第三幕 勧酒
一紗、別れの怖さを知る(一)
霜月に入る頃になって、不思議な現象が起こった。試衛館の中庭に立つ桜が、突然花をつけたのだ。
「これは、狂い咲きですね」
満開の桜の木を見上げて、山南さんが呟く。
「狂い咲き?」
と揃って首を傾げる私、ソージ、平助に、物知りの山南さんはにっこりと微笑んだ。
「近頃、初冬だというのに暖かい気候が続ていていたでしょう? だから、今が冬の始めではなく春の始めだと、桜の木が勘違いしてしまったのですよ」
大変珍しいことだが、こういうことはごくたまにあるという。そして、このごくたまな出来事を、試衛館の食客たちは揃って喜んだ。もともと、根は単純なやつらだ。すぐに酒盛りの運びとなった。
「さあ、よってらっしゃい見てらっしゃい! 俺の腹は金物の味を知っているんだ! 今ならお代はタダで、お触りを許可するぜ!」
ひらひらと舞う桜の花弁を身に受けながら、すっかり出来上がった左之さんが声高に笑う。すでに諸肌を脱いでおり、真一文字の傷跡が残る腹は花に晒されている。こいつ、この場に女子がいるということを、完全に忘れてやがるな。
「ま、今更どうとも思わないけどね」
左之さんの腹の傷を見るのは初めてではない。なんなら、無理やり触らされたこともある。
杯の注がれた酒を飲み干そうと思ったら、突然横から伸びた手に杯を掻っ攫われた。
「ソージ。何しやがる」
ぎろりと睨めば、負け劣らずの眼力で睨まれる。
「お前、そろそろ酒は控えろ。お前が出来上がったら、後々面倒だ」
「失礼な。自分があんまり酒を飲めないからって、私に付き合わせるんじゃねえよ」
「そんなんじゃねえよ。お前は自分が酔っぱらった姿を覚えてねえから、そんなことを言えるんだ」
そこまで言われれば、不安にもなってくる。確かに、完全に出来上がった時の記憶なんて持ち合わせていない。
「ねえ……私って、そんなに酒癖悪いの? まさか、私もあの莫迦みたいに諸肌脱いで、腹踊りとか始めるわけ?」
永倉さんと平助の音頭で腹踊りを始めた左之さんを指差せば、呆れた目つきで見られた。
「んなことをしようものなら……」
「ものなら?」
「俺が問答無用でやめさせる」
とどのつまり、どんな乱暴な手段も辞さないつもりらしい。
大人しく杯を置いた私は、若先生が買ってくれた三色団子にかぶりついた。
「やっぱ、お花見には団子だよな」
「ふん。お子さまは安上がりで結構なことだな」
渋い番茶を啜りながら嫌味を言うトシゾーをじろりと睨む。この大きな子供も、ソージと同じく下戸の口である。
「てめえに言われたくねえよ、じじむさ野郎」
「誰がじじむさだ。そもそも、花見に美女を呼ばねえのが間違ってやがる。気の利かねえやつらだ」
「おい、色呆け男。こっちを見ろ。美女ならここにいるぞ」
途端に、憐れみの籠った目で見られた。咄嗟に殴りかかろうと思った手を止める手がある。山南さんだ。
「まあまあ。女子は呼べませんが、せっかくの花見です。花を添える話でもしましょう」
「衆道話なら勘弁してくれ」
「違います。みなさん、勧酒という漢詩をご存知ですか?」
と尋ねられて、「知っている」と答えられる知恵者はここにいない。揃って首を傾げる中、トシゾーが不機嫌そうに声を上げた。
「知らなかったらなんだっていうんだよ」
人一倍見栄っ張りな男のことだ。知恵深い山南さんのことを、邪見にする節がたまにある。この時もそうだったのだろう。ぶすり、と口を歪めるトシゾーに、山南さんは小さく苦笑した。
「唐の詩人、
君に勧める
人生、
といったうたです」
寺子屋には通ったが、漢詩の心得などない私にはさっぱりだ。首を捻る一同を見回して、山南さんは思案するように腕を組んだ。
「和訳はそうですね……。
この杯と受けてくれ
どうぞなみなみ注がせておくれ
花に嵐のたとえもあるぞ
「サヨナラ」だけが人生だ
といったものはどうでしょう?」
漢詩の心得のない私には、やはり意味がよくわからない。
だけど、ひどく寂しいうただと思った。
「山南さん」
ふいに声を上げた若先生に、山南さんの視線が向く。
「あっちで出来上がった左之が、平助に接吻をしています」
「ご褒美ですね!?」
慌てて駆けて行った山南さんの背を見ながら、トシゾーが忌々しげに呟く。
「ふん。相変わらず、気色悪いやつだぜ」
「まあまあ、トシ」
「サヨナラだけの人生なんて、くそつまんねえ。糞して寝た方がマシだぜ」
などと言って、トシゾーは少しむくれてしまったけれど、この日はみんなで笑って、はしゃいで、騒ぎまくって、実に楽しい一日だった。
ひらひらと舞う薄紅の花弁を見上げながら、ずっとみんなとある未来を信じて疑わなかった。
だけど、狂い咲きの桜はあっという間に散ってしまって。
生き急ぐように散ってしまった桜は、楽しい時間は終わりだという、夢の終わりを告げているようだった。
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