへ分け入った。「あれ中学のときの友達で――」という声が、理由も不明ながら、既に彼女に向かって言い訳をしているような印象を伴って聴こえた。

「――花子、ケータイ持ってなかったし、もう見てるか分かんないです。でも、#hanakoは、私にとって習慣としての心地よさがあるから、続いてるんだと思います」

 最後の言葉には、私じしん発見の驚きがあった。それは何故か彼女にとっても同じらしく、彼女の大きな目の奥に、確かに赤い稲津が閃くのを私は見た。

「でもあなたは、花子さんをウソつきだと思ってたんでしょう? 彼女を馬鹿にしながら、彼女のやることに付き合うのが楽しかった?」

「多少、羨ましかった」私は自分の言葉がまるで涙のように、仕方なく引き出されていくのを見送った。

「彼女のウソは、彼女が自分の手で作った作品でした。今思うと、あれだけのウソを何の材料もなしに自分で作ってたって、情報の発信者として評価されるぐらい凄いことだと思うんです。

 私は『日常系女子高生フォトグラファー』っていう、他人の作った衣装があるから、それを馬鹿にしながら着ています。でもあの子は、自分で作り上げた自分の姿を馬鹿にしたりしなかった。他人に信じさせたいと思うような自分を、己一人で作るってよほどの力が要ることだと思うけど、私にはとても無理だったし、今でも無理だと思う」

 私はラクなものです、でも花子はきっとそうじゃなかった。他人から与えられる役割をこなせば、その役の範囲で存在を承認して貰える私と違って、あの子は自分で作った世界を、他人に承認させないといけなかった。他人にこれなら良いと言われるものじゃなく、自分でこれが良いんだと思う、彼女にしか見えない世界を本物と取り替えようとしてた……。

「それでまず、手近な他人である私を征服した。私は、彼女の情熱の手先をやるという、その役割が自分で気に入ってたんだと思う」

 私たちの間で、口を滑らせるみたいに、コップに入った氷がかしゃりと溶ける音を立てた。

 青空文庫さんの尋問するような大きな目が、私に告白を促していた。私はふと(花子の強要は、これよりもっと柔らかかった)と感じた。その違いは、花子の目は私が拒絶する可能性を全く排除していたことだと思った。彼女は自分の指を使うように、澱みなく私の手を使ったものだ。

「根拠もなくこれが良いんだと思えるような――彼女みたいな情熱を、私は持てなかった。sugercubeになった今もです。私は情熱の真似ごとをして、その手触りの良さを捨てられずにいるだけ。もし私に情熱があったら、いまごろ私にも華子が――自分の見たいものが見えているでしょう、でもそうじゃない。

 青空文庫さん、自分の撮った青空が支持されて、喜ばれるのを見て嬉しかったって仰ってたけれど、その気持ち一部だけなら分かります。でも文庫さん(私は唐突に名前を略し出した)が好きで、愛着を持っているのってあの暗い絵の方じゃないですか。たぶん、文庫さんが好きなのも青空じゃなくて、他人が自分の与えた物で感動するという有様ですよね。他人の感激を買うために、沢山の青空を集めたのじゃないですか――もしそうなら気持ちは分かります。私は何ていうことのない日常で、他人の感激を買ってきましたから。

 SNSでこういう写真なら沢山シェアされるとか、他人の情熱の呼び水に出来るものの基準が分かって来てから、私は情熱に詳しくなることと、その当事者になることとは別だと分かってきました。花子みたいに、情熱を独創出来る人間と私では、そもそも身体の構造からして違うような気もしてる。私は、彼女の指になるのが精一杯の人間じゃないかな。

 私は花子の情熱に共感できなかったけど、従事することは出来ました。ケータイってもう私の手の一部ですけど、私自体が彼女の情熱の一部だった。彼女の手になってシャッターを押すとき、自分じゃ血を作れない心臓の私が、輸血してもらってた気がする。私は慌ててボタンを押したりしてました、何も見えていないのに。そして他人が、私たちのアップした写真を見て、花子しか持っていなかった世界を共有するようになった。

 花子は、私を通して、自分の世界を承認させるのに成功していたと思います。そして私には、情熱の一部になることの快感の手触りだけが残った。彼女の肉体がなくなっても、その一部であったときの体温を懐かしがっている、摘出されて血の通わなくなった内臓みたいなものが私です。

 だから、#hanakoには何も写っていないの、ごめんなさい。あれは私の友達が見ていた風景を辿ろうとしている、私の透明な焦点の蓄積です」

 青空文庫さんはガチャリ、と音を立てる感じでカップをソーサーに置いた。私は、自分が彼女の逆鱗に触れたのだと思った。

「一つ、確認しておきたいんだけれど、」と彼女は私の冷淡さを叱るときの、大人に共通する冷ややかな声で言った。初対面のひとですらこれが可能なのか、と思うとそれが少しショックではあった。

「本当に何も見えてないんですね。あなたが嬉々としてアップしている(情熱とかないんでしたっけ、ごめんなさい、誤解してました)写真の中に一部気になるものがあって」

 彼女はリュックのなかから、画像を印刷してあるコピー用紙みたいな紙を三枚、目の前のテーブルに投げるように放った。そこには私が投稿した「交差点で見つけたタンポポ」「市民プールのフェンス」「体育館裏の夕日」の写真が、沢山のコメントとともに擦れたインクで印刷されてあった。私は自分の罪状のように投げ出されたそれを、黙って取り上げて見た。それ、と彼女はコーヒーカップを口元から下ろしつつ、私の反応を伺うように言った。

「『ヤバイもの写ってる』って言ったら、信じますか?」

 私は、彼女の警告を信じるふりで頷いた。

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