第3話
覚えのある声に俺達が視線を向けた先には、茅ヶ崎が笑いながら立っていた。一人ではなく、上級生の女子と一緒。靴紐の色からして二年生だろう、こちらは茅ヶ崎と違って、むっすりと口元を結んで俺達を軽く睨んでいた。了祐は聞かれたことに少しだけ慌てた様子になるが、俺は別に疚しいことが無いのでどうもしない。はて、しかし、上級生は一体誰だろう。長い髪を真ん中から綺麗に分けられたワンレングスの広い額、眉間の皺が、実に際立っている。
「貴方達、そんなことで茅ヶ崎を疑ってるの? 変な推測は止めなさいよ、頭悪く見えるわよ」
少しだけ甲高い調子の声と共に、彼女は俺達の方にツカツカ歩み寄る。押し留めようと手を上げた了祐を無視して、彼女は俺の肩を軽く押した。そして、四角く跡だけが残っている壁を睨みつける。ゆったりと歩み寄ってきた茅ヶ崎はまるっきりいつもの調子で、腕を後ろに組みながら無表情気味の目と軽く笑った口元を俺達に向けていた。気を悪くしている様子は、ないらしい。
「ねぇ、本当なの? 絵が切り裂かれていたって」
上級生、名札を見れば佐屋とある。サヤ、で良いのだろうか。問い詰めるような口調の彼女に答えたのは、了祐だった。
「本当ですよ、朝に結構な数の生徒が見てました。顔の辺りがバツの字に切り裂かれて、ほら、カベのここのところにキズがある。強い力で、ガガッと……顔が全然判らなくなってたですね。ところで先輩、もしかして美術部長の佐屋雪枝さん、ですか?」
了祐は新聞部として、部長や委員長の類は大概顔と名前を一致させている。その他にも何かで表彰台に上がることのあった生徒は殆ど把握していた。記憶能力を変なところに割いていると俺辺りは勿体無く思うが、ごくたまには役に立つ。今みたいに。
頷いた先輩に、すかさず了祐は質問を畳み掛ける。
「飾られていた絵を描いたのは、確か六年前の美術部員でしたよね? OGとして美術部を訪れることとかありません? 何か伝わっていることがあったりしたら、是非教えて頂きたいんですけど――例えば怨恨関係に関して、とか! 何かそう、スクープの気配! そういうものを僕は激しく求めてッ」
「お前は少し黙っとけ」
とりあえず、後ろ頭を叩いておいた。
気を悪くされたかと先輩を見ると、思いの外に彼女は少し考え込んでいた。さっきの様子だと怒るかと思っただけに少し意外だ。後ろに控えていた茅ヶ崎もそう思ったのか、軽く首を傾げている。ほんの少しの間の後で、佐屋先輩は、了祐を見た。
「美術部に伝わってることと言えば、うちの学校で県の美術展まで行って高い評価を受けた唯一の絵だったことぐらいよ。絵に合わせて自分の髪を切って調整したとか、偉い画家みたいなことをしたッて話は伝わってるけど――」
「ほうほう、写実的にしようと言う試み……絵には厳しい人だったとか?」
「詳しいことは本人に聞いて、私だって当時のことは大して知らないんだから」
少しムスッとした様子の先輩の言葉に、了祐は少し目を丸める。
「美術部顧問の加糠先生よ、作者は。一緒に外されてるみたいだけど、絵の下にあったプレートに書いてたでしょう?」
「あれ、それは盲点……ああそうだ、ついでに茅ヶ崎さんにも、色々聞いて良いかな?」
「ヒーホー、別に構わないけど嘘もホントも言える自信はあんまり無い気分の女子高生、ワタクシ少女A」
「難しいこと訊くつもりはないから安心して良いよ」
茅ヶ崎の切り返しを華麗に無視して、了祐はニヤリと笑った。こいつのこう言う顔は意地が悪いと過去何人かが言っているのを聞いたが、俺はそう思わない。単に腹が黒いだけだ。あと、性格が悪い。
「僕が来た時にはもう絵が切られてたんだけど、茅ヶ崎さんは気付かなかった? ここって基本的に一年しか通らないから、他の学年の人は見ないんだよね。で、僕より早いのって君ぐらいだからさ」
「私が通った時は普段どおりだったと思う予感」
「何か気付いたことは? 誰かが走っていくのを見たとか、はたまた、気に入らないことがあったとか」
了祐の何か含むような言い方に鼻白む様子を見せたのは、先輩の方だった。何か言い掛けるのを茅ヶ崎は苦笑して宥め、んーむ、と考えるような素振りを見せる。肩を軽く上下させ、首を傾げる様子は、やはり――犯人らしくはない。そうだとしたら、ここは即答になるのが自然だろう。『何も無かった』『もう切り裂かれていた』それで十分の、返答なのだから。
「角の喫茶店のね」
「は?」
「ほら、校門出てちょっと行った所の角にお喫茶店さんがあるんだけど、そこのチーズケーキのニオイがした気がするような心地」
「それは……」
犯人がごく甘党で朝にチーズケーキを食っていたとでも言いたいのか。俺なら朝にケーキなんか食うのはごめんだ、低血圧も関係してあまり食欲が無いし、チーズは結構消化に悪い。それに、甘いものはあまり好きじゃない。そもそもこいつの登校時間に菓子店は開いてないだろう。なんだろう、このあらゆる意味で突っ込みどころを感じる返答は。面倒だから何一つ言葉にしないけど。
了祐も同じなのか単に聞き流しているのか、ふんふんと適当に生返事をしている。まあ、チーズケーキは犯人でも凶器でもないだろうしな。
「それ以外には何かない?」
「いつも注意深く見てるわけじゃないから判らない心地のばじるちゃん。でも、なんか引っ掛かった気はしたかも。だから今日はちょっと見たけど、いつも見てないから、判らない」
「傷が付いていたわけじゃない?」
「じゃない。なんだろう、睨まれてるような気が、ちょっとしたかも」
そこで始業チャイムが鳴り、俺達は教室に急いだ。ふわりと香ったハーブのニオイに振り向くと、先輩の髪が広がっている。シャンプーだろう、眉間に皺はあっても女の子の嗜みと言う奴か。小走りになりながら隣を見ると、茅ヶ崎は手を後ろで組んだままに走っている。こういう時は心から、変な奴だと思う。どんな桃白白だ。
「あの先輩、知り合い?」
「ヒーホー。中学の部活先輩で、家も結構近所だったりするかもね」
「ほう、部活。何の?」
「美術部」
閉まっていた教室のドアを足で器用にスライドさせた茅ヶ崎に続き、俺達もクラスに入った。
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