一紗、誘拐される(二)
「――――よう、相棒」
死ぬほど聞き慣れたその声が、死ぬほど待ち焦がれていた人の声だと、この瞬間私は悟ってしまった。
なぜ。
どうして。
なんで。
疑問の言葉だけが声にならない声として、喉の奥から競り上がってくる。
ぼたぼたと涙を流しながら、ぽかんと呆ける私を見下ろして、ソージは不機嫌そうに眉を顰めた。
「俺以外の男の前で、なに勝手に泣いてんだよ」
「…………は?」
「くそ。大豆持ってくればよかった」
……こいつが何語を喋っているのかわからない。いやそれよりも、浪士組に参加しているはずのこいつが、どうして深川なんぞに出没したのだろう?
「お前、言ったよな?」
「へ?」
「お前の悪事の片棒を担ぐのが、俺の役目だって。だったら、俺の悪事の片棒も担いでくれるな?」
「は? あ、悪事って、なに?」
「今からお前をかどわかす。――――京までな」
その言葉に、いったん小雨となった涙が再び本降りとなった。鼻からも白い液体を垂れ流す私を見て、ソージの口元が引き攣る。
「か、担ぐ。片棒と言わず、全部担いでやる。だから私を、京までかどわかして……!」
涙と鼻水を飛ばして答えれば、ソージがにっと満足気に笑った。
完全に状況についていけていない様子の鈴木さまに向き直ると、私の手をとりながら挑発的に笑う。
「そういうわけで、こいつは京に連れて行くから。残念だけど、嫁なら他を探して」
「君は……」
「あと、こいつの不細工な泣き顔も早く忘れてね」
仮にも女に向かって不細工とはなんだ!
文句を募ろうとした声は、頭上から降って湧いた怒鳴り声に掻き消された。
「厭な予感がして盗み見をしてみれば……! 宗次郎! あんた、こんなところで何やってんだい!」
地獄の閻魔さまにも負けない金切り声を上げるのは、頬を上気させて怒り狂うおかみさんだ。やばい。最後の最後で、一番厄介な人に見つかってしまった。だが、幸いなことにおかみさんがいるのは二階の座敷だ。走って逃げれば、私たちに十分に分がある。
「ソージ! 走るぞ!」
掴まれていた手を掴み返して、春の色どりが溢れる庭園を抜ける。途中、走るのに邪魔くさい裾を太腿あたりで絡げてしまえば、頭上で「ぎゃっ」と悲鳴が上がった。
「一紗! あんた、仮にも女がなんて恰好をしてるんだい!」
「おかみさん! 私は確かに仮にも女だけど、やっぱり女子の幸せなんていらないや! 私は、私の幸せを掴んでくるよ!」
重い頭も邪魔だ。櫛や簪をぽいぽい投げ捨てながら疾走する私に、もうおかみさんの怒鳴り声は届かなかった。代わりに届いたのは、疲れたような、呆れたような声だった気がする。
ソージと固く手を繋ぎ、富岡八幡宮の参道を疾走する。来る時は気づかなかったが、参道は一面桜色に染まっていた。桜の道を踏みしめながら疾走する私に、道行く人がぎょっとしたような視線を投げている。だが、幸福感に打ち震える私は、自分のあられもない姿になどまったく頓着していなかった。
だからだろう。完全に浮足立っている私に、ソージの容赦のない鉄拳が落とされる。
「この莫迦猿! 少しは恥を知れ! 恥を!」
「で、でも……こんな長い裾じゃ走れねえじゃん。くそ、袖も邪魔だな」
「こんなこともあるだろうと思って、ちゃんと着替えを用意してきた俺に感謝するんだな」
ソージが背負っていた風呂敷の中には、私がいつも来ている小袖と袴が入っていた。手頃な木陰に隠れて着替えようとする私をソージは止めたが、一刻も早くこの動きにくい着物から逃れたかった私に、場所を選んでいる余裕はない。いそいそと早着替えを済ませてしまった私に、ソージが重い溜息を吐く。
「……少しは俺の気持ちも
「おもぱか? なに言ってんだ、お前」
仕上げに浅葱色の髪紐で髪を一つに括れば完成だ。いつも通りの山猿姿に戻った私を、ソージはどこか眩しそうに見つめた。
「あのさ……どうして来てくれたの?」
縁談の席にソージが迎えに来てくれたことは、素直に嬉しい。「京までかどわかす」と言ってくれたことも、死ぬほど嬉しい。だけど、あれほど私の京行きを反対していたやつが、どうして急に態度を変えたのだろう? 私がこのまま一行と合流したところで、若先生をはじめとするみんなは許してくれるのだろうか?
ひと嵐去って急に不安になった私は、もじもじとしながらソージに尋ねる。足元で淡い桃色の花弁が舞い上がったのを合図かのように、静かな声がそっと落ちてきた。
「俺、元服したんだ」
「え? えー……と、おめでとう? 月代には剃らなかったんだ」
「断固拒否した。歳三さんは面白がってたけどな……。で、元服した暁に、名を改めたんだ。
「え、ちょっと待って長……ソージ? お前、本当にソージって名にしちゃったの?」
「そうだよ。これでやっと、お前に本当の名を呼んでもらえると思ったのに、肝心のお前が隣にいねえんだもん。……そう思ったら、身体が勝手に動いてた。平助にもハッパかけられたしな」
そう苦く話すソージの口の端は、よく見れば血が滲んでいた。少々腫れている気もする。
「殴られたんだよ」
「は? 平助に?」
「そう。いつまでも格好つけてないで、さっさと一紗を連れて来てください、だと」
「別に格好つけていたわけじゃねえけど」と、桜色の並木道に独白にも似た声がぽつりと落ちた。
「……怖かったんだよ。これから俺たちは、物見遊山で上洛するわけじゃねえ。この命を懸けて、公方さまと市井の民を守るために上洛するんだ。そんな危ねえ場所にお前を連れて行くくらいなら、江戸に置いていこうと思った。それは、みんなも同じ気持ちだよ」
「ソージ……」
「江戸に戻って来るのが何年後、何十年後になろうとも、お前が他の男の嫁に落ち着いていようとも、無事ならそれでいいじゃねえかって自分を納得させたのに――……」
「ソージ」
唇を噛み締めるソージの話をぶった切ると、白皙の頬に容赦のない平手をお見舞いした。
――――ぱしん!
蒼穹の空に、小気味のよい音が伸びる。
「いっ……てえ!? はあ!? なんで殴った!?」
「人を勝手に京で死ぬことにすんじゃねえよ」
「だから、そういうことだって――」
「忘れんじゃねえ。私は強いんだ。それはお前が一番よくわかっているだろ? 相棒」
にっと自信満々に微笑めば、ソージの顔が諦めたように緩んだ。まるで思い詰めているものが落ちたかのような顔に、もう一度力強く笑う。
「私は強い。だから、私の道は私が決める。――……お前たちとサヨナラするのは、今じゃない」
「一紗……」
「行こうぜ、京。そんで、若先生とトシゾーの夢を叶えてやろう。私を京まで攫ってくれるんだろ? 総司」
にっこりと微笑みながら手を差し出せば、総司はやがて諦めたように手をとってくれた。その重ね慣れた熱を、もう二度と離さないと、浅葱色の空に誓う。
「はあー……若先生と歳三さんに怒られる……」
「一緒に謝ってやるから心配すんな」
「謝って済む問題じゃねえよ。……それはそうと俺、お前の縁談をぶち壊した謝礼が欲しいんだけど」
「相変わらずちゃっかりしてんな……。しゃーねえな~。行きがけに八幡さまの桜餅でも買ってやろうか?」
「んなもんより、もっといいやつが欲しい」
甘党の総司に「もっといいやつ」なんて言われる代物などあったっけ?、と思った瞬間、繋いだ手を強く引かれて。
気がついた時には、唇に柔らかいものが触れていた。
「へっ。今時の若いもんは大胆だねえ~!」
露店を開いている様子の親父が、顔を苦く歪ませながらヤジを飛ばす。往来を行き交う花見客からも、ひゅーひゅーと古典的な囃しを受けていた。
「はああああっ!?」
はじまりの空に、私の間抜けな悲鳴が高く上がった。
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