一紗、怒りに震える(一)
年の終わりの師走。世の中の不穏な空気を打ち破るほどめでたい出来事が、この試衛館に舞い込んだ。若先生の子が生まれたのだ。
「猿みたい……」
綿帽子に包まれた赤子を見下ろして率直な感想を漏らした私を、ソージが容赦なく引っ叩く。
「お前と一緒にするな」
「あ、そっか……じゃねーよ。おい、どういうこったよ」
「どうもこうも、この子を猿仲間に加えようとするんじゃねえ」
「おい、誰が猿だウキーッ」
しわしわの赤子を囲んで、あーだこーだと喧嘩を始めた私たちに、若先生の奥さんであるお
「生まれた時はみんなお猿さんみたいなのよ。もちろん、一紗ちゃんや宗次郎さんもね」
「いや、こいつは二十一年経った今でも猿――」
勢いよく拳を振り下ろせば、ソージが畳の上にめり込んだ。
「てっめえは……いい加減、自分の莫迦力を自覚しろって言ってんだろ!?」
「へんっ! てめえこそ、いい加減軟弱な身体をどうにかしろや!」
袖をまくって立ち上がった私たちを諌めるように、赤子がふにゃふにゃと泣き始める。慌てて拳を収めると、何事になかったように座り直す私たちを見て、お常さんがくすりと笑った。
「ねえ、一紗ちゃん」
「はい?」
「一紗ちゃんさえよかったら、この子の名付け親になってくれないかしら?」
目を丸くする。自分で言うのもナンだが、教養や感性というものから遠く離れた人間に、そんな大事なことを頼んでもいいのだろうか。
「いや、あの、それは――」
「ね、お願い。一紗ちゃんが名付け親になってくれたら、この子も嬉しいと思うし。旦那さまも、女の子の名ならぜひ一紗ちゃんの意見を訊きたいって言っていたから」
旦那さま、か。その名を出されると、私が断れないことをお常さんは知っているのだろうか。
結局、すっぱり断ることもできなかった私は、赤子の名付け親という大役を引き受けることになった。だからといって一人で決められる自信もないので、知識人の山南さんに相談することにしたのだが――。
「うーん、赤子の名となると、私の知識がお役に立てるわけではありませんからねえ……」
「そこをなんとか」
「うーん……そう言えば、昔一紗さんと同じように赤子の名付けに迷った父親がいまして、めでたい言葉をすべて並べて名にしたという話がありましたね」
「へえ。めでたい言葉ってなに?」
「ええと……寿限無寿限無五劫の擦り切れ、海砂利水魚の……なんでしたっけ?」
とりあえず、一つの案として盛り込むことにした。
道場にいくと、サボり癖のついた三人組が珍しく稽古をしていたので、参考程度に訊いてみたら、
「まさ」
と、意外にも真面な答えが、よりにもよって一番真面そうではないやつから返ってきた。
「その心は?」
「一番気に入っている春画本の女の名」
ちゃんちゃら話にならないので、竹刀を奪うと、それを金物の味を知っているという腹にめり込ませる。「へぐう」というくぐもった声と共に、床へ撃沈した左之さんを冷たく見下ろせば、平助がおずおずと声を上げた。
「俺は、一紗って名、素敵だと思うぞ!」
「うん。訊いてないから」
「他にどんな案が出ているんだ?」
尋ねる永倉さんに、「寿限無寿限無五劫の擦り切れ、海砂利水魚のまさ」と答えれば、梅干しを食べた時のような顔をされた。
「永倉さんはなにかあります?」
「いや、俺は……」
「イヤオレハ」とは、山南さんに負け劣らずの個性的な名である。「寿限無五劫の擦り切れ、海砂利水魚のまさイヤオレハ」とぶつぶつ言いながら母屋に戻れば、暇を持て余した薬売りが遊びに来ていた。
「トシゾー、いいところに」
「お前が俺に用があるとは、厭な予感しかしねえな」
「失礼な。若先生の子の名を考えてんだよ。なにかいい案はないか?」
「へえ、お前が? やめといた方がいいんじゃねえ?」
「どういう意味だよ」
「お前のことだから、猿山の猿子とかつける気だろ」
けらけらと笑うトシゾーに腹が立ったので、「猿山の猿子」はトシゾーの案として採用することにした。苦情がきたらもれなくトシゾーに責任転嫁しようと決めたところで、ソージに引き止められた。
「おい、決まったのか」
「一応、案としては“寿限無五劫の擦り切れ、海砂利水魚のまさイヤオレハ猿山の猿子”」
「…………強そうな名だな」
「だろ? それ私も思った」
確かに、生まれてきた赤子には強い子に育って欲しいが、せっかくの女の子だ。強さの中に、優しさを持った子になって欲しい。
「だからといって、これという案がないんだよなー」
「端から乗り気じゃねえんだろ?」
「乗り気じゃないっていうか、向いてないってだけ。私が考えたところで、よい名が思いつくとは思わねえよ」
「だったら、断ればいいだろ」
「だから、お常さんの頼みを――」
「断ればいいよ。一紗が悩む必要はない」
やけに真剣な声に目を眇めれば、やつは真っ直ぐな瞳で私を見ていた。厭に真面目な視線を受けて察する。こいつは、柄にもなく私を気遣ってくれているのだ。初恋の人の子の名付け親を頼まれた私に、同情してくれているのだ。
「……別に、厭々やっているわけじゃないからいーよ」
「だけど――」
「好きな人の好きな人に名をつけられるんだ。これって、結構すごいことだと思わねえ?」
憐れみの視線を押し返すようににこりと微笑めば、呆れたような溜息が返ってきた。きっと、「なんて単純なやつだ」と思われていることだろう。でも、それでいい。単純なやつでも道化でもなんでも演じてやるから、早くこの胸の痛みがなくなればいいと、切に願う。
「俺からいっこ忠告してやる」
「なんだよ」
「寿限無以下略はやめた方がいい」
「えー」
「一紗が、どんな子に育って欲しいと思うのかが肝心だと思うぞ」
と、悦に入って踵を返したやつを、投げ飛ばしたい気分になった。中途半端な助言をするくらいだったら、具体的な案を出して欲しい。
「どんな子に育って欲しいと言われても……」
強い子に育って欲しいと思う。どんな時代にも負けない、強く生きていける子に育って欲しい。
だけど、優しくもあって欲しい。私みたいに、誰彼構わず喧嘩を売るような脳内筋肉女ではなく、もっと女の子らしくて誰からも愛されるような――……。
「――……そうだ」
最もな手本を思い出した私は、かの人物を探すべく、土間に向かって足を向けた。
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