宗次郎、別れの怖さを知る(二)
風の感触に、ゆるりと目を開いた。
ぼんやりとする視界を凝らせば、今自分が馬上にいることがわかった。頬には夏独特の生温かい風がびしびし当たっている。眼前には、見覚えのある広い背中があった。
「目が覚めたか?」
その声に、こくりと頷く。どうして歳三さんがここにいるのだろう?
「そりゃあ、お前が小島さんのところで動けなくなったからに決まってんだろ。この俺直々に迎えに来てやったんだぜ。感謝しろ」
……そうだった。俺は、小野路村の小島邸で熱に倒れたのだった。
「一紗は?」
今一番気がかりなことを口にする俺に、歳三さんは呆れたように口を緩める。
「山猿の心配をするより自分の心配をしろ。お前、今自分がどんな状態になってんのかわかってんのか?」
「は?」
「身体を見てみな」
ちらりと見た腕には、無数の赤い発疹ができていた。こわごわと頬に触れてみて、合点する。なるほど、俺は麻疹に感染してしまったらしい。
「歳三さん、俺から離れた方がいいですよ」
麻疹が恐れられる原因として、特効薬がないことももちろんだが、一番はその絶大なる感染力だ。お蔭で、江戸の町では爆発的に麻疹が流行っている。しかしながら不思議なことに、一度麻疹に罹ってしまうと、二度とは罹らない病で知られていた。
「無駄な心配をするな。俺は一度罹っているから大丈夫だよ」
それは嘘だと、すぐにわかった。前回麻疹が流行したのは、三十年前の話だ。今年で二十八の歳三さんでは勘定が合わない。だが、それは俺のためにつかれた優しい嘘だとわかったから、敢えて反論はしなかった。
「あは。歳三さんが優しいや。これはいよいよ、俺も駄目かもしれないなあ」
その軽口に、歳三さんは何も言わなかった。特効薬もなく、多くの者が命の落としている麻疹は「麻疹は命定め、疱瘡は見定め」とまで言われる大病だ。まさか自分が罹るとは思っていなかった俺は、知らずほんの少し弱気になっていたのかもしれない。
「おい、ソージ。お前、今一番何がしたい?」
尋ねる歳三さんは、やっぱり優しい。気持ち悪さから、ぶるりと身震いをした。
「歳三さんが優しいなんて気持ち悪い」
「クソガキが。降り落とすぞ」
「俺は病人ですよ。労わってください」
「ふん。そこまで生意気な口が利ける病人がいるかってんだ」
気持ち悪いほど優しい悪態に、ぶるりと身震いをする。
歳三さんはそうやって元気づけてくれるけど、高熱に浮かされた頭では意識を保つだけで精一杯。弱音を吐くつもりはないが、冷静に考えて「もう駄目」なことだって十分ありえる。
そんな時に俺が望む最後の願いは何だと訊かれたら、ふいにある人の顔が浮かび上がった。無意識のうちにその名を呟いていたのだろう。次に目が覚めた時、心配げに覗き込むその顔を見た俺は、これは夢に違いないと思った。
「――――宗次郎、目が覚めたのね」
だが、夢にしてはずいぶんと現実味のある声色である。
「……美津姉上?」
おそるおそるその名を呼べば、美津姉は心底ほっとしたように微笑んだ。驚いた。どうやら、これは夢ではないらしい。
「ここは……沖田家ですか?」
俺は、懐かしい我が家の薄い煎餅布団に寝かされていた。美津姉とは時折文のやりとりをしていたけれど、口減らしに出した者と出された者のケジメとして、俺が九つの頃より一度も会っていない。美津姉に子が生まれてからはなおさら、文のやりとりですら疎遠になっていたのに、一体全体どうしてこんなことになった?
「土方歳三さんという方があなたを連れて来てくれたのですよ」
その名に、全てを悟った。悟った瞬間、病に弱気になった自分が、とんでもない失態を犯したことを悟った。
俺はきっと、馬上で美津姉の名を呼んでしまったのだ。もう二度と会うことがないと思っていた長姉の名を。それで、余計な優しさを発動させた歳三さんが、わざわざ沖田家まで運んでくれたのだ。
「土方さんから事情は聴きました。宗次郎、麻疹を患ってしまったようね?」
「え、ええ。だから、姉上もあまり近づかい方が――」
「心配には及びません。この姉は、幼い時分に罹っております。それに、試衛館には一紗ちゃんもいるのでしょう? あの子は麻疹に罹ったことがないはずだわ。だから宗次郎、土方さんの言う通り、あなたは麻疹が治るまで試衛館には戻らず、ここで療養しなさい。試衛館の方には土方さんが伝えてくれると言っていましたから」
美津姉の言葉に、戸惑いを覚える。いくら麻疹に罹ったからといっても、俺は沖田家を出た身の上だ。俺の居場所は、ここにはない。それに、美津姉だけならいざ知らず、旦那である林太郎さんや息子の芳次郎にとって、俺はとんだ邪魔者だ。
あれほど未練を残した実家だというのに、今となってはもう、知らない人の家のようだ。居心地の悪さからまごつく俺に、美津姉はふっと目元を緩めた。
「宗次郎。十二年ぶりの再会だからといって、よく頑張りましたなどと甘やかしませんよ。あなたはまだまだ、試衛館で修業を積まなければならないでしょう? もっと頑張るための、箸休め期間だと思いなさい」
何か食べるものを持ってくると、座敷を後にした美津姉をぼんやりと見送る。病弱だった母親に代わって、美津姉は俺の母親代わりでもあったのだ。厳しい物言いも、垣間見える優しさも変わらない。ここはもう知らない人の家だけど、ここの住む美津姉はまったく変わっていないことに、ほっと安堵の息を吐いた。
台所から戻った美津姉は、盆にお粥を乗せていた。十二年ぶりの美津姉のご飯は胸が詰まるほど嬉しかったのだけど、あいにくほんの数口しか喉を通らなくて。満足に食事も水も採れないまま、とろとろと眠りの淵を漂う俺を、美津姉は献身的に看病してくれた。
美津姉は「よく頑張ったなどと言わない」と言っていたけれど、十二年ぶりに肉親の優しさを受けた俺は、ひどく満ち足りた心地だった。美津姉に会えた。家族の優しさに触れた。だったらもう、じゅうぶんじゃないか。
そう弱気になる俺は、下がりきらない熱にどんどん体力を奪われていって。太陽が何度沈んで月が何度昇ったのかわからなくなった頃、ゆるゆると覚醒した枕元には、見覚えのある薬袋が置かれていた。
「土方さんがお見舞いに来てくれたのよ。うつるから中には上がってもらわなかったけれど、これ、お見舞いの品だって。なんでも、土方さんの実家に伝わる、由緒正しい万能薬だとか」
美津姉に説明を受けなくても、俺はこの「石田散薬」を知っていた。
何が家伝由来の万能薬だよ。これは、骨接ぎ打ち身の薬にすぎない。
しかし、あろうことか美津姉はそれを俺に飲ませようとした。冗談ではない。骨接ぎ打ち身の薬で麻疹が治るもんか。おまけに、この石田散薬は、熱燗で一気に飲まなければいけないという傍迷惑な縛りがある。必死で抵抗する俺だったが、日々衰弱する俺の容態に、美津姉も疲れていたのだろう。しまいには、無理やり口を開けて熱燗と共に流し込んでしまった。
「使えるものは何でも使うべきです!」
そう主張する美津姉は、貧乏人の鏡だ。だが、熱燗を流し込まれた俺としては、堪ったものではない。
苦手な酒+絶不調という最悪の状態に陥った俺は、それから三日三晩生死の境を彷徨った。ようよう目覚めた頃には、枕元にまたしても見慣れたものが置いてあった。
「山南敬助さんという方がお見舞いに来てくれたのよ。試衛館の同輩だって? あなたの全快を祈って新作を執筆したから、元気になったら読んで欲しいって」
不思議そうに首を傾げる美津姉に、絶対この書物は読まないようにと、ぜいぜい言いながら頼み込んだ。あまりもの気迫に、美津姉は「わかったわ」と言って、押し入れの奥に仕舞い込んでしまった。
少し動けるようになった隙を見計らって、山南さんの新作衆道本を庭に埋めたせいだろうか。無理をした身体は、再び布団の中へと舞い戻る羽目になった。次に目を覚ました時には、処分したものとは違う書物が山積みになっていた。
「原田左之助さんと永倉新八さんと藤堂平助さんという方がお見舞いに来てくれたのよ。彼らも試衛館の同輩ですって? あなたのためにとっておきのものを持ってきたから、これを読んで元気になってくれって」
春画本(※エロ本)だった。
これまた美津姉に見つかる前にと、庭に埋めてやった。
莫迦共のせいで日に日に衰弱していく俺を、美津姉が悲しそうに見下ろす。
「たくさんのお友達が心から心配してくれているというのに、神さまはひどいことをするのね……」
さめざめと泣く美津姉を、混濁した意識で見上げる。
もし仮に、俺に麻疹という試練を与えた神さまがいたとしても、真実ひどいのはあの莫迦共の方だろう。お蔭で、日に日に弱っていっている気がする。
ぜいぜい、と荒い息を上げる中、再び来客を知らせる声があった。
今度はどこの莫迦だ。
身構える俺の座敷に入ってきたのは、顔中に「心配」という文字を書いたような表情をした、若先生と源さんだった。
「宗次郎、具合は――」
「若先生っ!! 源さんっ!!」
うつるから、あまり俺に近づかない方がいいですよ――――という体裁を言い忘れるほど、この時の俺は必死だった。おっかなびっくり顔の若先生に抱き着くと、泣き出さんばかりの勢いで訴える。
「若先生! あの莫迦共をしっかり管理してください! お蔭でおちおち寝ていられませんっ!」
そこで意識がぷつりと途絶えた。目覚めた俺に、「熱が高いのに無理して動き回るからです」と美津姉が酸っぱい顔で説教をする。
「いくら先生が見舞いに来てくれて嬉しかったといっても、突然無理をするものではありませんよ」
「……はい。いや、まあ……見舞いが嬉しかっただけではないのですけど……」
「それと、近藤先生が見舞いの品を預けていきましたよ」
ほら、と手渡されたものは、墨で棒人間が五人ほど書かれた、一枚の半紙だった。
「…………つかぬことを伺いますが、これは何です?」
「麻疹絵だと言っていましたよ。巷でもずいぶんと流行っていて、なかなか手に入らないものだから、近藤先生手ずから描いたのだとか」
確かに、神頼みに頼るしかない現状、巷では「麻疹絵」と呼ばれる錦絵が流行っている。なんでも、疫病を広める悪神として知られる
「あら、裏に何か書いてあるわね」
裏には若先生の筆跡である角ばった文字で、「気組あるのみ」と書かれていた。
「剣術じゃねえんだから……」
げんなりとする俺にお構いなく、美津姉はそれを枕の下に入れて寝ようと提案する。情報源としてはもちろんのこと、お守りの効果も期待できなさそうな棒人間であるが、若先生が手ずから描いてくれたのだ。その心が嬉しい。
お手製麻疹絵を入れようと、枕の下に手を伸ばした時。指先に、何やら紙切れらしい感触を得た。
「あら? 他に麻疹絵なんて持っていたかしらね?」
美津姉は不思議がるが、それは麻疹絵ではなかった。もはや絵でも何でもない短冊には、ただ一言「麻疹が治る」とだけ書かれている。
「これ、美津姉が入れたのですか?」
「いいえ。夫でも芳次郎でもないと思うわよ。二人をこの部屋に入れたことはないから」
「そうですか……」
だったら、これは誰の仕業だろう?
どこかで見たことのある筆跡だが、考えようとしたら頭が痛くなったのでやめた。差出人のわからない短冊は薄気味悪くもあったが、おそらく書いた当人は俺の回復を願ってくれて書いたのだろう。なんとなく無下にできなくて、麻疹絵と一緒に短冊を揃えて枕の下に入れた。
その夜である。夢をみた。
夢の中で俺は、今よりも小さかった。だからといって、口減らしにあった頃のような、頑是ないガキではない。おそらく十五をちょっとすぎた頃の俺が、試衛館の縁側で、誰かに向かって話しかけている。それが誰かはわからないが、俺は楽しそうに、
「いいことを教えてあげますよ。夢を書いた短冊を枕の下に入れて寝ると、その通りの夢が叶うらしいですよ」
と笑っていた。そこで、目が覚めた。
そして、目が覚めて早々、驚きから息が止まるかと思った。
「…………え、……は?」
熱っぽさも忘れて呆ける俺には、大粒の雨が降り注いでいた。だからといって、この貧乏長屋が雨漏りをしているわけではない。闇夜の中、ひっそりと座り込む影が、俺を見下ろしながらぼろぼろと大粒の涙を流しているのだ。
「お前……なんでいるの?」
その質問に、影は答えない。涙を拭うこともせずに、じっと俺を見下ろしている。そして、
「――――ソージ、死ぬのか?」
蚊の鳴くような声に、呆然としたまま、かろうじて首を横に振った。
……は? なにがどうなって、一紗がここにいるんだ?
いや、それよりも、こいつが泣いているなんて……夢じゃねえよな?
初めて見る一紗の泣き顔に、なかなか現実味を得られない俺。そんな俺を見下ろして、一紗はおいおいと泣く。
「だって、若先生と源さんが、お前はもう駄目そうだって言うから……」
「いや、駄目じゃねえよ。勝手に決めんなよ」
「でも、白目剥いて倒れたって言うから……」
「……白目剥いていたのか」
白目を剥いていたことに、落ち込む余裕はない。麻疹による高熱を忘れるほど、俺は目の前の一紗に動転していた。
だって、あの一紗だぜ?
おかみさんに辛く当たられても、木に括りつけられても、涙どころか泣き言一つ漏らさなかった。秘めた恋心が敗れた時も、落ち込みはしたが泣きはしなかった。 そんなやつが、俺のために泣いている――……?
「……なあ、確認なんだけど」
「なんだよう」
「お前は、俺のために夜中に忍んできて、俺のために泣いているのか?」
おそるおそる確認をとる俺を、一紗が目を見開いて見下ろす。はっとした表情は、ほのかに赤い。どうやら、俺に指摘されるまで、自分が泣いていることに気づいていなかったらしい。
「う、うるさい! こっち見んじゃねえよっ!」
夜目でもわかるほど、頬を真っ赤にした一紗が、慌てて俺から離れようとする。布団を跳ねのける勢いで起き上がった俺は、ほっそりとした手首を掴んだ。
「待って。ちゃんと答えて」
「あ? 何をだよ!」
「お前は、俺のために泣いてくれているのか?」
もし、一紗がうんと頷いてくれたなら。俺は、麻疹になんて負けない自信がある。
若先生のためにも泣かなかった一紗が、俺のために泣いてくれたら。俺は、秘めた想いだけを抱えて、百歳まで生きることができるだろう。
祈るように見つめる俺の眼力に負けたのか、一紗がやけくそのように叫んだ。
「ああ、そうだよ! どうせ、私が泣いても気持ち悪いだけだって言うんだろ!」
「……言わねえよ。言うわけねえじゃん」
「あ?」
「……やばい。俺まで泣きそうだ」
剣術の腕も、人柄も、若先生には何一つ敵わない。だけど、若先生が見たことのないものを、俺は俺のためだけに見ることができた。
このまま死んでも構わないと、割と本気で思った。だが、俺が死んだら、この莫迦女は人目を憚らずに泣くのだろう。それだけは駄目だ。俺だけが知る泣き顔を、他の誰にも見せなくない。
自分でも思った以上に一紗が好きだと思い知った俺は、そのままずるずると蹲った。これ以上一紗を見ていたら、本気で泣きそうだ。
そんな俺を、病で弱っていると勘違いしたらしい。慌てた一紗が、心配気に背中を撫でる。
「おい、大丈夫か? 美津さんを呼んでこようか?」
「……いい。あのさ、一つだけ我儘を言ってもいいか?」
「いいよ。仕方ないから、寛大な一紗さまが一つ願いを叶えてやるよ」
えばる一紗に、小さく微笑む。歳三さんから何か叶えたい願いがないかと尋ねられた時は、咄嗟に美津姉の名を呼んでしまったけれど、今は違う。早くこの女の元へ――――みんなの元へ、帰りたい。降る雪が積もるように、ゆるゆると愛着が積もった道場へ、帰りたい。
「俺が眠るまで、傍にいて」
そう頼む俺に、一紗は白い歯を覗かせて笑った。「仕方ねえな」と言いながら、枕元にどっかりと腰を下ろす。命の代えても大事な女が傍にいる安堵感に包まれながら、ゆるゆると眠りの底へ落ちていった。
微睡みの中、
――――サヨナラだけの人生なんて、くだらねえ。こっちから願い下げよ。
と言った歳三さんを思い出していた。今なら、あの時の歳三さんの気持ちが痛いほどわかる気がした。
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