第1話 きっとそこにある愛読書

「おねえちゃん」

 その声に驚いたのか『私』は慌てて上体を起こし、きょろきょろと周りを見渡す。しかし周りには何も見えず、唯一捉えることができたのは前方にある高々とした落葉樹だけ。腹には葉が載っている。さっきの声を思い出しながら、それらを払っているとまたぞろ「おねえちゃん」と聞こえてきそうな気がした。

「おねえちゃん」

 聞こえた。今度はくっきりはっきり鮮明に明瞭に。後ろから聞こえたその声に振り返ると、ひとりの少女が立っていた。胸までの黒髪を二つに振り分け三つ編みにした女の子。いかにも裕福そうな服を着ているが、どこかの子女なのだろうか。それとも単に迷子か。

「あなたはどこから来たの?」

 『私』は意を決してその子に訊いてみることにした。まずは名前を訊くのが妥当だとは思うが気にしない。女の子は少し考える素振りを見せ、「あっち」と、正面を指差したそれは遥かまで続く樹林の先にある、冷帯に見られるような丸太造りの簡素な民家。ただところどころが炭化していて、火災をほのめかしているように見える。

「ここで何をしていたの?」

 そう『私』は訊いて、少女の足元を見る。足を傷つけるかもしれないというのに、平気に裸足で、そこらの草花を踏みつけていた。

 少女は『私』の質問を聞くと、さも理解不能と言いたげに首をかしげ、「何、って、おねえちゃん、決まってるじゃない」と穏やかに答え、

「おねえちゃんに、本を探してほしいの」

 と言って、いつの間にか『私』を据えていた模様付きのハンモックから手を引っ張り、強引にその上から引きずり下ろすという暴挙に出た。

 これには『私』も憤慨したようで、危ないじゃない、と少女を叱りつけた。

 叱りつけられてなおも少女はケロリとしていたので『私』は気味が悪く、少女の名前を教えてもらうことを優先的にした。

「あなたの名前を教えて?」

 と訊くと

「おねえちゃんは?」

 と訊き返され、想定外のことにたじろぐ『私』を逆に説教するように

「ひとに名前を訊ねるときは自分から先に名乗りなさいってママに言われなかったの」

 ときっぱり言われてしまったのでその言葉に唯々諾々として、自分の名前を紡ごうと思考回路を張り巡らす。

「あ、れ……どうして……」

 何回海馬にアクセスしても、自分の名前が、親から授かった大切な魂が思い出せない。どころか、いままで過ごしてきた記憶も、自分はどうしてハンモックで寝ていたのか、いやそもそも寝ていたのかという懐疑が脳髄を支配して。 

心なしか鼓動が激しくなって、息苦しくて、そんな『私』を諌めるように背中をさする彼女が何故か妙に疎ましく思えた。

「じゃあ私、おねえちゃんのことなんて呼べばいいのかな?」

 『私』の背中をさするのをやめた彼女がそう問うと、『私』は覇気のない声で

「好きに呼べばいいじゃない」

 と突慳貪に言った。その言葉の悪意を一切感じなかったのか、晴れ晴れとした笑顔で、

「髪の毛が茶色いから、『茶々』さん!」

 髪の毛が茶色い、その言葉が『私』――いや茶々の脳内に反芻する。手櫛で髪を梳いて毛先を見ると、ひどく乾燥した毛束が明るい茶色を呈していた。目の前の少女は黒髪なのに、自分の髪は茶色くて、なんだか貶されているようで不快だった。

「それで、その、『探してほしい本』ってどんなものなの」

 地面にぶつけた腰をさすりながら、これまたぶっきらぼうに茶々は訊いた。少女はうん、と発して、黒い水性ペンをにじませたような色合いのワンピースの懐から小さな一枚の布を取り出した。処々で煤けている、薄手の布に書かれた文字を茶々に見せる。

 【[三つの題名がある本]

 臙脂色にカバーを金糸で飾った表紙と、非常に薄いことが特徴の歴史書です。正式名称が三つ存在するので、この俗称として知られました。

 この世界が生まれた時から今日までの叙事が事細かく記された、若い男が作ったとされる日記のようなものだと覚えてもらえれば結構です。

 それはいつでも、どこにでもあって、そこにはない、所謂カミサマなのです、丁重に扱うようにしてくださいね】

 その記事が記してある下にはその本のイラストが描いてある。イラストが存在するということは、すくなくともその本の存在は確かなのだろう。

 少女はその布を小さく折りたたみ、懐へ仕舞いこんだ。そしてこほんと咳払いをひとつして。

「申し遅れました、私、チトセといいます。以後お見知りおきを」

 子供とは思えないぐらいに恭しく頭を下げた。


 チトセと名乗った少女は茶々の手を引いて立ち上がらせ、自分はずんずんと杜の奥を進んでいく。

「ちょっと、どこへ行くの!」

「本を探しに行く前に、『広場』で場所を聞かないと!」

 『広場』に向かって走っていくチトセの目はとても楽しそうで、文句を言おうとした茶々はすっかり意気消沈してしまう。流石は子供、鈍足である。

(私も鈍足だから、この子のことは言えないけど)

 五分ほど森を直進し続けていると、巨大な扉が見えてくる。分厚い鈍色の扉には小さな南京錠があって、それに見合う鍵がないと先には進めない。しかしチトセは焦る様子など微塵も見せず、扉の目の前まで走って行った。

 扉の前に着くなり、チトセはクルリと振り返って、

「おねえちゃん、その鍵貸して」

「鍵なんてどこに……」

 周りにそれらしきものは落ちていないし、茶々は鍵など持っていない。全身を見渡すも羽織った青いシャツと黒いTシャツ、ジーンズに靴しか見えない。だがジーンズに妙な膨らみを見つけた茶々はポケットをごそごそと漁る。

 白いレース紐の先に絡んだ扉と同じ鈍色を呈した西洋風のお洒落な鍵がジーンズのポケットに入っていた。

「鍵って、これのことかな――あっ」

「ん、ありが」

 礼儀知らずな童子がよくやらかすように、茶々の手から鍵をひったくったチトセは南京錠の鍵穴に差し込んで左へたおす。

 南京錠の弦が孔から飛び出し、音を建てて地面に落ちた。いかにも重そうな扉を一人で開けるチトセが気の毒で仕方なく手伝うが、二人がかりでもなかなか開かない扉に若干憤りを覚えて、力いっぱい扉を押し開いた。

「何をやっているんだい?」

 若い男性の声がしたと思うと、彼女達のうしろには男性にしては華奢な青年が立っていた。彼は茶々の姿を確認するとチトセに彼女は、と訊ねた。

「茶々さんです。本の場所が知りたいそうです」

「ふうん」

 青年は茶々を値踏みするように、舐めるように凝視した後、「小学校一年の担任の先生のあだ名は?」と問うた。

 そんなの、記憶のない茶々が分かるわけがない。頭を白くさせながら立ち尽くす茶々の服をチトセは引っ張った。そして、屈んで、と小声で呼びかける。膝を曲げて目線を合わせた茶々の耳元に

「あなたの小学一年の担任の名前は『松前ゆき』さん。みんなからは『まっつん』だったり『ゆっきー』だったりって呼ばれてたけど、どうもあなたは彼女のことを『まき』さんって呼んでたようだね」

と告げた。

 屈んだまま男性の方を見ると四角い携帯端末を操作していて、茶々らの動きを特に気にしてはいないようだ。

「まき、さん」

 小声で答える茶々を、ギロリと睨みつける男性は、操作していた携帯端末をチトセに寄越し、あの扉を開けて進んでいった。

「彼は『ユウセイ』さん。本を管理している人の一人だよ」

「ひとり、ってことは、ほかにも誰かがいるの?」

 扉の先には、さっきまでとなんら変わらない樹林が広がっていた。ただ違うことといえば。

 人が、いる。

 それをさも気にしないように間延びしたこえで

「そうだよ~。さっきの『ユウセイ』さんに、目付きの悪い女性の『マナミ』さん、あどけない男の子『ショウ』くんの3人です。ユウセイさんがナンバーワンだとすればマナミさんはツー、ショウくんはスリーなの」

と言った。森の中には舗装された道が1本とおっていて、その真ん中を歩く茶々らを、どこか高貴な服を着た紳士淑女が二度見をしていく。

「ねぇねぇ、あれチトセよね」「あの子は誰かしら」「ここに何しに来たんだよ」「さっさと帰れよ」

 そんな声もお構いなしに平然と歩いていくチトセと、気が重くなる茶々。チトセは気に留めるどころか道行く人々に手を振っていた。彼女の右手にはあの男から譲り受けた携帯端末を握っている。ときどきそれについているストラップをいじりながら、誰かと会話をしているようだ。

「もうちょっとで広場だよ。広場には高確率でマナミさんがいるんだ」

(こんな幼い子供でも敬語は遣えるのか。現代の子供は敬語に疎いと聴いてきたけれど)

 緩やかだった一本道が途端に急な坂になって、チトセは平気だとしても、二十路ともあろう茶々には少しきつい傾斜で、少し息が上がる。

「遅かったじゃない。お客様がみえたら早く迎えに行けと言っているでしょう。ほんとうに遣えない小娘」

 坂を登りきった小高い丘に立つ、スレンダーな女性。眼鏡をかけた目付きの悪い女が、茶々の手を引いていたチトセの頬を殴った。それも、何度も。チトセの頬は赤く腫れていて、茶々は思わず文句を言おうとした。

「いいんだおねえちゃん、私が悪いのだから」

 出逢ったばかりの無邪気さや強かさを感じさせないような冷たい声。その異変に気付いた茶々は乗り出していた身を引く。チトセは頭を垂れて、

「ごめんなさい、『お母さん』」

と言った。

「ここが『広場』だよ。みんなが集まるところなの」

 殴られた頬を摩りながら、小高い丘のことを語り始めるチトセ。でもやはり茶々はさっきのマナミという女性のことが気がかりで。

「ねえ、チトセちゃん」

「『ちゃん』はいらないよ。なあに?」

「さっきの、マナミさんって……」

「――あ、ショウくーん!」

 茶々の言葉を途中で遮って、チトセはショウと呼ばれる小柄な男の子のもとへ走っていった。ショウと呼ばれた少年はチトセが走ってきたのを至極めんどくさそうに顔を顰め、チトセを押し返す。

「その人が茶々さん?」

「そうだよ~」

「ユカリさん呼んでくるから待ってて」

 そう言うとパタパタとどこかへ駆け出す少年。『本』を管理しているという話は、彼の態度や言動を見るからになるほどとちょっと納得してしまうのはなぜか。考えあぐねていると、大人しそうな女性を連れてショウが戻ってきた。

「あら。あなたが茶々さん? よろしくね」

 随分間延びしたのんびりした口調の女性は童話に出てきそうな高貴なエプロンドレスを着ている。すっと差し出された手を握ると、どこか冷たいというか、現実味がないというか、そんな印象を受けた。

 いつのまにかまたショウがいなくなっていて、気づくとチトセの姿もなかった。

「あら……ソウタさんを呼びに行ったのかしら」

「ソウタさんとは、どういったお方で?」

 そう尋ねた茶々に対し、ユカリはこの世のものとは思えないものを見るように目を丸くさせていた。

「まあ、そんな堅くならなくてもいいのに。■■なのだから」

「え、今、なんて?」

「ソウタさんの話だったわね――あの人は私の……」

「言わないお約束でしょ、ユカリさん。本も渡していないのだから」

 いつのまにかそこにいたチトセによって言葉を遮られたユカリは不服そうに頬を膨らませた。

 パタパタとどこからかショウが戻ってきた。ひょろりとした背の高い男性を連れて。男性はショウに紹介を受けたあと、優しい声音で茶々に話しかける。

「君が茶々さんか。チトセが世話になったな」

「とんでもない、世話をしたのは私のほうだよ!」

 チトセが腰に手を当ててふんぞり返って、それをたしなめられる。そこで、茶々にひとつの疑問がよぎる。

「あの。あなたがたはご家族でいらっしゃるのですか」

 空気が凍った。

 チトセがユカリの手をとって、ユカリがショウの手をとって、ショウがソウタの、ソウタがチトセの手をとって、仲睦まじげに話しているのに、なぜか、何かが引っかかる。

(そうだ……チトセはマナミさんのことを、『お母さん』って呼んでいた――ただの仲のいい人たちってことも……)


「おねえちゃん、そんなことも知らないんだね」

「え……?」


「あなたは何も知らないのね、知らない振りなんかしちゃって」

「茶々さんはなんでも知っているのに」

「俺らは何も知らないのに」

「知っているのは――おねえちゃんの方でしょう?」

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