第7話

 秋晴れの空は高く、明るいのに冴え冴えとしている。夏よりも薄っすらとした寒色は、白い雲がよく似合っている。鰯雲が流れる様子が、綺麗だった。晩飯は焼き魚が食いたい。

 興味の無いことなら、どんなに自分の近くでそのやり取りが起こっていても、受けることなく無視する。了祐には確かに難しいことだろう。こいつは蜃気楼で揺らいだ路傍の石にすら、謎を感じることが出来る体質だ。はた迷惑なことに、幼児的な訊き癖が、高校生にもなって残ってしまっている。

「例えばのオハナシ、粟野くんは王様ゲームって知ってるかなーなんて尋ねてみるのだけど」

「あの、籤を引いて王様を決めるやつ? 命令を一つ出来るって言う」

「ヒーホーその王様ゲーム。私の場合そういうゲームが心から苦手だったりするのです」

 茅ヶ崎はぢるるっと、ストローを鳴らす。

「自分が王様でない場合だったり、傍から見ているだけの立場だったらそれは楽しいゲームなのだと思うのだけどね。うっかり王様になると大変、何を言ったら良いのかまったく判らなくなる。場を白けさせない程度の簡単な命令、引かれないように無難な小ネタ。そういうものをどう考えたら良いのか判らない――つまり自分は、その遊びに熱中していないと言うことが露呈される。場に流されているんだったら、それこそ空気でなんでもない簡単なことを思い付けるはずだからね」

「それは、優柔不断って言うか性格の問題で」

「優柔不断になるほどの命題ではないにも関わらず、と言うのがミソなところなのです、ヒーホー」

「う」

「何も思い付かない一瞬の間で、空気が途切れる。何も言えなくなる空気の居心地の悪いこと悪いこと。自分がいかにノリの悪い人間であるのかを悲しいほどに自覚する」

 それは少しだけ、俺にも判りやすいのかもしれなかった。

 了祐に連れ回され始めた最初の頃は、俺もそんなことをぼんやり考えた――適当に納得すれば良い、無視すれば良いことを、延々と追い掛けてはトラブルに発展させ、自分の首を絞めるだけでは飽き足らず他人の首まで片っ端から絞めて回る。それでもこいつは反省もしなければ反骨精神をむき出しにするわけでもなく、ただ好奇心だけで突き進む。

 大概の事象に何一つ興味を見出すことなくその傍にいれば、嫌でも自分の価値観に疑問を持たずにはいられなかった。

 もしかしたら自分の方が変なのではないか、なんて。

 周りの反応を見るに、明らかにおかしいのは了祐の方だったわけだが。

「そんなわけで、あんまり物事に積極的に関わったり、関わったとしても動くのは、あんまり好きじゃない内向的な女の子に育って十六年の結果が現在のワタシの姿だったりするのです。ヒーホー」

 飲み終わったらしいジュースのパック、その真ん中を両手で潰し、茅ヶ崎はにっこりと笑って見せた。

 了祐はなんとも言えなそうな様子で、なんとも言えない表情を浮かべている。

 理解が出来ないんだろう。

 そんな些細なことを気にして、こんな些細なことに気を留めない、その理屈が。

「もしかしたら単純に天邪鬼なのかもしれないのですが」

「どっちでも僕にはばっちり理解不能だよ!」

『一年八組粟野了祐、鵜住慶司!』

 ぐわあッ! と粟野が両手を上げるのと同じタイミングで、放送が俺達の名前を呼ぶ。顔を上げて教室の前方にあるスピーカーを見れば、微かなハウリングが響いていた。なにやら荒い息遣いも聞こえる、チャイムも鳴らさずに一体なんだろう――ふっと過ぎるのは、嫌な予感。

 中学の頃、同じようなことがあった、それも複数回。

 俺達の名前はいつもワンセットで呼ばれ、だからこそ俺はいつでもとばっちりで巻き込まれる。

 つまり、渦の中心は俺ではない。

 消去法だ。

 茅ヶ崎が、くすくすと、笑う――ぴんぽんぱんぽん、と、チャイムが鳴った。

『一年八組粟野了祐くん、鵜住啓司くん。昼食が終わったら至急、職員室に来て下さい』

 打って変わったのんびりした声は、教頭先生のものだった。


 二人一緒に職員室に呼び出されて搾られると言うのは、実に一年振りの出来事だった。高校に入ってからは、初めて。懐かしさに浸るほど良いものでもなく、昼休みの貴重な睡眠充電タイムを根こそぎに奪われた俺は、立ちっぱなしだった所為で痛む足を擦る。

 五限目の現国が終わったクラスは、いつもとその雰囲気が違う様子だった。と言うのも、ひそひそとした小声のやり取りがいつもより多い。残り一時間になっているこの時間はいつも、もっとテンションが高いものだ。そして何より、こんなに教室の一箇所に視線が集中していることもない。

 斜め前の席では、了祐が背中を丸めてしょげている。呼び出し如きで今更凹むことはないが、いかんせん、新聞部本体から釘を刺されたのは痛かったらしい。団体内での立場が悪くなるのは一年生と言う下っ端時期では辛いものがあるし、何より、記事にはしないと明言されてしまったのが痛いのだろう。それはそうだ、学校新聞ってのはもっと無難でつまらないことを書く方が平和で良い。三面記事なんかどこにも求められていないし、まして、部員が生徒指導に引っ掛かるような取材なんて持っての外だ。

 だが、注目と衆目を集めているのは、背中を丸めている了祐ではなく、何事も無かったように五限目を眠りこけた俺でもない。昨日の放課後、東奔西走の聞き込みをした了祐の所為で主に美術部から――茅ヶ崎が、絵を裂いた犯人ではないかという噂が、昼休みで爆発的に広がっているのだ。

 俺達の呼び出しも無関係では、ないのだろうが。

 前の席の茅ヶ崎を、眺める。

 いつものようにその背は、しゃんと伸びていた。刈り上げられて丸っこい後ろ頭、白い項が見える。いつもの分厚いグレイの手袋は、ぱたぱたと次の授業の準備をしていた。削った鉛筆をノートに走らせて、先端を丸めている。まるでなんでもない様子だ。いつもは話に来る何人かの女子が遠巻きにしているのに、それも、気にしていない。小さな鋏で飴玉の袋を破り、口に含む。

「ヒーホー鵜住くん、あめっこ食べる?」

「味による」

「いちごみるく」

「甘すぎるから遠慮しとく」

「ヒーホー残念至極、粟野くんはいかが?」

「僕は甘いのダメだから良いー」

 まるっきりに、気にした素振りが無い。

 迷惑そうにするでもなく、不愉快そうなわけでもなく、面倒だというわけでもなく。

 関係ないんだろう。

 熱中してない、から。

 かと言って――この状態は、居心地が、悪い。

「まぁ、こっちの責任、か……」

 出しっぱなしだった現国のノートに身体を伏せて、俺はロジックの組み立てを始めた。


 茅ヶ崎の言うところの『王様ゲーム』と言う状況には、俺も覚えがあった。

 自分が日々の生活にまったく熱中していないと気付かされる、些細ながらも決定的なこと。

 それは小学校に入ったばかりの頃で、了祐とも今ほどつるむ機会はなかった。だからあいつが首を突っ込んでくるのも遅くて、渦の中心は、不本意ながら俺だった。事件と言うほどのインパクトもアクシデントもない、当たり前の日常の当たり前の出来事。給食のパンが一人分足りないとか、たったそれだけの。

 配膳室から持ってくるのは給食当番の役目で、俺も当番の一人だったから、勿論疑われた。どこかで落としたとか、くすねたんじゃないのかとか。誰もが知らないと答え、行き詰って、誰がパン無しの給食を食うのかで喧嘩にまでなりかけた。思えば下らないことこの上ないが、少し前まで幼稚園生だった連中のすることなのだから仕方ないだろう。

 誰が言ったのかは覚えていないが、パンを運んだのは俺だと言うことにされていた。

 本当のところはどうだったか覚えていない。当たり前のルーチンワークの中で、自分が給食当番の責務において一体何を運んだのかなんて、いちいち覚えているはずもなかった。だから事実運んだのは俺だったのかもしれないが、パンを盗んだのは、俺じゃない。そんな面倒なことはしない。

 でも、食うなと言われたのは俺だった。

 その時俺は一瞬だけ、抵抗しようとしたような気がする。何か反論して抗弁して理不尽だと訴えようとして、事実言葉は頭の中でいっせいに駆け巡っていた。だけど、それは何一つ口に出さなかった。ただ諾々と受け入れた。

 パンの一つぐらいがどうでも良かったわけじゃなく、

 単に面倒だった。

 そこにいること自体が、面倒くさかった。

 後で隣のクラスと数を間違えられていたことが判ったが、それも俺にはどうでもいいことだった。多分俺はその頃からずっと、少し腹の減った状態が続いているんだろう。だからカロリーを消費するのが面倒で、誰かに引き摺られても抵抗することすら鬱陶しい。何かしても何もしなくても、別にどうでも良いんだろう。沸点が高くて、熱中できない。熱量を無駄遣いしないように。

 それでも沸点に届いたら。

 そこに到達したら。

 仕方ないから――動いてみる。


 生徒指導室は教師が常駐しているわけではなく、必要な時だけ使われる反省部屋のようなものだ。そこには学校の資料や、進路用のパンフレット類が雑多に押し込まれている。進路指導室も兼ねている、ということだ。俺は去年の文集を取り出し、美術部のページを出す。新旧部長の作文。顧問はやっぱり、加糠先生――教員一年目とあるから、今年で二十四歳。

「十八……だから、六年前」

 遡った文集のやっぱり美術部のページには、先生が生徒だったころの作文があった。絵で受賞した云々に大分文字数が割かれている。読み飛ばしそうになったその最後に、俺は見覚えのある文字を見付けた。

「『今年は友達が事故に遭ったり大変だったけれど、こうやって賞を取れたことは本当に嬉しいと思っている』……と」

 そう言えば教頭先生が、この年は事故に遭った生徒がいたとか言ってたか。ぱらぱらと捲れば、寄せ書きのようなページを見付ける。元気出して、早く戻って来て。件の生徒に向けての言葉だろう、所属していた陸上部の部員かららしい。ぱらりとページを捲ると、そっちは、美術部からの寄せ書きだった。

 もう一枚捲ってみても、寄せ書きは無い。戻ってみても、二つの部活からだけだった。

 つまり――事故に遭った生徒と言うのは、美術部と陸上部の両方に所属していた、と言うことなんだろう。ぱらぱらとページを捲って、俺は生徒の名前を探す。確認を、しなくては。ロジックの強度を上げるためにはそう、しないと。

「佐屋秋乃」

 俺は文集を閉じて、部屋を出る。時間は五時前、まだ茅ヶ崎は茶道部の部室にいるだろう。今日も少し邪魔をして、和菓子を貰うか。思考の一端にそんなことを置いて、俺は脚を部室に向ける。了祐はそろそろ浮上して、またどこかで走り回っている頃だろう。メールを入れて息を吐く――論理を。ロジックを、繋がりそうな、糸を。

 運動部と文化部の両方に所属している場合、優先されるのは運動部だろう。特に陸上部なら、練習は全員で受けなきゃならないし、夜遅いとグラウンド自体が見えなくなる。文化部は悉皆、一緒の場所に集まっているだけで、やっていることは個別だ。融通が利くとしたら、後回しに出来る。

 仮定、佐屋秋乃は陸上部が終わった後で、美術部の活動をしていた。

 文化部も運動部も、終わる時間はそう違わない。運動部の方が少し遅いぐらいだ。つまり、彼女は一人で絵を描いていたと考えられる。誰も居ない美術室で一人、キャンパスに向かっていただろう。もしかしたら居残りで遅くなった結果が、事故だったのかもしれない。

 仮定に仮定を重ねるには、無理があるか。俺は目を閉じて、茶道部部室の戸の前に立つ。視覚情報をシャットアウトして――論理を、組み立てて。

 一人でいたとは限らない。特別教室には鍵を管理する人間がいる。部員が帰ってから佐屋秋乃がやって来るまで残って、もしかしたら彼女が帰るまで付いていたのかもしれない人間。教師かもしれないが、それにしては、拘束時間が長すぎるだろう。色々忙しそうだし。それなら、生徒だ。鍵を預かるのは部長。文集にあった言葉は、『友達』。

「おや鵜住くん、どうしました?」

「……あー」

 掛けられた言葉に目を開けると、教頭先生が俺を見て目を細めていた。

「今日も、お茶請けを片付けに来てくれたんですか? 残念ながら、今日は活動の無い日ですからお茶請けもありませんよ」

「そうなんですか……昨日店に行ってみたら、結構良かったんですけど」

「ええ、あすこは老舗ですからね。おかみさんにも愛嬌があって、良いでしょう」

 確かに、あの笑い皺の深い顔は人懐っこい感じだった。それとは別に、昨日買った栗饅頭もオマケのクッキーも美味かった。思い出したら無性に甘味が恋しい心地になった。俺は踵を返そうとしてふと思い立ち、ひょろりと身体の長い教頭先生を見上げる。

「お茶請けって、わざわざ届けてくれるんですか?」

「いえ、今までは朝に私が取りに行っていたんですが、今年からは近いからと茅ヶ崎さんが受け取って来てくれているんですよ。開店前だから少し早いんですがね」

「ああ、なるほど――あと、もう一つ」

「はい?」

 柔和そうな細い目の先生に、俺は言葉を向ける。

「加糠先生と佐屋秋乃、仲は良かったんですか?」

 先生は、苦笑した。

「……互いに切磋琢磨する、良い関係だったと思いますよ。しかし鵜住くん、どうして佐屋さんのことを?」

「気まぐれっぽいものです。ありがとうございました」

 頭を下げて、俺は玄関に向かう。ポケットの中では携帯電話が、粟野からのメールの着信を伝えて震えていた。軽く確認して返信、それから俺はぼんやりと空を見上げる。

 今日はチーズケーキとやらを買ってみようか、なんて。

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