ストレーガの憂鬱
六平彩
序章
千咲は、朝、弟が学校へ出発するのを見届けると、決まって書斎に籠り、彼が帰るまでそこから一歩も出ないような生活を送っていた。しかし彼女は無職というわけではなく、フリーライターという文字を書く仕事で生計を立てる、いわば文人と呼ばれる類の人間で、朝から晩まで書斎にこもるのは仕事に集中する為であって、決して、決して、娯楽に打ち込んでいるというわけではない。
千咲は若干ひねくれているが、その根底は真面目で勤勉な人間であるため、週に二、三通送られる自らの崇拝者からの手紙を、寄せられる誹謗中傷で空いた心に染み渡らせるように、ゆっくりと噛み締めながら読み込み、そしてそれを箪笥の一角へ溜め込み、挫けそうになったときはそれらの存在を浮かべながらなんとかなんとか、ここまでやってきた。
千咲には発想力など微塵もない。毛ほどもないのだ。それは、いくら作家の端くれであれど致命的で、彼女はいつもそれで頭を抱え、依頼が舞い込んでも入稿〆切を高確率で経過してしまっていた。
彼女の家は、ほんの小さい古民家という外観を呈していて、こんな家にまさか作家があるとは思いもしないだろう。まあ、実際にここに住まい、暇という暇を塗っては書きつくっているのだけれど。
千咲は、同年代の女と比べるといくらか大人びていて、いくらか冷めた女性であることは、彼女の友人であれば皆知っていること。今更言うまでもない。
子供の頃は、早く大人になりたかった。
なりたくて仕方がなかった。
しかし、いざ大人になると、どす黒い感情が脳髄を駆け巡って、欲望が体中を渦巻いて、大人とは、人間というのは、こんなにも愚かなものかと愕然とした。憧れていた「大人」という存在をいつしか蛇蝎視するようになっていた。
だから彼女は、自分が大人だということを少しでも脳内から疎外できるように、自分の書く登場人物に自らを投影して、自らが20歳だという事実を消し去ろうとしたのだ。
自分を。
忘れ去ろうとしたのだ。
そんな閨秀作家を姉に持つ彼女の弟は、年端もいかぬ小学生である。純粋無垢で明朗快活な彼から日々への活力をもらい、自らが書いてきた過去の作品はほとんど、彼を題材にしたもの。
今回は『私』を書こう、と彼女が思ったのは、成人式を終えてから。
ハメを外した友人を見て、たいそう嘆かわしいと思った。
嬰児の頃は今のお前達の身長の半分にも満たなかったんだぞと、声を大にして叫びたかった。
物語の中でなら、子供でいられると思った。
それだけの軽い気持ちで構成された小説を、はたして自分は書き上げることができるのだろうかと、人ごとのように思った末、書き始めたのが――
「ストレーガの憂鬱」
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