第6話
後で調べたことだが、般若も顰も能面の一種らしい。どっちも凶悪な顔をした鬼の面だが、用途や来歴は違って、般若は情念から鬼に変化した人の形であり――顰は、本性からの鬼なのだと言う。理由無く、生まれついての鬼で、害悪。人に化けて騙しては、本性を見せて食ったり襲い掛かったりとの悪事を働いたのだという。
さっぱり意味が判らん。
帰りはいつもと少し道を変えて、茅ヶ崎が言っていた『角の喫茶店』とやらを覗いてみることにした。小奇麗な白い洋風の店で、窓にはレースのカーテンなんて掛かっている。俺には縁のなさそうな店だと思ったら、『ぜんざい始めました』と言う黒板が掲げてあった。
「…………」
隣を見ると、和喫茶店がある。こっちから流しているのかと思ったら二つの店はくっ付いていて、経営は一緒らしかった。旦那の店と奥さんの趣味とか、そんな感じのことを適当に想像する。ジキルとハイドか、この和洋折衷っぷりは。
和喫茶店のショーケースにはもなかやドラ焼きの詰め合わせに混じって、羊羹も並んでいた。サンプルは楓の葉が入っているのが見える。なるほど、ここから学校に差し入れているのか――栗饅頭が美味そうでたまらない。身体がカロリーを求めてうずく。
「よろしければ、こちら試食如何ですか?」
「ぇあ」
にこにこと笑い皺の深いおばちゃんが、カウンターからお盆を差し出してくれていた。買うつもりも無いのに試食をするのは悪いが、甘えさせて貰う。四分の一サイズの栗饅頭は実に甘い――が、すこし、スースーするような感じがした。良く言えば、清涼感があるような。
「これって、何か入ってんですか? ちょっと変わった味ですけど」
「ええ、ハーブって言うの? ああいうのをちょっと混ぜ込んでね。和菓子って水っぽいのがないとちょっと食べにくいでしょう、味が残っちゃうから。ちょっとアクセントをつけると、食べやすくなるのよ」
「なるほど」
確かにこれは食いやすい。一個百円か、試食を貰ってしまったのだからこれは食わなければなるまい。ならないに決まってる。
「単品で栗饅頭三つ、お願いします」
「はい、ちょっと待ってね。お兄さんクッキーとか平気? お隣の新作なんだけど、ちょっとお試し入れておくわね。はい、どうぞ」
にこにこよく笑うおばちゃんに釣られて笑い、俺は小銭を渡した。少し歩いてから袋を開けてみると、確かにクッキーが二枚ほど入った小袋がある。見てみると、真ん中にぽつんと桜の花びらが押されていた。なるほど、こうして共存しているのか、うまうま。
「何歩き食いしてんのさケーシ」
「んむ。やらんぞ俺のカロリー元」
「別にねだってないよ」
曲がった角の向こうで壁に寄り掛かっていた了祐を適度に無視して、俺はクッキーを頬張る。バターの風味が強すぎず、中には桜の塩漬けが混ぜられていて、中々に俺の好みの一品だ。美味い。この塩味も、食い易さを考えたものだろうか。
「ったく、僕はあっちこっちと東奔西走してたってのに、ケーシはまったり買い食いってどういうことなのさ。ケータイ繋がらないからここで結構待っちゃったよ、三十分ぐらい」
「ああ、電源入れ忘れてた」
学校では基本的に切ってる。煩いし。
脱力した様子の了祐がぶちぶち言うのを軽く流して、俺は適当に、首尾を尋ねる。別にどうでもいいが、愚痴られるのも煩い。それだけの話だ。
「そう! 例の加糠先生と、美術部の佐屋部長に色々とインタビューぶちかましてきたよ! なんかどっちもピリピリして怖かったけど、それが突撃取材の醍醐味ってもんだからね、いやーもう楽しくて楽しくて! いつ地雷を踏むか判らないこの感覚がたまらないよ!」
「はいはい」
「先生には職員会議ってことですぐ逃げられちゃったけど、美術部では色々と聞けてね。結構厳しい先生みたいだよ、って言うか、ヒステリック? そんな感じの評が多かったね。ぐいぐい自分のやり方を押し付けてくるって言うかさ。だから、あんまり評判は良くない感じ」
となると、個人的な怨恨を生徒から買ってる可能性もあるのか。なんて面倒な性格だ、もっと無難にすごせば良いのに。ヒステリックに押し付けるとは、一日にどのぐらいカロリーを消費してるんだ……もっとエレガントかつ省エネにすれば良いのに。適当に。
「それと新しい情報なんだけどね、茅ヶ崎さん、加糠先生に誘われた美術部への入部を断ってるんだって」
「んあ?」
ぱり、とクッキーが音を立てる。落ちそうになった欠片を、俺は手でキャッチした。了祐はふふんっと笑って、手元のよれた生徒手帳を眺める。生徒手帳をちゃんと手帳として活用する奴は珍しいと、実に適当な感想が脳裏に浮かんだ。だってあれ、使い難いだろう。
「四月の最初に、佐屋先輩への挨拶で美術部にお邪魔したらしいね。それでちょっとだけ絵も描いたんだって。中学では美術部だったから結構描けたらしくて、熱心に口説かれたんだけどフッちゃったんだってさ。『手袋の子』ってことで、美術部の人が覚えてた」
「ふーん……」
「ついでに茅ヶ崎さん、芸術の選択は美術ね。やってるのは水彩」
一年は芸術科目が選択性で、音楽、美術、書道がある。俺は音楽だ、汚れないし道具も無い。了祐は書道、レタリング修行の一環らしい。
「そんな感じで色々因縁は尽きないみたいだね! あ、例の絵はね、美術準備室に保管されてるみたいだよ。鍵がないと入れないらしくて見せてもらえなかったけど、先生が引き取って放り込んじゃったんだってさ」
「あっそ」
「それで、何か茅ヶ崎さんからボロは出た? ポロリと何か言ったりさ、出したりさ、うっかり凶器が出て来たりさ! ペインティングナイフだとかカッターだとかアーミーナイフだとか!」
どんな女子高生だ。
いや、持っててもおかしくないかもしれないと、ちょっとだけ思ったが。一瞬だけ思ったが。
「あー……甘党だ、すごく」
「真面目にやれ」
はたかれた。
地味に痛い。
少しは怒ろうかと思ったところで、了祐はちょっと待って、と本屋に入っていく。いつもの週刊雑誌の発売日なのだろう、あいつが本屋の行く理由はそんなものだ。手持ち無沙汰で、俺は並んでいる雑誌を右から左に眺めていく。詰まれた女性週刊誌が一冊だけ裏返って、口紅の広告を向けていた。これは地味な宣伝活動なのか、それともただ立ち読みされただけなのか――ぼんやり思考を遊ばせながら、俺は紙いっぱいに広げられたその手を眺めた。
…………。
羊羹食いたくなってきた。
次の日、朝の教室。後ろのロッカーに辞書を取りに行く茅ヶ崎の靴を、俺は踏んでみた。
――奴は豪快に顔面からコケた。
更に移動教室、チャイム寸前でやって来たその目の前で、ドアを閉めてみた。
――先日のように、足で器用に開けて閉めた。
昼休み、購買に向かうのをストーキングしてみた。
――購買のおばちゃんにガマグチを開けさせていたところで、後ろから腰を握ってみた。
「ケーシ、朝から何やってんの……」
明らかに不審そうな顔で俺を三歩引きながら見ている了祐を軽く無視して、俺はチーズ蒸しパンに噛み付いた。このふわふわ加減がなんとも言えず好きなんだが、囲んでいる薄紙にくっ付いてしまうのが勿体無い。言うなればカップアイスの蓋の裏に感じる哀愁のようなものか。無糖コーヒーを一口、一息吐いたところで、了祐の溜息に当てられる。
むっすりとした様子でぱたぱたと足を鳴らすのは、実に判りやすい苛立ちの表現だった。俺のだんまりが気に入らないのだろうが、今はまだ何も話すつもりはない。昨日は中途半端な理詰めで失敗したのだから、次は完璧のロジックで挑むのが、労力を最小限にセーブする方法と言うものだろう。予習を面倒がって何度もやり直す小テストよりも、一度の暗記の方が手間じゃない。
「ヒーホー、これは良い場所発見の啓示」
ガラリと開けられた空き教室のドア、覗いたのは茅ヶ崎だった。胸にはキルトの手提げ袋が抱えられている。足で開けたらしい戸をやはり足で閉め、彼女は俺達の方に足を進めてきた。近くの机に腰を下ろして、菓子パンを出す。見ると、手提げいっぱいにチョコやらキャンディの袋や箱が見えた。
甘党と聞いていたはずの了祐も、流石に絶句している。
俺は昨日の今日なので、特に感じることも無く。
「それで本日のちょっかいも、粟野くんの差し金と認識しといて良いのかなーと首を傾げてみるのですが、その辺如何なものでしょう鵜住くん」
「実は今日のことに限っては俺の個人的な実験だったりするとか言ってみたりする気配の予感」
「ヒーホー、ならそういう事で納得しておくテストプレイ」
「君たち、頼むから日本語で話して」
了祐の失礼な言葉に、俺達は肩を竦めて首を傾げる。
まじりっけなしに日本語なのに。
しかしあれだけ転ばされたり腰を握られたりしておきながら、こうして気にした素振りが殆ど無いと言うのも、中々に感情の沸点が高いことだと思う。やっぱり茅ヶ崎は俺と似たタイプなんだろう、ぼんやり思いながら、小さな鋏でパンの袋を切っていく様子を眺める。ソーイングセットに付いて来るようなサイズだが、どうにも形が変わっていた。先端がぷりっと丸くなっている――どこかで見たような、判らないような。
「茅ヶ崎さん、それって赤ちゃん用の爪きりなんじゃ……」
「ヒーホー。丁度良いサイズなので重宝しているのです、うっふり」
ああなるほど――じゃなく、切れるのかそれ。
すいすい裂いてはいるが、用途が明らかに間違ってるぞ。
「それで粟野くんは相変わらず、ワタシに何事か疑いの眼差しを向けているのでしょうかと訊ねてみるのですが」
「ぎっくー」
オーバーアクションで肩を跳ねさせる了祐の仕種に、茅ヶ崎はくっくっと小さく笑って見せた。それは了祐の様子がおかしかったというわけではなく、多分、自分が疑われていると言う状況を楽しんでいるんだろう。自分がやっていないと自覚しているからなのか、はたまた絶対にばれないと考えてでもいるのか。どっちにしても、こういう切羽詰らない様子でいるというのは、肝が据わっている。
冷静かつ具体的に考えれば、この件の犯人――絵を裂いた本人は、どういう処罰を受けるのか。学校と言う体質から警察沙汰にはならないだろうが、停学ぐらいは確実に付く。そうなると内申書にはしっかり記載されるから、受験や就職には絶対的な不利とリスクを負うことになるだろう。そういう火の粉を受ける立場にいるという自覚がないのか、あっても気にしていないのか。
茅ヶ崎は右手にカスタードパンを、左手にもなかを握っている。
――前者だ。俺は妙な確信を持って納得した。
「容疑者に対して捜査状況を告白することは無いのさ! って言うと、疑ってますって言ってるようなもんだしなー。茅ヶ崎さんとして、自分が疑われてるとしたら何か思うところはあるわけなのかな? 心外だとか、怒ってみたりとか、自首を考えてみたりだとかさ」
ニヤニヤと腹の黒い笑みを浮かべる了祐の言葉に、ん、と茅ヶ崎は視線を少し上げて見せた。食事の手を止めることはせずに宙を眺め、何か思考しているらしい。何を考えているのかは判らないし、何も考えていないのかもしれない。
「別に何もないと思うんだね」
「何も?」
「何一つも」
了祐は伊達眼鏡の奥で、小さく瞠目する。
俺は、茅ヶ崎の分厚いグレイの手袋を眺める。
ビニール袋を丁寧に畳んで、彼女は手提げのポケットにそれを突っ込んだ。ゴミ用として一つを設定しているんだろう。それから不意に手袋を、外す――分厚く太い毛糸、グレイのそれの下には、黒いシルクの手袋がもう一枚嵌められていた。パックのオレンジジュースにくっ付いているストローを丁寧に押し出して突き刺す様子は、妙にゆったりしていた。思考を纏めているのか、それとも。
覆面レスラーの食事マスクのような手袋は、いつものより少し短い。長袖のブレザーの袖から、白い手首が覗く。やっぱり長い、生命線。確かにこいつは百年近く生きるような気がする。
「何一つってのは納得いかないな。自分に何かこう、降り掛かってこようとしている災難って言うのがあるんだよ、茅ヶ崎さん。それに対する防御策、心構え、弁解、弁証、回避案、考えることはいくらでもあるはずなのに、君は何も考えてない。この件について自分が思うことは何一つないって、本当に心から神明に誓って言えるってのかな?」
「ヒーホー。粟野くんみたいに好奇心が人の三割増、傍目には三倍近いタイプの人は、意外なことなのかもしれないと思考してはみる。でも天地神明に誓って、ワタシ茅ヶ崎ばじるちゃんは、何一つ考えることも思うこともないと言っちゃえたりするのです」
俺は窓を眺める。
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