第四世界『ほんとうのせかい[Out of the window]』 その3
×トリシャ×
「だからって――なんだっていうんですか!」
おそらく自分である赤子の写った写真を、トリシャは握りしめた拳で強く叩きつけた。アルバムのページがひしゃげるが、それでも拳はどけない。
そこに存在する事実を自分の体に染み込ませるように、ぐりぐりと押し付ける。
「私が……私の本当の足がこれだったとして……! 足が、なかったのが、お父様のせいだったとして! 私が今ここで、ちゃんとした足で立っている事実は変わらない!」
言い聞かせるように叫ぶ。資料だけが並ぶ部屋の中、空虚に響いた声にトリシャはずるずるとその場に崩れ落ちた。
ぺたん、とお尻をつく。冷たい床の感触が伝わってきて、あっという間に背筋を冷やした。
……寒い。
指の先まで凍えるような寒さを感じて、自分の体をかかえる。
抱えながら、言い聞かせる。
「私は……一体……この世界は……私の故郷は……なんなんですか……?」
知りたいけど、知りたくない。
矛盾した心がせめぎ合って、身動きがとれなくなる。
膝を抱えてうつむいていると、ふと廊下の方から足音が聞こえた。
ドアは開いたままだ。このままでは見つかってしまう。
「っ……! まだ……っ」
見つかるわけにはいかない。
トリシャがずっと生活していた部屋。あの重苦しい扉は、おそらく出入りさせないようにするためのものだ。たとえ鍵がかかっていなくて一つ目の扉を開けられても、両足が無くてふんばりが効かないトリシャだったらあの重い扉は開けられなかっただろうから。
だとしたら、捕まったら自由を奪われてしまう可能性が高い。
もちろんそうでない可能性もあるが、今は父親を信じられるような状態ではなかった。
そんなことを考えている間にも、足音は近づいてくる。革靴……にしては妙な足音の響きだったが、とにかく逃げなければとトリシャは腹をくくった。
物音を立てないようにドアに近づく。
そして、足音が最接近する前に、部屋を飛び出した。
『AHI?』
勢いよく足音がした方向とは逆に走り始めたトリシャだったが、不意に後ろからした妙な声に若干速度を緩める。人間とは明らかに違う声。
恐る恐る、振り返る。
するとそこには――
『IIIAHAAA!』
「な、なぁ、なんですかあれ――――っ!?」
バケモノが居た。二足歩行だが、手足の形状が人間と違う。全身の皮膚は硬化して盛り上がっており、色は白かった。頭部はのっぺりとしていて、目と鼻にあたるものは認識できたが口はどこにあるかわからない。
ここに飛ばされる前に出会ったニワトリ人間たちとはちがう。全身からにじみ出る『正当な進化を経ていない』不自然さが、言いようのない嫌悪感を感じさせた。
なぜか白衣をまとっているが、父親の研究仲間と言うには少々苦しい。
というか明らかにトリシャを獲物として見ている目だ。
実際追いかけてきているし。
「わー! わー!?」
間抜けに叫びながら全速力でダッシュするが、化け物もなかなか足が速い。荒く息を吐きながら跳ねるように追いかけてくる化け物はもう、恐ろしいなんて言葉では済まされない。
……なんですかあの化け物!
さっきまでの感傷的な気分はどこへやら、今はもう追いかけてくる化け物をどうにかしなければということで頭がいっぱいだった。
とにかく打開策が見つかるまでは逃げなければと、曲がり角を曲がったりしてとにかく逃げ回っていたのだが。
「うわまた居るぅ―――!?」
角を曲がった辺りで、もう一体化け物を見つけてしまった。二体目の化け物もトリシャに気付いたようで、走ってこようとする。
後ろからは一体目。どこにも逃げ場はない。
「ええい、もう、なんなんですかぁっ」
一時しのぎどころか最終的には追いつめられそうだったが、一番近くにあった部屋のドアを開けて飛び込む。すぐさま鍵を閉めると、部屋の中にあった椅子や机をバリケード代わりに急いでドアの前に積んだ。
一度、二度、強くドアが叩かれる。背筋にひやりとしたものを感じながらもバリケードを完成させていると、ドアを叩く音は止んだ。
ドアを叩く音は止んだが、別の音が廊下からトリシャの耳に届く。
肉を叩きつけるような、なぐり合っているような、鈍い音だった。
何が起こっているのか気になったものの、部屋のガラスは擦りガラスになっていて見えない。謎の標本らしきものが並ぶ部屋の中を眺めたりしながら気を紛らわせていると、やがて外で鳴っていた音が止んだ。
「……行った……?」
バリケードにしていた机と椅子をどけて、そっとドアをわずかに開ける。
その瞬間、ねばつくようなにおいがトリシャの鼻に流れ込んできた。
「う……なんのにおいですか……これ……?」
隙間から廊下を覗き込む。
そこには、おびただしい量の赤いものがぶちまけられていた。
「血……? なんで……あの化け物、互いに仲間ではないんですか……?」
足音がしないのを確認してから、恐る恐る廊下に出る。にちゃりと嫌な音を立てて、白い足鎧の底部分が血に汚れた。
けれど、そんなことを気にしている余裕はない。いつまたあの化け物が出てくるのかわからないのだ。
……早く情報を集めないと。
混乱の中、決意は真実を知りたいという方で固まっていた。
少々弱気になってしまってはいたが、あんな意味ありげなメモを目にして、自分の出生の秘密のようなものを知って、それ以上知らないでいるなんてことが出来るわけがない。
それに。
「……どんな経緯だったとしても、私はこの世界に戻って来たんですから」
これも、旅の一部分だ。
知らなかった故郷を、知り尽くす。きっとこの旅はトリシャにとって必要不可欠。
なら行くしかない。
「よし! まずはさっきの部屋に戻ってもう一度メモを――」
『AIIIHIII……?』
見てみましょう、と拳を握って気合を入れた背後で、うめき声が聞こえた。
ぎぎぎ、と錆びた機械のような動きで振り返ると、そこにはべったりと体に血を付着させた白衣の化け物が。
「あの、ちょっと、待ってほしいというか、」
『GYYYY!』
「きゃああ――!? そうですよね待ってとか聞いてくれないですよねそんな感じですよねあなたたちって!」
悲鳴を上げ、逃げようかと思ったトリシャだったがすぐに考えを改める。
今ここで逃げたとして、目的地に到着したあとうっかり部屋に追い込まれたらおしまいだ。そもそも、いつまでも逃げられる相手ではない。
ならば、いっそ今ここで。
「……いけますか、私っ」
自分に問う。答えはない。震える両足を一度叩くと、筋肉が正常に動作するのを感じた。
大丈夫だ。行ける。そう信じて、トリシャは駆け寄ってくる化け物へと向き直る。
「きなさい! 甲殻魚の頭を割った蹴り、食らわせてあげます!」
『AAAAAA!』
醜い叫びを上げながら、化け物は頭部の一部分を裂くようにして露出させた巨大な口を広げて襲い掛かってくる。
その頭に、狙いを定めて、トリシャは足を軽く引き。
「――――っ!」
声もなく蹴りを放った。自分でも認識できないほどの速さで撃ちだされた蹴りは的確に バケモノの頭部を蹴りぬき、一撃で粉砕する。
飛び散った血が、トリシャの体を汚す。だが、トリシャはまだ気を抜いていなかった。
頭を潰したからと言って死んでいるかはわからない。一度その場で軽くステップを踏むと、ぐらつく化け物の腹部に狙いを定めて正面蹴りを叩きこむ。
声もなく、壁に叩きつけられる化け物。……もう、生きてはいないようだ。
「っは……っは……っはぁあ……。死んだ……はず、ですよね?」
数秒、化け物から目を離さずに警戒を続けるが何も起こらない。ようやく緊張を解くと、危うくその場にしゃがみ込みそうになってしまった。
「でも、行かないと、です」
とにかく、まずは部屋をあさりつつ父親を探そうと思った。
父親が隠していたであろうトリシャに関することで頭がいっぱいだったが、よく考えて見ればこんな異常事態、父親も危ない目に合っていると考えるのが普通だ。
トリシャがここに来てしまったのも、そのせいかもしれないのだから。
文句は色々あるが、それを言うのも含めて、父親を探せばいい。
「……よしっ」
膝に力をこめて立ち上がる。
そしてトリシャは迷いなく、廊下を慎重に進み始めた。
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