第2話 カインとアベルはひとつになれない
茶々の手にはいつの間にか臙脂色のノートが握られていた。金糸で飾られた、『三つの題名がある本』がここにある、茶々の思考が追いつかなかった。
嫌に高貴で、嫌にずっしりとした、なんの変哲もないノート。開こうと思っても、指が動かない。捲れない、中身が知りたいのに、表紙が捲れない。
周りは何もない暗闇で、茶々は自分がノートを見ることができるのが不思議なくらいだった。嫌に異質の空気を纏うなんの変哲もないノートを持ってただそこに佇んでいる。
「私は何も知らないの。知っているのはあなたの方でしょう?」
やけにか細いチトセの声が茶々の脳内で反芻する。
「なのにどうして「知らないフリ「私は知らない「あなたは知ってる「ユウセイさんも「マナミさんも「ソウタさんも「ユカリさんも「ショウくんも「何も知らない「知っているのはあなただけなんだよ」
一言ごとに大きくなっていく声量に茶々は耳を塞いだ。ぱたりと落とされるノートを誰かが拾って、ページをめくる。ぱら、ぱら、ぱら、とめくられていく紙の音が耳を塞いでいる茶々の脳髄に響き渡った。
びりり、びっ、びりぃっと、紙が破れる音がしたかと思うと、茶々の目の前にそれがぴっと突きつけられた。それは、有体に言って、市販の大学ノートと思しき紙切れ。B罫の隙間にびっしりと書き留められた文字が暗闇の中で煌々と浮かび上がる。
「なにこれ……」
「これはね、この『三つの題名がある本』はね……」
「――あなたの日記帳なんだよ」
目を見開いた。
「ユウセイさんとマナミさんの間に生まれたあなたは、マナミさんに執拗な虐待を受けていてね、ユウセイさんはそれに耐え兼ねて彼女と離別した。それからユウセイさんは新たに妻を迎える。それがほかならぬユカリさんだったんだ」
淡々と紡がれる声はさっきまで聞いていた、いやに落ち着いたチトセのそれで、目の前の誰かは耳を塞いでいる茶々の手を退けた。抵抗するも外された耳栓。そして言葉を繋ぎ始めるそいつ。
「それでね、ユウセイさんとマナミさんの間に男の子ができた。それがショウくんでね、君は彼をたいそう可愛がった。しかしそんな幸せは長くは続かず、翌年、あなたたち姉弟が直面したのはユウセイさんの死」
『死』という言葉に過剰な反応を見せた茶々をいたわるような声音に肩を震わせる。冷水を体中に浴びせかけられたように冷や汗で濡れた体を茶々は自らの手で抱きしめた。
暗闇が晴れていく。前にいる人物の顔がゆっくりと明らかになっていく。ぽとりと落ちた雫に目を丸くする。目の前の人物は涙を流している。
「辛かったね、おねえちゃん……」
いつの間にかはそこは簡素な一室。目覚めた時の森にあったような煤けたログハウスにいるようだった。木で作られた食卓の周りを四脚の椅子が囲んでいて、その先にはテレビと、実に簡易的なリビングダイニングに座っていた。
「それから程なくして、ユカリさんは新たに夫を迎えた。それがソウタさんだったんだ」
「『枢木チトセ』が『篠宮チトセ』になり、またその二人が離婚してユカリさんの『本郷』に変わったんだ」
「そこにいるチトセは『枢木チトセ』だった頃の君だ」
思考が停止した。
(……今、なんて言った……?)
「さあ、目を覚ますんだ。『チトセ』」
目が覚めた。
そこに広がる光景はいつもと変わらない、自室の天井だった。
勉強机に無残に放られたアルバムを見つけて、のそりと起き上がる。
目つきの悪い女性と温厚そうな男性が赤子を抱える写真が写っていた。さらにめくっていくと、小さな女の子の脇にあの男性とまた温厚そうな女性がいた。
「これ、ユウセイさんと、マナミさん、ユカリさん……?」
さらに下の写真は、少女が赤ん坊を抱えている姿だった。
「ショウくんは私の弟だったんだ……」
さらにページをめくると、不機嫌そうな女の子と笑顔の少年の脇に気難しそうな男性とユカリが写っていた。女の子の背はは前の写真と比べるとかなり成長していて、写真と写真の間には膨大な時間が挟まれていることがわかる。
「ちとせー、外にご飯食べに行くわよー」
母――ゆかりの声が聞こえた。
「はーい今行く!」
そう答えて階段を下っていった。
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