一紗、別れの怖さを知る(二)
狂い咲きの桜が散ってしまった日を境に、トシゾーの姿がぱったりと見えなくなった。
家業の薬売りが忙しいのかと思ったが、今は初冬。牛革草の刈り入れ時ではない。それに、近頃では行商がどんなに忙しくても、三日と空けずに顔を出していた男だ。半月も見えないとなると、さすがに薄気味悪くもなってくる。
出稽古先の日野宿で佐藤夫妻に尋ねてみたものの、あまり芳しい返事は返ってこなかった。どうやら、義兄宅にも顔を出していないらしい。念のため、お琴さんにも尋ねてみたが、お琴さんのところにも寄りついていないようだ。
となると、手酷い別れ方をした女から、日本橋の下にでも沈められたか、と心配になる頃合になって、試衛館に来客があった。
「あの子が内密にしていて欲しいと頼むから、今まで誰に訊かれても口を噤んできましたけど、もういよいよ危ないみたいで。どんなに恨まれても、あの子には後悔して欲しくないから、今日は私の一存でここに来ました」
そう言ってさめざめと泣くのは、トシゾーの実姉であるお信さん。気丈なお信さんが泣くなんて想像していなかった私は、呼ばれた奥座敷で危うく腰を抜かしかけた。
「いよいよ危ないとは、どういう意味でしょう?」
私と同じく招集をかけられたらしいソージが、眉を顰めながら尋ねる。座敷には他に、若先生と周斎先生とおかみさん、それから左之さん、永倉さん、平助、山南さん、源さんがいた。
「霜月の中頃から、徐々に身体を崩すようになって。今となっては、布団から起き上がるのもやっとな状態なんです」
お信さんの話を、すぐには飲み込めなかった。
だって、あのトシゾーだぜ?
お前のものは俺のもの、天上天下唯我独尊、地獄の沙汰もトシゾー次第、歩くボンボンこと土方歳三が、病に伏している?
「ここから先は、信用できるみなさまの胸一つに収めて欲しいのですけど……医者をしております兄の診立てによりますと、歳三を蝕んでいる病はどうやら
労咳って……赤い不治の病と呼ばれる、アレ? 罹ったら最後、血を吐き続けて死んでしまうまでが、周りにもうつしてしまうことから忌み嫌われている病に、恐ろしい病にトシゾーが?
お信さんの言葉に、座敷の端で小さな笑声が上がった。平助だ。
「土方さんが労咳? そんなはずないじゃん。だって、ついこの間お花見をした時は、ぴんぴんしていたじゃないですか。俺はこの目で確認するまで、信じませんからね!」
言い捨てるなり、わっと座敷を出て行ってしまった。平助の後を、左之さんと永倉さんが心配げに追う。叶うことなら私も平助の後を追って、この重苦しい空気から逃げてしまいたかったが、正座した足は凍ったかのように動かない。
「私だって信じられません。健康と顔だけが取り柄な子だったのに、労咳を患うなんて……」
「そう言えば、トシの両親や兄弟は、揃いも揃って労咳で亡くなっていましたね?」
尋ねる若先生に、目を見張る。みなが息を詰める中、お信さんが疲れたように項垂れた。
「そうです。これも、家系なのかしらね」
「それで、トシはなんと?」
「弱った姿を見せたくないから、試衛館のみなには知らせてくれるなと。くだらない意地を張ってないで、私は手遅れになる前に歳三に会って欲しいのです。お願い、勝太さん。歳三に会ってあげて」
「わかりました。……ですが、お信さんの頼みを引き受けるわけにはいきません」
お信さんの一世一代の頼みを断った若先生が、にかりと笑う。信じられない、とみなの視線が集まる中、若先生は誇らしげに胸を張った。
「俺は、トシ断ちをします」
「トシ断ち?」
「はい。願いを叶えるためには、一番好きなことを我慢すればよいと言うでしょう? 俺の願いは、トシが病に打ち勝つこと。そのために俺は、トシに会うのをやめる」
「でも、それじゃあ……!」
「大丈夫ですよ、お信さん。あいつほど、悪運の強いやつもそうそういませんって。病に負けるほど柔なやつではないと、俺は信じています」
そう言ってにかりと笑う若先生を見れば、厭なドキドキも徐々に落ち着いた。
そうだよ。労咳がなんだってんだ。確かに、赤い不治の病と恐れられる病気ではあるけれど、決して治らない病ではない。全快した人だって、いるにはいるのだ。
地獄に落ちた方が本領を発揮できそうな男なのだ、土方歳三は。下剋上の危険性のある危ないやつの命を、わざわざ閻魔大王が欲しがることもないだろう。
「よく言った、勝太! それでこそ、真のダチってやつだぜ!」
若先生の頭をぐりぐりと撫でる周斎先生。その横でおかみさんが呆れたような溜息をついた。
「というわけだ、お信さん。俺たちは誰も、トシのやつに別れの挨拶をするつもりはねえよ。帰ってあの莫迦に伝えてくれ」
その日は結局、お信さんは肩を落として帰って行った。あまりにも可哀想な肩の落ち具合だったので、次の日日野宿を訪ねてみれば、襷をかけたお信さんが大きな樽を担いでいた。
「昨日試衛館に行って、私だけ弱気になってちゃいけないと思ったのよね。だからせめて、歳三の好きなものを作ってあげようと、沢庵を漬けているの」
それは妙案だと思ったので、お信さん直伝の沢庵の漬け方を教えてもらうことにした。案の定、魔物を生むのが得意な不思議な手だったけれど、五日も通えば何とか沢庵らしき味になってきた。
いつの間にか、漬けた沢庵を歳三の療養先である石田村の生家に届けることが日課になっていた。始めの頃は、この世の終わりのような顔で受け取られていた沢庵だけど、五日もすれば俗世を悟ったような顔で受け取ってもらえた。
そして、困ったことがもう一つ。お信さんが訪ねて来た日以来、若先生は自室に籠って一切の飲食を断ってしまったのだ。このままではトシゾーの前に若先生が死んでしまう、頼むから水だけでも口にしてくれ、というみなの懇願を突っぱねた若先生は、今日も板敷の間に正座をしている。ぼうぼうに伸びた髭の中からでもわかる
そんな若先生の姿を唐紙越しに覗いて、ぎりぎりと歯噛みする。
おのれ、トシゾーめ。てめえのせいで若先生が身体を壊してしまったら、地獄の果てまで追いかけ回してやるからな。
苦しさに顔を歪める私の耳に、若先生のくぐもった声が届く。
「共に……武士になろうと、約束しただろう……トシよ」
そのまま前のめりにどうっと倒れてしまった。
慌てて若先生の介抱をしながら、心に決める。このままでは、若先生の方が先に壊れてしまう。歳三に恨まれても、若先生との約束を破っても、構うもんか。私は、トシゾーに会いに行く。会って一発殴るのだ。さっさとよくならないと、承知しないと。
「――――だからって、どうして俺までついて行かなきゃいけねえんだよ」
ひゅるりと木枯らしが吹く畦道で、ソージが不服そうに呟く。いざトシゾーに会いに行くと決めたのはいいものの、共犯がいないと寂しいってもんだ。
「悪事の片棒を担ぐのはあんたの役目だろ、相棒」
苦し紛れに笑えば、呆れたような溜息をつかれた。それでも引き返そうとしないところを見る限り、ついて来てくれる気らしい。そうして辿り着いた石田村にあるトシゾーの実家は、お大尽と呼ばれるのも頷けるほど、広大な屋敷だった。
「でっけえ……」
試衛館三個分はありそうな母屋とは別に、米蔵や味噌蔵まであったりする。立派な長屋門の奥には庭へ続く道があり、これまた道場より広い庭にはお稲荷様の鳥居の他、石灯篭や築山まで築かれていた。
「で、どうして表玄関から堂々と入らないで、中庭からこそこそ入らなきゃいけないんだよ」
そう尋ねるソージには、つい、としか答えようがない。もっとちゃんと答えるなら、目玉が飛び出そうなほど立派な屋敷に気後れしてしまったのだ。
色を枯らす矢立の群生を抜け、上がり込んだ縁側には、八畳の奥の間が二部屋続いていた。病人を休ませるなら、風通しのよい奥の間だろう。私の直感は当たった。最初に開いた唐紙の奥に、探し人は荒い息を上げながら寝入っていた。
「うわ、ほんとに病人してら」
「当たり前だろ」
ずいぶんと頬がこけたようだ。土気色の顔をしているトシゾーを見下ろしながら呟けば、ソージに頭をはたかれた。
「別にお信さんを疑っていたわけじゃねえけど、まさかこうもちゃんと病人をしているとは思わなかったからさ。看病にかこつけて、美人のねえちゃんでも侍らせているかと思った」
「まあ、俺もちょっと思ってた」
「あ、ねえねえ。今のうちに日頃の憂さ晴らしとかない? いつもいじめられている腹いせに、髭の一本くらい許されるよな?」
袂から矢立を取り出して提案すれば、思いの他ソージが乗ってきた。こいつも、トシゾーに対する恨み辛みが溜まっているに違いない。
「一本じゃ足りねえよ。俺なんて、とある道場に出禁になっているんだ。眉毛を繋げてもいいだろ」
「お、いいねそれ。じゃあ私は鼻毛を繋げるわ」
「おい。鼻毛は繋げるもんじゃねえだろ」
もし、今ここに誰か入ってきたら、びっくりして腰を抜かしてしまいそうなほど面白い顔が完成した。にも関わらず、トシゾーが起きる気配はない。しいて言うなら、来た時よりも苦しそうに唸っている気がする。
「…………に、…………した、……」
「え? なんて?」
「共に、武士になると……約束、したんだ……っ。だから、……俺は、まだ、死ねない……っ!」
辛うじて聞き取れた呻き声に、ソージと二人、顔を見合わせる。
なんだよ。二人して。揃いも揃って、この世に未練たらたらじゃねえか。
ぼんやりと薄目を開いたトシゾーが、まるで命の糸を掴むように、天へ向かって手を伸ばす。気がつけば、ソージと二人、左右の手をそれぞれ握り締めていた。
「――――大丈夫だよ」
「俺があんたの左手に」
「そして、私があんたの右手になって、あんたと若先生の夢を叶えてやるから」
「だから、歳三さん。死んではいけませんよ」
そう言えば、少しずつ穏やかになっていく呼吸音。安心しきったように目を閉じたトシゾーを見下ろすと、人知れずほっと息を吐いた。
「寝たな」
「……だな」
「帰るか」
「そうだな」
枕元に力作の沢庵を一本置いた私たちは、トシゾーの実家を後にすることにした。
道中、ソージとは何となく無言が続いたが、帰って来た試衛館では若先生が目を覚ましており、安堵感から思わず涙ぐみそうになった。
唐紙の前に棒立ちになる私を見て、若先生がすまなそうに微笑む。
「一紗にも心配をかけたな。すまなかった」
「……若先生」
「うん?」
「トシゾーは、必ず元気になって帰ってきます。だから、若先生も万全の体調で迎えないと、壮大な夢を叶えることはできませんよ」
そう言うと、若先生は一瞬びっくりしたように目を見張って、それから照れ笑いを浮かべた。
「うん。そうだな。まったく、一紗の言う通り」
私の一言が利いたのかはわからないが、それから若先生はちゃんと飲食を採るようになった。試衛館一同がほっと胸を撫で下ろす中、お信さんが更なる朗報をもってやって来た。トシゾーの具合が、快方に向かっているというのだ。若先生の目が覚めて三日後には、枕から起き上がって、粥を啜れるまで回復したらしい。
「急に元気になっちゃって、実家の方でもやれ奇跡だと大騒ぎをしているんです」
嬉し涙を浮かべるお信さんに笑い返しながらも、私とソージは決して奇跡ではないことを知っていた。赤い不治の病より、武士になるという途方もない執念が勝ったのだ。
「そもそも、あの生ける大魔王みたいな男が、労咳なんかに負けるはずがねえよな」
そう言う私に、隣のソージが「そうだな」と同意する。ずいぶんな冷え込みをみせるようになった、夕暮れ時。私たちは、道場の屋根に上って、沈みゆく夕陽を眺めていた。
「私、決めたよ」
「?」
「日の本一の剣客になるっていう夢が叶ったら、若先生と、仕方ないからトシゾーの片腕になって、二人を武士にしてやるんだ。悪くないだろ?」
「そうだな……俺は――」
「あんたも私と一緒だろ? 相棒」
にしし、と笑えば、呆れ顔で頭を小突かれた。
「俺の人生を勝手に決めるな」
と文句を垂れながらも、その表情は満更でもなさそうだ。
この時は、純粋にそう思っていた。まさかこの一年半後には、夕陽で血のように真っ赤に染まった幼馴染の顔が、本物の血で真っ赤に染まるなんて、思いもせずに――……。
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