第2話



 茅ヶ崎はフルネームを茅ヶ崎ばじると言い、ヒーホーと言う奇妙な口癖を持つ女子だ。俺の知っている彼女はそれ以外の何でもない。高校に入ってクラスが一緒になり、二学期最初の席替えで俺とは前後の席と言う間柄になった。それだけで何か関係性が生まれるのなら、クラスどころか学校単位でどろどろした人間関係の飽和状態になっていなければならないだろう。中には週に一度は席替えをするクラスだってあるぐらいなんだし。


 確かにクラスの女子の中では少しインパクトの強い方ではある。名前も変わっていたし、何より、彼女にはちょっとした性癖があった。分厚い手袋を四六時中使用し、素手で何かに触ることが一切無い。食事も、二枚に重ねてある下の薄い手袋で行うぐらいだ。四月の最初はそれが奇異やからかいを呼んでいたが、本人があまりにも軽くあしらうために、今は誰にも気にされていない。そういう性格なのだ。


 俺が知っている彼女のことと言えばそんなものぐらいで、同じ一クラスメートとして了祐の知っている情報も大体同じぐらいだろうと推測出来る。そしてこの状態で、茅ヶ崎を疑う要素ははっきり言って見付からない。何故彼女が絵を切り裂かなくてはならないのか、それは飛躍しすぎた仮説としか思えなかった。

「ふっふっふん、それはひとえに君が握っている情報の少なさが問題なのだよワトスンくん」

「いつからモリアーティになったんだ、了祐」

「いやホームズと言ってよ! まあ、ケーシは朝遅いから知らないと思うんだけど、僕は結構登校時間が早いんだよねッてこと」

 何だそれは、と俺は小さくぼやいて了祐を眺める。時間は一限終了後、場所は廊下。絵が外された場所にはその跡が残っていて、黄ばんだ壁に四角く灰掛かった白が浮かんでいる。朝には出来ていた人だかりも今は無く、移動教室に向かっていく生徒の数名が壁を指して行くぐらいだった。

 インパクトの違いだろう、被害を受けたそのものがなければ、壁にシミがあるぐらいのことでしかない。その四角いシミを見詰めていた了祐が一点を示すのに、俺は目を眇めた。

「ほら、ここのトコにペケの傷がある。絵を切り裂いた時のものだね、つまり、かなり強い力でやったってこと……それだけの怨恨があったんだろうね、うふうふふ」

「気持ち悪い笑い方するな。それで、登校時間がなんなんだ」

「ああ、だから、僕は結構早い方なのね。具体的に言うと七時半にはもう教室にいる」

 SHRが始まるのが八時二十分、俺の登校時間が八時だと考えれば、確かにそれは早い。そんな早くから学校に来てこいつは何をしているんだろう、そんなに学校が好きなのか。一学期末のテストは惨憺たるものだった気がするのに。

「で、今朝もそうだった。教室に行こうとここを通った時にはもう絵が切り裂かれててね、ばってんに。先生に知らせずデジカメで撮りまくってたのは秘密なんだけど」

 言って了祐は学ランの胸ポケットから、名刺サイズの小さなデジカメを出す。高校の入学祝全額を注ぎ込んで買った曰く付きの、奴の分身だ。

「茅ヶ崎さんの登校時間は僕より早い」

「……そんな早くから本当に何やってるんだ、お前ら」

「僕は学校内を点検してスクープの元を探してるだけだよ、茅ヶ崎さんは知らない。とにかく僕より早く登校してくる人って言うのは、かなり少ない。ほら、僕ら八組だから、教室に行く時に殆どの教室の前通るでしょ? 僕より早い彼女って言うのは、かなり容疑が濃い」

「それだけ?」

「ちっちっち。一番に怪しいポイントを忘れちゃ駄目じゃないかケーシ、それじゃ名探偵にはなれないよ」

 誰がそんないかがわしい職に就きたいと願うのか。了祐はたっぷり含むように間を持たせてから、ふふんっと笑って指を立てた。俺は立っているのが面倒になって壁に背を預ける。足元がザリッと鳴ったのに視線を下げると、グレイのタイルにオレンジの粉っぽいものが落ちていた。

「僕達は日常過ぎてそれが異常であると忘れかかってしまっているけれど、彼女には実に疑うべき点が――って聞いてよちょっと! 何しゃがみ込んでんのさ!?」

「はいはい聞いてる聞いてる」

「嘘つくな! 凄い勢いで嘘つくな!」

 指先に取った粉はぱりぱりとして、少し大きな塊も指に押し付けるとすぐに崩れてしまった。赤や白、黒もまばらに混じっている。そういえば展示されていたのは油絵だった、絵を描いてる女生徒の自画像。何年か前に県の美術展で入賞した作品、だとか。裂かれた衝撃で絵の具が剥がれでもしたのか、膝を伸ばして立ち上がると、了祐に睨まれていた。探偵ごっこは良いが、聴衆役を求められても困る。知ったことじゃない。

「で、なんだって。茅ヶ崎の疑うべき点?」

「そう! なんてったって彼女、手袋してるんだよ!」

 そんなことは知っている。

 だからどうした、と言い掛けたところで、ああと俺は気付いた。つまり了祐はこう言いたいわけだ、彼女は手袋をしている、だから――

「指紋が付かないためのカモフラージュとして、疑いを持たれない人間だ。って言いたいのかな粟野くん、ヒーホー」

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