第5話

 そんな事もあったよなあと思いつつも、俺は結局茅ケ崎を『そう言う』対象として見たことがなかった。小学一年の帰り道、あのパンが一つ足りなかった日。俺は通せんぼされて泣いていた。泥棒を通す道はありません。ぎゃはははははは。言葉は胸いっぱいに詰まっているに出る事はなく、ただ涙がだらだら流れた。

 そんな中、こっちに回れば大丈夫、と手を引っ張ってくれた女子がいた。十年前、名前も思い出せない少女だ。ただ、クラスメートだったのは覚えている。俺はその手に縋って回り道をした、が――。

「行けると思ったの? ばーか!」

 少女は豹変し、やはり道は通せんぼされていた。俺は泣きながらその一人を突き飛ばし、無理矢理走って家路についた。

 その日から、他人を信用しきれない。

 了祐にすら懐疑的な俺が、茅ケ崎をどうこうとは考えられないだろう。

 それは理屈の問題。

 では感情は?

 ホットアクエリアスを飲んだ少女。


「……ヒーホー」


 呟いて俺は部屋の明かりを落とし、寝る事にした。

 明日の相手は笛吹だな、なんて思いながら。


 茅ケ崎と特別な関係だとしたら、どうなる?

 そもそもそんな関係じゃない。

 これからそうなる未来はあり得ない?

 ……解らない。

 それじゃケーシは変わらないままだよ、と、了祐の声が空耳で聞こえた。

 確かに多分、十年立ち止まって来た俺は変わることが出来ないだろう。このまま、では。


「ああ、だから女子が茅ケ崎を遠巻きにしてるのか」

 次の日、俺より遅く登校して来るらしい笛吹をひっ掴まえると、どうやら事件の事は把握していないようだった。俺達の所為で光画部からも新聞部からも出禁を食らった割に飄々としているのは、性格の問題なんだろう。終わったら水に流す。自分が被害者でも加害者でも、良くも悪くも根に持たない。そして俺にコラージュ写真を差し出され、一言『美しくない』と言うのだ、このクラスメートは。

「不備ばっかり目立つゴミだね。確約して良いけど光画部は関係ないよ。こんな下手なコラージュ作るような不器用な奴はいなかったし、最低でも明度と彩度ぐらいは理解してる。田中だってもっと自然に作れるよ」

 光画部における田中の基準値が解らない。良い奴なのか、すっとぼけているだけなのか。

 となると、他にPCを持ってそうな部ってどこだろうな。広報は先生方が作っている物でモノクロだから、賞を取ったと言う俺達の写真が多少大きく載せられても大丈夫だろう。先生方。そうだ、教頭先生。職員室ではあの写真の事を、どう思っているんだろう。

「誹謗中傷の類ではありませんから、職員室での扱いは軽い方ですねえ」

 茅ケ崎が入れた茶を一口飲んでから、教頭先生は言う。放課後の茶道室、俺達は栗羊羹を食っていた。売り出し中だからと和菓子屋のおかみさんに頼まれたらしい。美味いから良いが。うまうま。そして茅ケ崎の眼が俺の羊羹を狙う前に食い切ってから、ぐーっと茶を飲む。最近この組み合わせに慣れて来て、茶菓子の偉大さを知った俺である。

「ただしプライバシーを侵害していることは確かです。私としては出来れば犯人に名乗り出て謝罪をして欲しい。茅ケ崎さん、靴の片方はどうなりました?」

「ヒーホー相変わらず見付からないのでスリッパを穿いています」

 茅ケ崎は云いながらも、靴の方は見ない。朝からずっと片方の靴が見付からないらしく、そのままスリッパを選んだ茅ケ崎をクラスの女子はくすくす笑い、上級生は不思議そうに見ていた。今時靴隠しとか、小学生かよ。まあ、半年ちょい前まで義務教育だったんだからこんなもんなのか。

「教頭先生、茅ケ崎の靴が見付かりました! 使っていない焼却炉から!」

「おやそれは良かった」

「ただ灰だらけなのと、刃物で付けたような傷が――」

 女子は因縁深い。自分に不利益があった訳じゃないのに空気に流されて残酷な事をする。まあ、男子だってそうか。気に入らない奴がいたらいじる。と言う名のいびりをする。幸いうちのクラスはそう言うのが無くて平和だと思っていただけに、茅ケ崎への攻撃は偏執的だった。多分雑誌のモデルなんて、女子には憧れなんだろう。自分は可愛いと喧伝できる。いつか茅ケ崎が言っていたが、女の世界はそれで結構恐ろしいらしい。その世界に足を突っ込んでるのがばれてしまった。職員も何も言えないような爆発だ。懐っこさは傲慢に。友人が引いて行っても平気でいられる強さは高みの見物に。悪い方に、悪い方にと向かって行く。だが茅ケ崎は反応しない。そうすれば泥沼になることが解っているからだ。たった一つの冴えたやり方、か。小学生の頃に読んだことがある短編SFだが、少女の選択は果たして本当に正しかったのだろうか。茅ケ崎の行動は本当に正しいのだろうか。誰にも干渉されない。どころか傷付けられる。手袋が分厚くなっているのを見て、そろそろ冬か、なんて思う。雪のあまり降らない大平洋側の平野部だから、今年もそうだろう。茅ケ崎はスキー手袋でも付けそうだ。おっと、それじゃあペンが握れないか。

 ちょっとだけ漏らした苦笑は、茅ケ崎を水場に向かわせる。飲み終わった茶器を洗うのだろう。やるよ、と俺は自分の茶碗と小皿を持って隣に立つ。夕暮れが早い。まだ五時なのに。まあ栗羊羹は完食したが。


 あ、と、茅ケ崎を見下ろす。

 ぱたっと水が落ちる音がした。

 茅ケ崎の目元が、赤い。


「ああ――ごめん、頼めるかな。ちょっと色々、しんどいみたい」

「茅ケ崎」

「何だろうね。悪い事をした覚えはないんだけど、どうしてこうなっちゃうかな。バイトだって学校に申請して許可を取って、仕事も増えて来て順風満帆って感じだったのに。お母さんを追い掛けるなって事なのかな。鵜住君。君はどう思う? 一連の騒動。私、誰かに何か悪いことしてたのかな。よく解らないから謝れもしないけれど、どうしたら良いんだろうね、こういう時」

 茅ケ崎は目を閉じ、上を見上げた。

 古い歌の歌詞のようだった。

 それでも涙は零れたけれど。


 俺は茶椀を置き、ぽんぽん、とその頭を撫でてやる。抱き締めても良いかなと一瞬思ったけれど、誰が窓から見ているか解らない場所だ。最低限の接触で涙を止めようとする。

 茅ケ崎は苦く、笑った。


「ごめんね。迷惑掛かってるの、鵜住君なのにね」


 俺は茅ケ崎を慮り、茅ケ崎は俺を慮っていた。

 男子の社会は殴って済む事も多いが、女子の世界はそうもいかないのだろう。

 自分達が男女である事を思い知る。

 さて、俺はこの感情をどうしたい?

 ――答えは、決まっていた。

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