茅ヶ崎ばじるの華麗なる日常

ぜろ

第一部 第1話

 朝は苦手だ。

 元々あまり血圧の高い方でないのか、自分はひどく寝起きが悪い。通学途中に何度も転びそうになるし、気付かないで小学生や小動物、果ては電柱にぶつかりそうになることもけっして少なくはなかった。注意力が散漫になり、視界は限りなく省エネの狭さを誇る。だからやっと辿り着いた学校で教室に向かって歩いている時も、ともすればその廊下を塞ぐ人だかりに気付かず通り過ぎようとしていた。

「あ、おーいケーシッ!」

「……、ん」

 名前を呼ばれたのを認識する前に、俺は掴まれた腕を見ていた。落としていた視線を向ければ相手はクラスメートの粟野了祐である。そこでやっと、奴が巻き込まれている生徒の人ごみに気が付く。なんだってこんな所に人が集まっているのか、怪訝そうな俺の顔に気付いたのか了祐は伊達眼鏡の奥に満面の笑みを浮かべた。小柄で目が大きい所為か、そういう表情は余計童顔に拍車を掛ける。

「事件なんだよ、慶司」

 了祐の指先に釣られ、俺は視線の角度を更に上げる。

 飾られていた絵、女生徒の顔が、バツの字に切り裂かれていた。

「――興味無いから教室行く」

「ッて興味持ってよ、むしろ僕は満々津々なんだから付き合ってよ!」

 腕に引っ付いた了祐を引っぺがす気力も無い朝の時間に、そんな感情の起伏など生まれるはずも無い。俺はうんざりと溜息を吐きながら、やっとやって来た教師達が絵を外して持って行くのを眺めていた。


 SHRを挟んだ朝の休み時間は、その話題で持ちきりだった。いつもの三割増で騒がしい教室の中は、とてもじゃないが仮眠に向いていない。仕方なく目を開けていると、斜め前の席にいる了祐が椅子をずりずりと近付けて来た。前の席に座っている女生徒の頭を眺めて視線を逸らすが、逃げられるはずも無く――ぐい、と机を揺らされる。

「さあケーシ、高校生活も半年目にしてやっとミステリな日常に辿り着こうとしているわけだけど、何か思うところや感想は無いものなのかな?」

「うん、眠い」

「眠いはもう良い! 良いかい、これは我が校創設以来のミステリになる予感がする! 僕の新聞部としての勘がビンビンにそう言ってるね! 切り裂かれた絵、顔の無い女生徒、そこに纏わり付く愛憎とは一体!? 解決スクープ一面記事ゲット、それが僕の使命だね!」

 一面トップも何も、学校新聞には最初から一面しかない。そんなことを今更突っ込んでも無駄なのは百も承知のことだった。中学どころか小学校から付き合いのある奴のことだから、そんなことは火を見るより明らかである。一度点火スイッチが入ってしまったら最後、こいつには論理で説いても無駄なのだ。六十年近い学校史のすべてを暗記した上で創設以来のミステリを語るのかとか、そもそもただの腐れ縁である俺を巻き込むなとか。

 ぐぐぐッと握りこぶしを作ってあらぬ方向に思いを馳せている了祐を良い感じに無視し、俺は前の席の女生徒の肩を軽く突っつく。綺麗に伸ばされた背筋が、くるりとこちら側を向いた。鉛筆を握った手は、いつものように分厚い手袋で包まれている。十月の季節にはちっとも合っていない、太い毛糸で編まれたもの。

「ヒーホーどうしたのかな鵜住くん、残念ながら私はスクープに無縁な性格だったりするよ。なんてったって新聞は四コマとテレビ欄とお悔やみ欄にしか縁が無い」

「なんでお悔やみだ。いや、そうじゃなくて、国語の小テストの範囲頼む」

「だが断る。百二十一ページから百二十六ページまで」

「天邪鬼な君に乾杯」

「砂糖四杯のココアでよろしく」

 小さな笑みを見せて身体の向きを直す茅ヶ崎をちらりと眺めた了祐が、机に出していた俺のノートとシャーペンを手繰り寄せた。さらさらと示されるさかさまのメッセージに目を眇めると同時に、一限目の始業チャイムが鳴る。ずりずりと椅子を戻す様子を尻目に、俺は消しゴムで奴の言葉を消す。

 『じつは茅ヶ崎さんがあやしいと思ってる』、の言葉を。

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