第5話

 甘いものは嫌いだが、それもモノによる。

 洋菓子のべっとりとした甘さは苦手だ。特に生クリームは吐き気がする。どうにも、あの甘いんだか甘くないんだか固体なんだか液体なんだか、冷たいんだかぬるいんだか、いまいち不明瞭でわけのわからない白い物体には、クリスマスのたびに悩まされてきた。バタークリームもチョコレートクリームも何もかも同じだ、頭痛すらする。甘党の母が言うにはきちんとした生クリームならそんなこともないだろうと言うが、主な食客である彼女は普通のケーキで十分なので、俺がきちんとした生クリームとやらを味わう機会はきっと永遠に無いだろう。

 が、和菓子はそれなりに許容が出来る。子供の頃に祖母が作ってくれたおはぎは大好きだったし、もなかや羊羹も平気だ。つまり、餡子には耐性がある。落雁や水あめなんかも好きだし、昔はべっこう飴を作って、台所を溶けた砂糖塗れにしたこともあった。と考えると、やはり、洋菓子――と言うか、あの脂っこさがダメなんだろうと思う。羊羹は美味い。渋い茶にも良く似合う。

「結構なお手前で」

「半分近く残ってるように見えるのは私の目の錯覚なのかと謎に思ってみたり」

「素人に抹茶様は敷居が高く存じます、殿」

「ヒーホー、切り捨て御免」

 くすくす小さく笑う茅ヶ崎に茶碗を返し、俺は崩した足を畳の上に放った。手は自然に茶請けの皿に伸びている。楓の葉が中に沈められた羊羹は、見た目も良いが味もすこぶるつきだった。カロリー摂取は良いものだと、心から思う。

 茶道部に所属している茅ヶ崎は、部活時間の六時までを茶道部の部室で過ごしている――とは、帰りのSHRが終わった後で彼女の後を着けている途中、本人に教えられたことだ。元々は宿直室だったらしい部室は少し手狭だが、日当たりは良く、居心地の良い和室になっている。週に一回は部員全員がきちんと集まるそうだが、普段は人が疎ららしい。事実、今も俺と茅ヶ崎しかここにはいない。

「しかし粟野くんにはびっくりした気分だね、本当に疑ってるとはちょっと思ってなかった心地だったりしてみる私だよ」

「奇遇だな、俺も同じことを考えてる」

「ヒーホーだね」

 いつもの無表情っぽい目元に口元の小さな微笑のまま、茅ヶ崎は笑みを漏らす。正座の姿勢を崩さずに、やはり茶請けの羊羹に手を伸ばした。はて気のせいだろうか、俺の皿には三切れだが、彼女の皿には六切れ見える。別に欲しいわけじゃないが、この差が余所者への挑戦なのか。そして、何故彼女はスプーンに羊羹を載せているのだろう。普通に爪楊枝のほうが食いやすいだろう、それ。

 放課後でも、手袋は相変わらずだった。茶を立てるのには水をよく使うようだが、やはりそのままに準備をする。多少濡れても気にしたことではないらしいから、確かに、潔癖症としては不自然だ。色の白い顔をしているから、多分手も白いんだろう。適当に考えながらその手元を眺めていると、僅かに覗いた手首の内側に縦の筋が延びていた。

 ……。

 生命線、長すぎだろ。

「中学では美術部だったんだろ。何だって高校は茶道部なんだ」

 二切れの羊羹をスプーンに載せて一口で食った茅ヶ崎は、ン、と小さく呟いてから軽く手を上げた。手のひらをこっちに向けて、『ちょっと待って』の合図。口に物を入れて喋らないのは感心だ、誰かに見習わせてやりたいと切に思う。

「羊羹うまうま」

「うまうまだな」

「そういうわけです」

「どう言うわけだよ」

 冷静に考えるとこいつの言うことは、いちいちよく判らない。

「ヒーホー、昔はここの茶道部って結構賑わってたらしくてね、その頃からご厚意で近所の和喫茶店さんからお茶請けを差し入れてもらってるんだって」

「ほう」

「でも今は活動日も少なくなってるから、ちょっと余ってるんだね」

「ほうほう。勿体無いな」

「勿体無いのです。だから食べるのです」

「食べるのか」

「食べるのです」

 ……。

「お前、甘党か」

「甘党なのです」

 茅ヶ崎は茶を啜る。

 理由はそれだけかよ。確かにこの羊羹美味いけど、それはいくらなんでもないだろう――呆れ掛けたところで、俺はふと思い出す。一限目の休み時間に茅ヶ崎は言っていた、角の喫茶店のチーズケーキのニオイがしたと。犯人が甘党だとしたら、それはこいつに当て嵌まるのだろうか。

 ……わざわざ犯人がそんなことを言うわけもないか。いかん、思考が了祐に毒されてる。カロリーを補給してこの疲れた状態を脱出させた方が良い、俺は羊羹を爪楊枝に差した。中に入った楓の葉が、ぷつん、と小さな歯応えを知らせる。

「念のために確認するけど、もしかして洋菓子は苦手とかそういうのは」

「甘いものは良いものです。甘くないものは悪いものです」

 抹茶の立場はどこにあるんだ。

 突っ込んでも無駄だろうことは言葉にしない、茅ヶ崎が更に二切れの羊羹を口に含んだところで、ドアがキィッと音を立てて開いた。和室ではあるが入り口はドアで、靴を脱いでから畳に上がる仕組みになっている。

「おや、入部希望の子でも来てるんですか、茅ヶ崎さん」

「ヒーホー、残念ながら食客希望のただ飯ぐらいです、先生」

 顔を出したのは五十がらみの男性教師だった。髪は殆ど灰や白になっていて、量が多いのか少し膨らんでいる。細い目元には銀縁の大きな眼鏡を掛けていて、優しそうな印象だった。よく見る顔だと思って、一瞬後で思い至る。教頭先生だ。顧問だったのか。

「食客ですか、また古風な言い方ですね……余っていますし、どうぞ、お好きに上がって行って下さいな。君は、鵜住くん、と言うのかな? 茅ヶ崎さんとは同じクラスだね」

 名札とクラス章を確認して、先生は微笑した。部屋の隅に積んである座布団を一枚引っ張ってきて俺の隣に座り、軽く会釈をされる。崩していた足を戻して、俺もそれに返した。少し皺の寄ったシャツとポケットに突っ込まれたネクタイの端が、結構動き回ってるらしいのを知らせる。

「ヒーホー、先生も一杯如何ですかと媚びてみる女子生徒」

「ああ、お願いします。今日は少し疲れてしまいましてね、朝から職員会議でしたし、これからまた臨時の会議ですから……甘いものもあると、嬉しいです」

「少々お待ちを」

 戸棚から新しい茶碗を出した茅ヶ崎は、部屋の奥にある流しでそれに水を張ってから、茶筅を漱いで水に漬けた。それから冷蔵庫に向かい、羊羹を取り出す。分厚い手袋のままスプーンで器用に皿に載せるのが、少しおかしかった。

「素地が湿るまで少々お待ちくださいませ、殿」

「すみませんね。やれやれ……」

 ふうっと息を吐いて、先生は眼鏡を外し、ネクタイの端で拭く。あまり綺麗になるようには思えないが、気分的なものなのかもしれない。朝から会議、また臨時、と言うぐらいだから、かなり疲れが来ているんだろう――ん。はて。もしかして会議の原因と言うのは。

「もしかして、あの絵のことですか? 会議って」

「ん? ああ、そうですね、君達は一年ですから見ましたか……ええ、朝からてんてこ舞いですよ。警察に届けるべきか、生徒の悪戯として片付けるべきかと。何分朝のことでしたから、不審者なのか生徒なのかも判らずね」

 確かに、それはあるだろう。朝の学校は無防備だ。忘れ物を届けに来る親もいるから見慣れない大人を弾くわけにもいかないし、何より、職員自体の集まりも悪いから目が足りない。それとなく茅ヶ崎の様子を伺うが、羊羹をまた二切れ平らげているばかりだった。茶もなしに胸焼けしないのか、そのピッチ。そして俺の茶請けを見るな。狙うな。先生のも見てやるな。

 失礼、と足を崩した先生は、また少し深い息を吐いた。一日中職員室にいるものだから、気を逸らす暇も無かったんだろう。ご苦労様だと、心から思う。寄る年波も合わせればカロリー消費は実に激しそうだ。

「職員会議って……確か絵を描いた本人がいるんですよね。その先生はどう言ってるんですか?」

「ああ、加糠先生ですね。彼女はあまり事を荒立てたくないようで、生徒の悪戯だろうと言ってます。でも、妙な時間帯ですから、そう決め付けるわけにも……」

 茅ヶ崎の登校時間から、了祐の登校時間まで。詳しいところは判らないが、大体朝の七時から七時半までと言ったところだろう。確かに妙な時間帯だ。

 入り易さで言うなら放課後の方が良いだろう。学校ではたまに保護者の講習会も開かれるから部外者も入りやすいし、教室に面した廊下は、放課後になるとひと気が殆ど無くなる。あえて朝、疎らながら生徒も教師もいる時間にしなくても良いはずだ。その時間でなければならない理由があったとしたら、それは、何だったのか。

 いけない。俺はふるふると、頭を振る。

 変な思考にカロリーを消費しては、いけない。

 温度を上げるな。

 沸点に届かせない、ように。

「ここだけの話ですが、私はあの絵が外されて、少しホッとしてましてね」

「ヒーホー?」

 茶碗の水を捨てに立ち上がり掛けた茅ヶ崎が小さく顔を上げると、入れられた水が手袋に掛かった。あちゃ、と言う顔をするが、それ以上のリアクションは無い。目を閉じて肩を軽く回し、教頭先生は首をぐっと逸らして見せる――俺は、それを見上げる。座高が結構高い。俺もそんなに、小柄ではないけれど。

「あの絵は高い評価を受けたものですし、良い作品だと思います。でも、あの年、女生徒が一人事故に遭ってましてね……療養のために、自主退学していたんです」

「それは――」

「いえね、別に関係はないんですよ。ただどうにも関連付けて覚えてしまいましてね、あの絵はあの年に描かれたものだ、あの年はこんなことがあった――ちょうど、プラスとマイナスだったこともありますが。あの絵を見るたびに少し思い出してしまっていたんです」

 茶碗にポットでお湯を注ぎ、茅ヶ崎は茶筅をシャカシャカと回す。この音は小気味良くて好きだ。耳に心地が良い、教頭先生の声に、少し似てる。しわがれているけれど明瞭で、ゆったりとした調子。

「犯人って、誰だと思います?」

 俺はなんとなしに聞いてみた。茅ヶ崎の反応が見たかったのかもしれない。

 彼女はいつもの顔で、くるくると茶碗を回していた。

「私は、そうですね――般若だと思いますよ」

「般若?」

「きっと、顰では、ないでしょう」

 先生は笑って、茶碗を回した。

 ふと視線を向けると、茅ヶ崎のスプーンが俺の茶請け皿に伸びていた。

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