エピローグ 第3話 鵜住慶司の場合


「ところで鵜住君、私は肝心な事を君から聞いていないことに気付いたのだよ」

「肝心な事?」

「肝心な事」


 茶道部の時間が終わり、了祐はぶつぶつと茅ケ崎に教えられた茶の淹れ方を呟きながら帰って行き、俺と茅ケ崎は角の喫茶店でコーヒーを飲んでいる。勿論頼んだのは三段のパンケーキ、俺は切って食わせる親鳥役である。茶もコーヒーも紅茶も飲める茅ケ崎は人生得してるよなあと、いまだに普通の緑茶はちょっと苦手な俺辺りは思うのだが、飲めるだけで好きだという訳でもないらしい。最強はコーヒー牛乳だそうだ。頷いてやらないでもない。カフェオレとはちょっと違う、あれが良いものだ。砂糖も入ってて風呂の後は消費したカロリーを全部補ってくれる。ただの牛乳でもフルーツ牛乳でも駄目なのだ。いやフルーツ牛乳も時々は良い。我儘な舌である、我ながら。

 それはともかく、四人掛けの一番奥の席に陣取った俺達は外からは多分見えないだろう。たまに帰り道に寄った同じ学校の女子生徒だって、気付きもしないことが多い。一度上級生に写真の子達だよね、と問われて、『やっぱり付き合ってるの?』と訊かれた事があるが、茅ケ崎は沈黙に徹し俺は何も言えなかった。何かを悟ったらしい先輩女子は、がんばれ男の子! と謎のエールを残して俺の背中を叩いて行ったが、俺が頑張らなければならないこととは一体何だろう。じつと手を見るが、茅ケ崎が鵜住君、と促してきたので、なんとなく俺が一口食ってしまった。

 絶望的な顔をされた。

 ちょっと可愛かった。

「酷いよ鵜住君、ばじるちゃんは泣いて抗議するところだよ。シロップとバターの境目の一番おいしいところを、どうして」

「そうか、一番いい所だったのか。それは悪かったけれど本気で泣くな。お前役者になれるぞ、そんな簡単に涙流せたら。モデルよりそっちの方が向いてるんじゃないか」

「たまにお母さんとかスタジオの人にも言われるけれど、流石に自由自在に涙が出せる訳じゃないよ。ホラー映画は最初から涙目であるけれど」

「お前、涙腺極端すぎないか。学校ではあれだけ嫌がらせさせても涙一粒だったのに」

「枕を濡らした事なら」

「嘘だ。お前の眼が腫れ上がってるのなんか、それこそ見た事ない」

「そんなに注意深く観察してるんだ?」

 ニヤリと涙がすっかり引っ込んだ眼で笑われて、う、と俺はその口をパンケーキでふさぐ。しかし確かに、三段積んで食べたい美味さだな、これ。コーヒーでも紅茶でも合いそうだ。パンケーキって発祥どこだろう。その地方によって合う物が変わるよな。まあ完全無視しても食える物は食えるが。だが抹茶には和菓子だ、それは譲らない。最近出来たどうでも良い信念である。三年になって引退するまで部費であの菓子が食えると思ったらわくわくする。閑話休題。

「で、何なんだよ、その『肝心な事』ってのは」

 学校では相変わらず三人でつるんでいることが多いが、部活後もたまにこうして茶をしばいている俺達である。肝心な事、と言われて思いつかない方が珍しいぐらいだった。小テストの範囲は教えてもらった。茶の入れ方も段々覚えて来ている。と言うか、茅ケ崎を見ていると覚える事が多いので、了祐ほど熱心に取り組まなくても良いと言うのが本音だ。あの日。初めて茶道部の部室である元宿直室に行った時、俺は失礼にもその茶を残してしまったのだっけ。まだあの頃は敷居も高く、作法もなってなかったし、茶菓子を食うタイミングも掴めていなかった。食いたいと思った時が美味い時、と言う諺もある。割とそれだった。

 あむ、と一口餌付けされてから、茅ケ崎は言う。

「鵜住君は私の事好きなの?」

 …………。


 あの時、了祐の部屋で俺は言ったのだ。どっちも大切な人間だと。しかし茅ケ崎は言葉にしていた。俺の事が好きだと。俺はその言葉を、あの日曖昧にしたままにしていた。気付かれたか、と言うバツの悪さを、もうひとかけパンケーキを差し出すことで後回しに――しようと思ったが、茅ケ崎は口を開けなかった。じっ、と見て来る眼差しは、逃げる事を許していない。女子って怖い、などと言って逃げる事も出来ず、俺はまた差し出したパンケーキを自分の口に突っ込むことにより物理的に口を塞いだ。あまい。うまい。そう言えばフランスにはモンサンミッシェルと言うそれはふわふわしたオムレツがあると了祐から聞いた事がある。こんな風にふわふわなのだろうか。

 ごくんっと飲み込んでしまえば、時間稼ぎは終わってしまう。眼を逸らさない茅ケ崎の態度は、まるで真犯人を追い詰める名探偵だ。悪いことはしていない。良い事もしていない。何の歌詞だっけ。灰は灰に。愛は愛に。俺はぼそっと呟く。

「……好きだよ」

「聞こえない。パンケーキ一欠けらたりとも、聞こえない」

「俺は、鵜住慶司は、茅ケ崎ばじるの事が好きだ」

 言わされてしまった感が拭えないが、頬は火照る。嘘じゃないからこその反応だ。くすくすくすっと、茅ケ崎は笑う。ああ、くすぐったいね、こういうの。言わされた方は、恥ずかしくってたまらない、こういうの。もしかして了祐が早めに帰ったのは、俺達にこういう時間を与えるためなのかもしれない。何と言うか、恋人同士の時間と言うのか。いや、俺が告白したのが今だから、今からが本当の恋人同士の時間なんだが。しかし高校生活はそう長くない。二年から受験の対策はしなきゃいけない。志望校はまだ特に決めていないが、それは了祐と茅ケ崎もそうだと言う。と言うか、茅ケ崎は進学する気すら怪しいらしい。先日有名タレントと共演した際気に入られ、事務所に入らないかと誘われたらしいのだ。ちなみに誤解を招かないよう言っておくが、相手は女性である。妹みたいで可愛いと、そろそろ長くなり始めた髪を撫で繰り回されたとか。しかしちゃんと櫛で直してくれたので――豚毛の櫛だったそうだ、手触りから変わるらしい――良い人なのだろう。お母さんとは道が変わっちゃうけど、それも悪くないかな、と言っていた。事務所もそう遠くではなく、電車で二駅だそうだ。スタジオは今まで使っていた場所と変わらない。これと言って専門的に勉強したいことがある訳でもないしね、と言われると、割と胸に刺さる物があった。なんでも追求したい了祐は大学に進学するだろう。才能を見込まれた茅ケ崎もそちらの方向に行くだろう。だが、ただ単にモラトリアムを伸ばしたいだけの俺のような奴が行って良い大学なんてあるのだろうか。

 もむもむとパンケーキを餌付けしていると、隣の席できゃっきゃとちょっと高い騒ぐ声が聞こえた。見て見れば、いつかの上級生だ。聞かれたのだろうか、ちょっと大きな声で言った告白は。彼女は笑顔でサムズアップしてくれる。ぺこりと頭を下げる。ああ、頬が熱い。衆人環視の中でちまちまパンケーキを黙々と切っていると、茅ケ崎までくすくすと笑いだした。

「ねえ、もしまだ進路が決まってないならさ、うちの工房継ぐって言うのは無しかな?」

「時計さんの?」

「車椅子用だから広く作ってあるし、弟子も欲しいなーって言ってたからさ。こぎんざし、って言ってたのは、あれお父さんの出身地の伝統工芸なんだよね。引きずり込めるなら引きずり込みたい、って言ってたから、最初はフリマからは始めれば良いだろうしさ。どうかな?」

「俺に小手先の事は――」

 出来るか。出来るわ。このパンケーキ切りに慣れた手なら、そう思える。

「……出来るか解らんから、取り敢えず週末とかに教えてもらいに行く所からかな」

「ヒーホー、良いお返事」

「ちなみに時計さんの出身地って?」

「青森。津軽」

 駄目だ、太宰治しか思い浮かばねえ。

「出来ない時は素直に解放しろよ」

「でもうちに来るのは止めないでね」

[お前って時々恐ろしく大胆だよな」

「ヒーホー、そんな鋼の心臓で無ければ芸能界に入ろうなんて思えないよ。もっともさっきまではガラスの心臓だったんだけど」

「?」

 首を傾げる。

 茅ケ崎は笑ってる。

「告白の返事を訊かないままなあなあの状態が続いたら、脈がないのかとも思っちゃうものだよ」

 それは確かに、悪いことをしていたかもしれない。

「悪かった」

「じゃあここ、ケーシ君のおごりね」

「一気に距離を縮めて来たな、茅ケ崎」

「うちに出入りするなら私の事もばじるちゃんと呼んで欲しいものだよ」

「ばじるちゃん」

「……ごめん、ちょっと私の心臓がやっぱり持たないから、名字で良い」

 ほんのり赤い顔をしたので、俺達は互いにカロリーを貪りあうようにパンケーキを互い違いに食った。

 恥ずかしいのはこっちだろう。なんだって希望した方が恥ずかしがる。ああ、喫茶店の一角で青春してる場合じゃないぞ俺。いつの間にかおばちゃんと店長に名前覚えられてコンビ扱いされてる場合でもない。恋人扱いされてる場合でもない。俺はそうじゃなくて、いやそうなんだけど、でももう少し穏やかで淑やかな関係を望んだのであって、こう言うのじゃ、こう言うのじゃ。


 かつんっとパンケーキの最後の欠片に、俺と茅ケ崎両人のフォークが突き刺さる。

 俺は手を引いた。茅ケ崎も手を引いた。

 数秒、時間が止まる。

 俺はナイフでその一切れを二切れにして、茅ケ崎に向けてやった。

 あーん、と口が開く。

 もう一欠けらは茅ケ崎が俺の口元に寄せた。

 初めての事である。

 ファーストバイトという奴だろうか。

 耳まで熱い。


「結構なお手前で」


 ぺこりと頭を下げられて、本当にこいつにはかなわないと知る。

 惚れた方が負けか。

 否、それならば。


「茅ケ崎、お前いつから俺の事が好きだったんだ?」

「そうだな、部室に来てお茶飲んでくれた辺りからかな」

「何でだ……」

「敷居が高いってみんな飲むことから嫌がるんだよ。でも飲んでくれた上で、残した。それは行儀の問題では悪い事だけれど、私にとっては珍しくて、面白い事だったんだ。まず試す。そして今やケーシ君は茶道部員だ。私にとって君の始まりは、大体あの辺りだと思う」

「それは――」

「まあそういう事なのだよ、ヒーホー。始まりはいつも雨」

「星を避けて。……ああ、だから、星なのか。俺のがま口」

「気付かれてしまった。古い歌知ってるね」

「お前の死語趣味と同じだ」

「まあ雨じゃなく、青空の時間までしか会えない、って事なんだけどね」

「その内星でも見に行くか? プラネタリウムだけど」

「ヒーホー素敵な提案」

 くふくふ茅ケ崎は笑う。最近はとみに笑顔が多いと気付いた。単に俺が茅ケ崎をよく観察するようになっただけかもしれないが。

「それまでに美容院行ってお洒落な服も確保しておかなきゃね」

「甘味には気を付けろよ」

「お母さん見てしっかり解ってるよそれは。だから甘い物は高校と共に卒業するつもりなのさ」

「それまでは食い続ける、って事か」

「イエス」

「俺も引き摺って」

「イエス。たまには粟野君も誘ってね」

「あいつは甘いの駄目だから、フードメニューの充実した店にしてやってくれ」

「ヒーホー」


 茅ケ崎が笑うので、俺も笑った。

 眩しいほどにマイペースに。

 彼女の華麗な日常は、続く事だろう。

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茅ヶ崎ばじるの華麗なる日常 ぜろ @illness24

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