一紗、恋を知る(四)



 しん、と静まり返った道場で重い頭を解き、浅葱色の髪紐で一つにくくる。他の女への贈り物だとしても、この髪紐は密かに気に入っていた。何といっても浅葱色は武士の切腹裃の色だ。切腹覚悟で挑んだ勝負で、戦わずに負けた私にはぴったりの色だろう。

 動きにくい着物も、婚礼の儀が終わったらとっとと脱いでしまった。いつも通りの稽古着に着替えると、めでたい日だと浮かれるみなを残して、一目散に道場を目指した。

 道場の入り口からは、満開の桜の木がよく見えた。あの日、初めて若先生に出逢ったのもあの桜の木の前だったな……などと思いを馳せながら、入り口の正面に竹刀を構えて立つ。無心になって竹刀を振れば、莫迦げた恋心なんてすっかり昇華してくれるはずだ。我を忘れていったいどのくらい素振りをしていたのだろうか。ふと気がつけば、入り口にひっそりと一つの影が伸びていた。


「……若先生」


 どうして、今ここにいるのだろう。

 夜はとっぷりと暮れている。騒がしかった大座敷からも、今はかすかないびきが立ちのぼるだけ。新婚初夜であるはずの若先生は、今頃花嫁さんと床入りを果たしている刻限だ。


「惚れ惚れするほど良い太刀筋だな。お前と宗次郎の持つ剣の才能といったら、俺でも恐れ入るほどだよ」

「いや、あの……若先生、どうしてここに?」

「ん? ああ、あの騒がしい場では一紗とゆっくり話せなかったからな。道場にいると聞いたので、追ってきた」


 花嫁さんを置いて、私を? ……なんで?

 呆ける私に、若先生はにかりと笑いかける。


「なあ、一紗。俺と勝負しないか?」

「……勝負?」

「そうだ。俺が勝ったら、ここ数日一紗が塞いでいた理由を教えてくれ。代わりに一紗が勝ったら、一紗の願い事をなんでも一つ叶えてやろう」


 その提案に、びくんと心の臓が跳ねる。やはり、若先生も私に避けられている自覚はあったのだ。若先生にしてみれば理不尽な仕打ちのはずなのに、それでも私に何を尋ねるでもなく、今日まで普通に過ごしてくれたのはなぜだろう? そして、どうして婚礼の夜になって、私にそれを尋ねるのだろう? じっと見返してみるも、ゆるりと弧を描いた双眸からは何も読み取れなかった。

 もし、この勝負を受けたとしても、若先生に容易に勝てるとは思っていない。だけど、万が一私が勝った場合、なんでも一つ願い事をきいてくれるの? ……本当に、なんでも?


「どうだ? やるか?」

「…………はい。やります」


 ぎゅっと竹刀を握り締めれば、背中に冷たい汗が伝った。

 私は何を考えているのだろう。例え勝ったところで、この願いを言えるはずがない。だからといって負けたとしても、避けている理由を正直に話すことはできない。

 私は、若先生は、この不毛な戦いの果てに何を望んでいるのだろう?


「キエ――ッ!」


 細長く上がった裂帛の気合に、びくりと肩が震える。慌てて目を向けた先には、いやに真剣な目をした若先生が、じりじりと間合いを詰めていた。

 ――――ああ。久しぶりに感じてしまった。

 明らかな力量の差を持った相手が、怖い。真っ直ぐに向けた竹刀の先に見える、絶対的な敗北が怖い。だけど、同時にわくわくするのだ。決して自分の手には負えないような相手を前にした時に感じる、高揚感。全身を駆け巡った興奮に、ぶるりと武者震いをする。


(……ああ、結局)


 自分にはこれしかないのだと思い知る。誰を好きになっても、誰に好きになってもらえなくても、結局この手に残るのは一つしかないのだ。そう自覚した瞬間、嬉しいような悲しいような、不思議な気分になった。混乱する頭を落ち着かせるように、渾身の強打で打ち込む。面の前で竹刀を受けた若先生が、よろりと後ろへ後ずさった。


「相変わらず、女子にしておくにはもったいないほどの力だな」

「……どうも」

「だが、俺も負けんぞ。むんっ!」


 強い力で押し戻ってくる竹刀を、更に力を加えて押し戻す。と、ふいに押し戻す力が消えた。思わずつんのめったところに、腹をめがけて横凪ぎの一閃がひらめく。すんでのところで高く飛んで避ければ、爪先スレスレに竹刀が横切った。


「怪力の上に身軽ときたもんだ。本当に、お前たちの剣術の才能といったら末恐ろしいよ」

「どうも。でも私たちの師匠は、こんなところで引き下がるような人ではないでしょう?」

「もちろんだ」


 私と若先生の大きな差は、耐久力にある。長期戦にもちこまれると、私は集中力が途絶えてしまう。そこを狙えば、私など簡単に勝てる相手のはずなので、思いっきり踏み込んだ一撃に若先生の竹刀が飛ばされた時は、目を見開いて驚いてしまった。


「ああ、負けた。しばらく見ない間に、また一段と強くなったなあ」


 そう大らかに笑いかけられてしまえば、わざと勝たせてくれた文句も言えない。どこまでも優しくて甘い若先生は、初めから私に勝つ気などなかったのだ、最初から私に勝たせるつもりで――――なんでも願い事を叶えるつもりで、私に勝負を挑んできた。

 流石、鬼瓦。私が惚れた男なだけある。

 そして、こんなにも優しくて甘いこの人に、本当の願い・・・・・・など言えるはずがなかった。


「約束は守らなくちゃな。どれ、一紗。どんな我儘でも聞いてやるから、願い事を一つ言ってみろ。ただし、俺は金を持ってないから、平清ひらせいの仕出しが食べたい、なんて願い事は勘弁してくれよ」

「ええー。平清は駄目なんですか? じゃあ、一両二分するって噂の、八百善やおぜんの茶づけにしようかな」

「い、一両二分か……。へそくりをはたけばなんとか……」


 ぶつぶつと勘定を始めた若先生を見て、思わずぷっと噴き出す。この人は私を元気づけるために、床入りを抜けてまで、わざわざ負ける勝負をしにきてくれたのだろうか。若先生がこういう優しくて誠実な男だからこそ、私は好きになったのだな。もう、いつから好きだったのか忘れるくらい、大事な大事な想いだったのだなあ。

 だからこそ、この想いだけは綺麗なままにしておきたい。


「へへへっ。冗談ですよ。そうですね、八幡さまの桜餅を奢ってくれたら、この機嫌を直して差しあげますとも」


 さよなら、恋心。お前は私が墓場まで持っていく。

 心中でけじめをつけた私は、若先生に向かってにっこりと笑いかける。

 若先生と別れた私は、その足で中庭に掘りっぱなしになっていた墓穴を埋めた。


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