第三世界『空の世界 テソハノラ[tess-O-har-nola]』 その5

×トリシャ×


 空に浮かんでいるこの世界は、ただでさえ人間には生きづらそうな場所だとトリシャは思う。最初に出会ったニワトリ人間が言っていた。『人間なんかに負けたなんて言えない』というようなことを。

 つまり、この世界では人間は他の種族に押される立場なのだろう。

 空の世界では、歩くしかない人間に未来はない。定期的に崩れては生まれ変わる大地の前に、畑を耕すことも出来なければ大きなコミュニティを作ることも出来ない。

 けれど、そんな世界でも、知恵を絞って人の生きる場所を作ろうとしている人間がいる。


「……一体、どんな人たちなんでしょうか」


 老婆の家を出てから、ぽつりとつぶやき空を見上げる。

 トリシャは思う。この世界は、かつて自分が居た世界に似ていると。

 どこか閉塞的だ。空に浮かび漂う大地は、翼のない人間にとってはどこか隔絶を覚える作りで、なにかしら諦観を得てしまうような雰囲気がある。

 そんな世界で人に希望を与える。

 一体どうやって。

 どんな心で。


「楽しみですね、ケイ」

「観察が主かもしれないとはいえ、この世界で一番高い技術をもっているだろうし……オレとしては二重に楽しみだ」

「私はその辺りはどうでもいいですけど……あの、ところで一つ提案が」

「ん? なんだ?」


 歩みを止めたのを見計らって、特に恥じらうこともなく、トリシャはいつもの調子で言った。


「少し用を足したいんですが……トイレなんて無さそうですし、そのあたりのしげみで済ますしかありませんよね?」

「そういえば水飲んだものな。オレはトイレの必要ないからすっかり忘れてた。家出る前に聞けばよかったな、あったかはわからないが」


 トイレを探しているのだろう、少し歩を進めながらケイは周囲を見渡す。

 だがもちろん、それらしいものはない。


「外で用済ますのに抵抗あるなら携帯トイレでも出すが、どうする?」

「いえいえ、これも旅の醍醐味――とは違いますけど、初体験はなんでも貴重ですから。……あ、でも、トイレットペーパー的なものがあれば是非」

「わかった。……いや、待てよ。離れるのは少し危ないかもしれないし、オレも一緒に行こう」

「えっ?」


 流石に驚いて声をあげるが、ケイはいたって本気の表情だった。


「危険な虫やら生物が居るかもしれないし、さっきのニワトリ人間がいきなり襲い掛かってくるともわからないだろう? だから、オレも一緒に行く」

「あのー……流石に私も、その、用を足しているところをみられるのはちょっと……」

「大丈夫だ、杖の状態で行くから」

「いやそれ中身がケイってわかってるんですから意味ないですよね!?」

「だが襲われる可能性が無いとはいえないんだぞ? 大丈夫だ、目はとじておくから。危険な気配だけなら耳が聞こえれば十分だからな」

「うう……音を聞かれるのもいやなんですけど……」


 裸を見られたりするのは別にトリシャは嫌とは思わない。父親に散々見られているからだろう。だが、用を足しているところを見られるのは別だ。

 排泄行為は、女性としての羞恥とは別方向の恥ずかしさがあって、女性としての羞恥は薄い自覚があるトリシャでもためらう。

 恥ずかしい。

 すごく恥ずかしい。

 恥ずかしいのだが――危険があるかも、と言われては断りきれない。


「わ、わかりました。ちゃんと目、閉じていてくださいよ?」


 頬が赤くなるのを感じながら言うと、頷いてケイは杖の状態になった。空中に浮いていたそれを恐る恐る手に取ってから、並んでいる家の間を抜けて、茂みへとかけこむ。

 実は結構我慢していた。

 真面目なことを考えつつ、ちょっと内また擦り合わせたりしていた。

 適当なスペースを見つけて屈むと、地面にケイの杖を突き刺す。すると、ケイは蛇の頭を伸ばして、器用に異次元の中からトイレットペーパーを取り出し、その穴に首をひっかけた。


『これなら取りやすいだろ』

「ありがとう。……見ないでくださいね? 絶対見ないでくださいよ?」


 ホットパンツに手をかけながら、何度も念を押す。すると少しばかり面倒そうにケイはため息を吐いた。


『もう目は瞑ってるよ。まったく、お前も人間だったんだなメギストス。羞恥心の一切とは無縁なように見てたんだが』

「私は人間です。一番最初にそう聞かれた時に言ったじゃないですか」


 なんだか馬鹿にされている気がして小さく口をとがらせると、ふ、と小さく笑った。


『普段、あんまり普通の人間らしくないからついな』

「普通なんて、知りません。ケイこそ自分で自分のこと器械とか言っていたくせに、人間らしいとか普通とかそんな、人間らしいことあまり言わないでください」

『それは無理な話だ。オレは人間じゃないが、オレの中には人間があるのだから』


 ……人間が『ある』?


 妙な言い回しが引っかかったが、いい加減膀胱が爆発しそうだったので、最後に一言念を押す。


「絶対、絶対見ちゃダメですよ!」

『わかったわかった。あんまり念を押されるとそういう『フリ』なのかと思ってしまいそうだ』

「? フリってなんですか?」

「嫌よ嫌よも好きの内っていう、人間の身勝手さがよく表れた曲解を滑稽なものとしてコントに組み込んだ偉大な発明だよ」

「なるほど。勉強になりましたけど、『ふり』というものではないですから絶対見ないでください。あと出来れば音も聞かないで」

『そこまでするとオレがついてきた意義がなくなるだろう』

「と、とにかくあまり意識しないでくださいね!」


 パンツにかけた指に力をこめる。そして、一息の内にそれをずり下ろした。

 少々窮屈なので完全に脱いで片足にひっかけた状態に。股間周辺を包むものが何もないという状態になると一層周囲の視線が気になってきょろきょろしてしまうが、下腹部の風通しが良くなったせいで尿意はさらに増す。

 一応、パーカーの裾が長いからあまり見えないとは思うのだが。


『そうだ、出したものが流れていくかもしれないからパーカーの裾は持っておけよ。というか、出来るなら穴を掘ってから出すといい』

「そういうことはもっと早く言ってくださいよぅ! スコップあります!?」

『ほら』


 ちょっと離れた位置に開いた異次元の穴からスコップが落ちてくる。微妙に場所が間違っているあたり、どうやら本当に目は閉じているらしい。

 突き刺さったスコップを手に取って、素早く足元に穴を掘った。

これで裾にうっかりついたりすることもなく、ようやく用を足せるぞと思ったが、ふと、自分が掘った穴を見てトリシャは緩もうとしていた股間のあたりに力を入れた。


 ……た、足りますよね、この深さで?


 そもそも、人間の尿とは一回でどの程度出るのだろうか? 水洗式のトイレしか使ったことがないトリシャには、一度に出る尿の量がわからなかった。

 しかしそんなことを考えている間にも、尿意は限界を超えて膨らんでいく。気を抜いたら一瞬でダメになってしまいそうだ。

 しかし不安のせいで出すに出せない。

 変な汗が噴き出してきて、体重を支えている膝がかくかくと自分の意識とは無関係に揺れ始めるのを感じていると、ケイが心配そうに声を出した。


『大丈夫か? 近くにいるとやりにくいか、やっぱり』

「いえそんなことは……あ、ありますけど! そうじゃなく! そうじゃなくってですね!? ――人間の尿って一回で何リットルでるんですか!?」

『は? 確か成人の場合は二百ミリリットルから四百ミリリットルが平均値だったはずだが……』

「四百ですね!? 間違いないんですか!?」

『あ、ああ。間違いないはずだ』


 戸惑うケイに確認を取ってから、スコップを使って自分の堀った穴の深さを計測。さらに穴の縦と横の数値を大体算出して容量を計算した。


「容量1200ミリリットル強……!」


 安堵を得た途端、一気に股間から熱いものがあふれ出した。


「ぅんんぅ……っ! ふぁ……」


 ぴくんっ、と体を震わせて、全身の緊張が一気に解放される快感に浸る。じょぼじょぼじょぼ、と水音を立てながら一瞬穴の中に溜まり、徐々に土に染み込んでいく尿。

 どこか恍惚とした表情で、時折色っぽい時を吐き出す。

 やがて最後の一滴まで出しきると、ぶるりと全身を震わせ、長くため息を吐いた。


「はぁあ~……」


 ……トイレって大事ですねー。


 心の底から思いながら、ケイの蛇の首に引っかかっていたトイレットペーパーを取って後処理をし、ズボンを穿きなおす。そうしてから、しっかりと穴を埋めて証拠隠滅完了。


「終わりました、ケイ」

『そうか。この場で人間の姿に戻ってもいいか?』

「流石にそれはちょっと……離れてからにしてください。あとにおいとかかがないでください! ダメですよ!」

『かがないかがない』


 においとか気にされたら嫌だ――などと考えつつ、杖をひっつかんでそそくさとその場を立ち去る。

 そして少し離れた場所に到着すると、ようやく杖を離した。すぐさま、ケイは人間の姿に戻る。


「しまった、トイレットペーパー出しっぱなしだったな」


 蛇の頭にトイレットペーパーがひっかっかったままだったからか、頭だけ人間の形にならず奇妙な二首蛇人間状態で変身が止まる。慌ててトイレットペーパーを異次元に仕舞い込む様がおかしくて、少しだけ恥ずかしかった空気が和らいだ。

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