一紗、誘拐される(一)
浪士組上洛の日は、如月(二月)の八日と決まった。
そして、縁談相手との顔合わせの日も、如月の八日に決まった。
正直、ほっとした。みんなの見送りに行かないでよい、体のよい予定ができた。私を置いていくやつらの見送りなど、死んでも行くもんか。あんなやつら、気にしてやるものか。
そう心に決めたものの、どうしても気にしなければいけない問題が一つ残っている。トシゾーが、お琴さんと所帯を持つという話だ。
「あん? そんなの、破談になったに決まってんだろ」
いやしゃあしゃあと言ってのけるボンボンを、渾身のグーで殴りつける。
「てめっ、何すんだよ! 親にもぶたれたことがない顔を!」
「うるせえ、黙れ。てめえ、私のお師匠さんを弄びやがって……!」
「待て、待て。縁談を断ってきたのはお琴の方だよ!」
もう一発殴りつけようとした手を止める。胸倉を掴んだまま詰め寄れば、鼻から赤い液体を流したトシゾーが喚いた。
「上洛をするなら、この話はなかったことにって言われたんだよ! あなたの重荷にはならないから、京で心置きなく活躍してくださいって!」
「それは……お琴さんは江戸でお前の帰りを待っているってことか?」
「待たなくていいって言ったよ。俺だって、あいつの重荷にはなりたくねえ」
鼻から血を流している間抜けな姿でも、今のトシゾーは格好良かった。
胸倉から手を放すと、地面にずるずると座り込む。脱力した私を、トシゾーが咳き込みながら見下ろした。
「……私も、待たないからな」
「山ざ――」
「お前らの帰りなんて、待たないからな! 京でもどこでも、勝手にのたれ死ねってんだこんちくしょう!」
ちゃちな暴言は、赤子の駄々と一緒だということはわかっていた。
でも、止められない。この悔しさを、抑えられない。
「……約束、したのに」
トシゾーを置いて逃げだした中庭の桜の木の下で、ずるずると蹲る。今年はずいぶんと早く蕾が綻び始めた桜の木の下で、きつく唇を噛み締めた。
――――約束、したのに。私が、あんたの右腕になるって。
武士になるという夢は、私が切り開くつもりだったのに。
あいつらは、あの約束をなかったことにして、私だけを遠い江戸の地に置いていく。
「女だから、なんだってんだよ……っ」
若先生たちが私を置いていくことを決めた理由は、痛いほどわかっていた。だけど、理解はできない。男だから、女だからなんなんだ? 女だから、刀を持っちゃいけないのか? 男より先に死んじゃいけないのか?
「……そんなの間違っている」
幼い時分から、厭というほど言われてきた区別。私と、ソージの差。私はそれが、悔しくて悔しくて堪らない。
あの日、ソージに掴まれた両手首のぎゅっと握り締める。力の加減を完全に失念していた莫迦のせいで、見事な痣になっていた。
「……一人だけ、男になりやがって」
幼い頃は、何でもソージと一緒だった。でも、大人になるにつれて、その差異は確実に現れていた。
でも、だからって。私は女という理由だけで、ソージの隣を簡単に明け渡さなくてはいけないのか。若先生とトシゾーの夢を切り開く、という私たちの夢を、諦めなくてはいけないのか。
「ばかそーじ……」
悪態をついたところで、返ってくる言葉はない。いつもなら、間髪入れず返ってくる悪態がないことに、じわりと目頭が熱くなった。
「ねえ、一紗さん。本当に京へは行かないの?」
薄情なソージやトシゾーと違って、三人組はそれとなく私を京へと誘ってくれた。中でも一番熱心なのが平助だ。毎日のように私の元を訪れては、「京へ行かないのか」「一緒に京へ行こう」と誘ってくれる。――――のだが。
「……平助の一存で行けるわけねえじゃん」
「だから、俺が若先生と土方さんを説得してあげるって!」
平助の熱意は嬉しい。だけど、同時に思ってしまうのだ。どうして“それ”を言うのがあいつではなく、平助なのだと。
「……どうして」
「え?」
「どうしてそれを言うのがお前なんだよ~っ!」
じわり、と目尻が熱くなる。悟ってしまった。私が“それ”を言って欲しかったのは、他でもない、ソージだ。人の心を乱すだけ乱して、最後はあっさりと手を放しやがったやつに、「一緒に来て欲しい」と「俺にはお前が必要だ」と、言わせてみたかったのだ。
「か、一紗さん……っ」
私が泣いているとでも思ったのだろうか。いや、実際泣きそうなのだが、まだ泣いていない私に、平助が焦った声を上げる。と思いきや、
「ぎゃ! 痛いっ!」
突然上がった悲鳴に顔を上げれば、どこからともなく飛来してきた白いものが、執拗に平助を狙っていた。それも、正確に顔だけを狙っているからタチが悪い。目を凝らしてみると、それは節分の時に余った大豆のようだ。
誰の仕業か知らないが、好都合な援護射撃である。間一髪で平助に泣き顔を見られなくて済んだ私は、その場を脱兎のごとく逃げ出した。
「くそ~! 悔しい~っ!」
それから如月の八日までは、ひたすら稽古に打ち込むことで雑念を払った。当然、私を置いていくやつらの相手などしたくはないし、かといって周斎先生に稽古相手を願うのは気が引けたので、最近入門したばかりの門下生をもっぱら相手にした。お蔭で気絶者十名、号泣者十七名、脱走者三名、念仏を唱える者七名と華々しい記録を更新し、最後には周斎先生から道場を追い出されてしまった。
「てめえは少し頭を冷やしやがれ!」
と周斎先生に怒鳴られたところで、冷える頭ではない。道場を追い出された私は、他にやることもないので、家事に掃除にと勤しむことにした。
歳月にすれば十二年。嬉しいことも楽しいことも、悲しいことも辛いことも全部、この屋敷で過ごした。改めて思うと、妙な愛着がむくむくと湧いてきた。いつも適当にしてきた掃除にも熱が入る。廊下、土間、座敷……とぴかぴかに磨き上げていく私を、おかみさんが胡乱気に眺めた。
「今度は何を企んでいるんだい」
「失礼な。お世話になった屋敷に、最後の奉公をしているんですよー」
「へえ。あんたにも、愛着ってもんがあったのかい」
「だから……おかみさんは私と何だと思って……」
愛着、大ありに決まっている。むしろ、自分は大変情に厚いんじゃないかとさえ思えてきた。情がなければ、別れをこれほどまでに辛く感じることはない。
「あーあ。私も、おかみさんみたいに完全無血冷徹人間になれたらなー」
「……あんたこそ、アタシのことを何だと思ってんだい」
頭上に、容赦のない拳骨を落とされた。この目玉が飛び出るような痛みも、もうすぐお別れだと思うと愛着が湧く。にへら、と締まりなく笑う私を、おかみさんが化物でも見るような目で見下ろした。
「殴られて笑うなんて、気味の悪い子だねえ。頼むから、顔合わせの席で粗相はしないでおくれよ」
「それって具体的にどうすれば?」
「黙って笑っときゃいい」
すごく詐欺の匂いがしたけれど、そこまでしないとお嫁にいけない自分を思って悲しくなった。何はともあれ、顔合わせだ。深川の道場の次男坊に気に入ってもらって、嫁に入っちまえばこっちのもん。私は次男坊と道場を盛り上げて、幸せになる。私を置いて京に旅立つやつらのことなんて、気にしてやるものか!
そう心に決めたくせに、いざ上洛の日になると、自分の縁談そっちのけで気がそぞろになった。慣れない女物の振袖を着て、髪を結綿に結ってもらって、初めての化粧をする間も上の空な様子の私に、とうとうおかみさんの雷が落ちた。
「黙ってろとは言ったけれど、誰が間抜け面を晒せと言った!?」
「ま、間抜け……」
「間抜けもドがつく間抜けだよ! あんたの代わりに狸でも出した方がもちっとマシな縁組になるさ!」
ひどい言われようである。狸と縁談をする相手の方が滑稽に思ったが、それを言うとおかみさんが更に怒ることが何となくわかったので、黙っておいた。
艶やかな振袖には似合わないということで、おかみさんから外された浅葱色の髪紐を、きゅっと手首に巻き付ける。トシゾーの女のおさがりだが、いつの間にかお守りのように毎日身につけていた髪紐。これがないと、なんだか落ち着かない。すっかり痣が消えた白い手首には、今日の空模様のような色をした髪紐がよく映えた。
顔合わせの席は
何が楽しくてわざわざ深川まで出向かなきゃいけないのだろう。不機嫌になる私とは裏腹に、この日の近藤家は活気に満ちていた。無理もない。今日という日を最後に、彼らは遠い京の地へ旅立つのだ。昨夜も遅くまで宴会を開いていたくせに、明朝から賑々しい莫迦共に背を向けて、屋敷の長屋門をくぐる。その背に、鋭い声が刺さった。
「一紗さん!」
……ああ、だから。
どうして、私を呼び止めてくれるのがあいつではなく、平助なのだ。
げんなりとしながら振り返れば、頬を桃色に染めた平助が肩で息をしていて。その向こうに、にわかに色づいた桜の木が垣間見えた。
「平助。どうした?」
「あの、その……今日はすごく綺麗で……じゃなかった、本当に行くんですか?」
平助は大げさだ。別に、今日が婚礼の日というわけではない。ただの顔合わせだ。だけど、今日という日が済んでしまえば、するすると輿入れの日まで進んでしまうことはわかっていた。
「何を今更。私の行くところは、深川しかねえんだから」
「本当にそうなのですか?」
「は?」
「俺は……俺は! 一紗さんに嫁なんて似合わないと思います!」
おかみさんといい勝負で、ひどい言い草である。呆気に取られる私を残して、平助は脱兎のごとく屋敷に逃げ戻ってしまった。
「最後の挨拶がこれ……」
げんなりとする私の頭上に、おかみさんの容赦のない鉄拳が投下される。
「いつまでその乱暴な言葉遣いでいるつもりだい。です、ます、ございます。はい、繰り返して」
「いってー! くそ……っ、です、ます、ございます! これでいいんだろ!?」
「いいわけないだろ。本日はお日柄のよく、お会いできたことを大変嬉しく思います。はい、繰り返す」
「え~? 本日はお日取りもよく……?」
「莫迦だねえ。お日柄、だよ。ほら、続き。牛込甲良屋敷にある試衛館道場から参りました、一紗です」
「う、牛込甲良屋敷から参りました一紗です……」
「どうぞ、末永くよろしくお願いいたします」
つ、とおかみさんを見上げた。今までにない厳しい表情で前を見据えたおかみさんは、深川までの道をただ黙々と歩いている。
「京へなんて、アタシは許さないよ」
「……」
「アンタは腐っても女子なんだ。女子は、女子らしい幸せを手にするべきなんだ。それを放り出して刀を取るなんて、絶対に許さないからね」
……物心つく前に二親を失った私は、肉親の情というものを知らない。言うなれば、おかみさんが私の母親代わりだった。そう思っているのは、おかみさんも同じなのだろう。だからこそ、今まで他人には向けない厳しさで、私に“女子”を求めてきた。この激動の時代、戦で命を落とすかもしれない息子とは違う運命を歩ませようと、躍起になっていた。
(そんなこと言われたら……逃げ出せねえじゃん)
富岡八幡宮一の鳥居から伸びる門前町には、早咲きの桜がちらちらと色づいていた。薄紅に染まった花弁を見ると、心の臓がぎゅうっと痛くなる。それもこれも、山南さんのせいだ。山南さんが、桜は別れの花だと教えたから、私は桜の花が大嫌いになった。
桝谷の二階座敷で待つこと四半刻。現れたのは、道場の跡取り息子の次男坊にしては面差しの優しい男だった。歳の頃は私の二、三個上だろうか。確か、今年で二十五だと言っていた気がする。人の良さそうな目元を綻ばせて、実に嬉しげに私を見た。
「あなたが牛込で噂の剣術小町ですね。いやはや、想像以上の器量よしで驚きました。お会いできる日をとても楽しみにしていたのですよ」
鈴木さま、という名の次男坊は、女性を喜ばせる世辞をそつなく言える、自然体のイイヒトだった。どこかの剣術莫迦とは大違いである。緊張から用意していた口上も真面に言えず、おかみさんから太腿をつねられて冷や汗を流す私にも、鈴木さまはやんわりと助け船を出してくれる好青年だ。
「そう畏まらずに。私は今日、一紗さんという人柄を知りたくて来たのですから、どうぞいつも通りにしてください」
その言葉に甘えていつも通りにすると、太腿の青痣が増えること間違いなしなので、「おほほ」と笑って誤魔化した。以前おかみさんの言っていた通り、喋ったらボロが出る可能性が高いので、目の前の春の膳を食することに集中したら、緊張をしていると思われたのだろう。
「そろそろお若い二人で、ね……?」
とお決まりの口上を言う相手方の采配人に青くなる。二人きりって、何を喋ればいいんだ!? いや、そもそも口を開いたらボロが出てしまうんですけど!
(ここは狸だ。狸になろう)
よくわからない決心をして庭に出た私は、
別段演技をしなくても、必然的に無言になる私を、鈴木さまは心配気に覗き込んだ。
「どこかお身体の調子でも悪いのでしょうか?」
「だ、大丈夫……です、ます、ございます」
「は?」
「あっ、えーと……心配には及ばぬでござらん。ちと休めば元通りになるでな、ははは」
女みたいな言葉遣いって、どんなんだ?
ぐるぐると混乱する頭で捻り出した言葉の数々が、かなり胡散臭い自覚はあった。証拠に、鈴木さまは鳩が豆鉄砲を食ったような顔になっている。
「あ、いや、本当に……おかしいのは頭だけなので、どうか放っておいてください!」
このままではボロが出て破談になる!
焦った私は、ただひたすらに頭を下げる作戦に出た。冷や汗を浮かべながら直角にお辞儀をする私を、鈴木さまはきょとんとした顔で見下ろしているのが見なくてもわかる。
刹那、頭上で弾けるような笑声が上がった。
「はははっ! これは実に面白い! 想像以上です。きっと、兄上もあなたのことを気に入ってくれるでしょう」
「兄上って……道場主の?」
「はい。文武共に切れ者の兄上は、私の永遠の憧れなのです。早くあなたにも紹介したい」
そうにっこりと微笑む鈴木さまの双眸には、私との未来がくっきりと映っていた。どうやら嫌われたわけではないらしいその事実に、私はほっとするどころか逆に不安になってしまう。
だって、まざまざと思い知ってしまったのだ。この人の瞳に映る通り、私はこれからこの人と未来を歩んでいく。あいつらの傍ではなく、この人の傍で掃除をして、料理をして、繕いものをして、子を産んで、老いて――……。
そう思い知れば知るほど、無性に寂しくて。顔を上げられなくなった私に、鈴木さまの心配気な声がかかる。
「す、すみません。大声で笑ったりなどして。気を悪くされたでしょうか?」
「いえ。……違う、違うんです」
鈴木さまは何も悪くない。私にはもったいないばかりの婿殿だ。
膝の上でぎゅっと拳を握れば、ふわりと春の風が漂った。風に捲れた振袖の下には、手首にぐるぐる巻きにされた浅葱色の髪紐が見えて。
「……う、うあ~ん!」
「……え? ええ!? 一紗さん!? 泣いているのですか!?」
「え~ん! ご、ごめんなさい~! 鈴木さまぁ~!」
髪紐を巻いた手首で、目元をごしごし拭う。どんなに拭っても、後から後から溢れる涙が止まることはなかった。
(帰りたい)
帰りたい。別れの花々も散らすような、青い嵐の吹き荒れる道場へ、帰りたい。
でも、そんなものはもうどこにもない。道場だけが残っても、そこに彼らがいないと意味がないのだ。私がいないと、意味がないのだ。
「ちょ、ちょっと状況についていけないのですが……とりあえず拭くものを」
そう言って手拭いを差し出す鈴木さまは、とことんイイヒトだ。私は何をやっているのだろう。こんなイイヒトを逃したら、もう二度と目の前に現れる好機はないというのに。それでも、このイイヒトを逃しても、一生嫁になんかいけなくても、彼らの後をついていきたいと願ってしまう。
ずず、とはしたなくも鼻を啜った瞬間、手拭いを差し出す鈴木さまの手を、唐突ににゅっと生えた手が掴んだ。
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