第二世界『海と漁の町 フォスクリウ・トア[foschriu-toua]』 その3

×トリシャ×


「トリシャちゃんの部屋はここね。すぐにお風呂の準備はするけど、入るわよね?」

「はい、よろしくお願いします」

「夕飯は――」

「食べて来たので、大丈夫です」

「そう? なら、その分の代金は引いておくわ。それじゃあお風呂が湧いたら呼ぶから、待っていてね」


 イリュが部屋を出ていくのを見送ってから、トリシャはベッドに腰掛けた。部屋の中にはベッドが一つ、小さなタンスが一つ、机が一つ。部屋の四隅には光る石が設置されていた。おそらく、魔石というものだろう。


「確か一つに触ると全部のオン・オフが切り替えられるって……わ、ほんとに消えた」


 起き上がって部屋の隅の石に触れ、何度か明かりをつけたり消したりしてみる。最終的に電気を消した状態で止めると、窓の方に近寄った。角部屋らしく窓は二面にあるが、開閉は出来ないようになっていた。そもそもガラスではなく、半透明の石を凝固させたような不思議な物体がはまっていた。ステンドグラスに趣は似ている。

 外の様子を見るためについているらしい木製の戸をあけて、外を見る。部屋は二階にあって、ちょっとだけ空が近く見える。

 空に月――は、ない。星はあるが、月らしい天体はいくら見回しても見えなかった。


「そういえば、夜空を見上げるのは初めてです」


 ふと気づいて呟く。まさか初めて見上げる夜空が、月の無い、星だけが散らばる異世界のものになるとは思いもしなかった。

 普通なら夜空を見上げてホームシックにでもなるのかもしれないが、いつもと違う部屋を眺めても、初めて見る夜空を見ても、初めて来た異世界の街並みを見ても、あの電子窓が一つだけあるただそれだけの部屋や、父親の事を懐かしく思えなかった。


「私……あの部屋、嫌いだったんでしょうか」


 ほぅとため息をつきながらふと思う。

 父親に、愛されていた。子供として、女として、体ごと全て愛されていた。彼はそうするしか愛する方法を知らなかったみたいだから、受け入れていた。

 どうにも、あの部屋を思うとトリシャの胸にはもやもやとした違和感のようなものが湧きだしてくる。夜空を見上げながら、ぼうっと自分の内側へ意識を深く潜らせその心理を探るものの、答えはない。

 おそらく父親への嫌悪ではない、というなんとも言えないヒントは手に入ったが、答えには程遠い気がした。

 あるいは、この気持ちこそがホームシックというものなのだろうか。

 わからない。

 わからない――


「私は知らないことだらけで困ります……ん?」


 重苦しくため息を吐くと同時、空に異変を見つけた。一瞬空間が歪み、ねじれ、空に真っ黒な月を現したのだ。

 ただ、それは本当に一瞬の事で見間違いかと瞬きする間に消え去っていた。

 あれも、この世界の常識の一つなのかもしれない。一体どんな原理かわからなかったが、夜空に一瞬だけ現れた空間のねじれによって生まれる真っ黒な月を瞼の裏に映して思い起こすと、何ともいえない高揚感が湧き上がってくるのを感じた。

 ホームシック云々はどうでもよくなる。まずは、この世界を楽しむべきだ。

 そう思いながら窓を閉め、パーカーと靴を脱いでから改めてベッドにダイブした。なかなかふかふかな感触の布団にごろごろしながら、今日の疲れを発散する。

 明日はおいしいものを食べよう、なんて考えながら。

 おいしいものがあるといいな、なんて考えながら。

 ごろごろと寝転がること数分、徐々にトリシャの動きは少なくなり、やがて小さく寝息をたてはじめた。よほど疲れが溜まっていたのか、ぐっすりと眠っている。


 そんな彼女を見守るように、部屋の壁に一瞬だけ、真っ黒な歪みが生まれた。

 先ほど天に現れた空間のねじれによる暗黒の月と同じそれは、しかしすぐ消え去る。

 誰も気づかないまま、小さな異常が世界に紛れ込み始めていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る