一紗、恋を知る(三)



 そう、ソージは言うけれど。

 この問題に関しては、おいそれと口にできることじゃない。それくらいは、脳みそ筋肉の私でもわかる。

 だからといって、このまま若先生を諦められるかと訊かれたら、自信がなかった。あの大らかな笑顔が、あたたかな手が、私ではない他の女性のものになる。そう考えれば考えるほど、心がじくじくと膿んでくる。こんな醜い自分を見せられなくて、ひたすらに若先生を避けていたら、いつの間にか婚儀の日になっていた。


「おめえさん、その恰好はどうしたよ」


 婚儀の日だというのに、黒の着流しを粋に着こなしたトシゾーが、女物の着物を身に纏った私を見て、驚いたように声を上げる。

 今日は若先生の婚儀の日。つまり、今日という日を逃したら、もう若先生に想いを伝えることは叶わない。だからといって、伝えるかどうかの覚悟はまだつかない。それでも、一度でいいから若先生に一人の女子として見て欲しい一心で、おかみさんから借りた藍色の着物だ。


「……うるさいな。今日はハレの日だから仕方なくだよ、仕方なく」

「へえ? 正月でも袴で通したお前さんがか?」

「う、うるさいな! いいから、女物の髪型を結ってくれよ! お前を呼んだのはそのためだからな!」


 ただ残念なことに、女物の着物を着ても、女物の髪型がわからなかった。ただそれだけのことで髪結いを呼ぶのは気が引けるし、だからといっておかみさんに頼む気にはならない。それで、女遊びが乗じてもはや女子の髪型が結えるトシゾーを呼んだ次第だ。


「いつも通り一つにくくってればいいじゃんよ? それにお前、女の髪型は頭が重くて厭だ~とか言ってなかったっけ?」

「そ、そんなことは言った覚えがない! 今まではちょっと気が乗らなかっただけだ! いいから結ってくれ!」

「へいへい。で、お客さん、どうします? 奴島田やっこしまだ結綿ゆいわた先笄さっこうにと……まあ、ある程度はできるけど」

「お前が大変器用なのはわかったけれど、何を喋っているのかよくわからない」

「じゃあ、とりあえず俺に任せとけよ」


 トシゾーはとても手慣れていた。以前呉服屋に勤めていたこともあって器用なのは知っていたが、こうも女の髪型に手慣れているのも問題である。どうせ、閨を共にした女子を喜ばせる一環として、髪型を結ってあげているんだろうなあ……と思っているうちに、ブツは出来上がっていた。


「……おい、これは可愛らしすぎないか?」

「そんなことねえだろうよ。これは江戸の町娘がよく好んでいる髪型だぜ? お前さんくらいの歳の子は、揃って結綿にしてるさ」


 トシゾーが結ってくれたのは、つぶし島田に浅葱色の髪紐を手絡てがらのようにかけた、結綿という髪型らしい。


「ねえ、この髪紐、どこから取り出したのさ」

「それはまあ……たまたま持ってただけだよ。たまたま」


 どうせ、どっかの姉ちゃんにあげようとしたものだろう。それを私にくれたということは、たいして本気ではないということか。それならばと、ありがたく貰い受けることにした。


「おい。そんなしけた面して、鏡をじろじろ見るもんじゃねえよ。このトシゾーさまが手ずから結ってやったんだ。似合ってねえはずがねえ。きっと、かっちゃんも喜んでくれるさ」


 鬼の形相で振り返った時には既に、トシゾーはひらひらと手を振りながら部屋を出たあとだった。


(あいつ、かっちゃんも喜んでくれるって言ったよな……?)


 その言葉に他意はないと信じたい。だけど、女心に聡いやつのことだ。この秘めた想いが露見していないとも限らない。


(ああああ……トシゾーまで露見してしまったら、今度こそ墓穴に籠ろう)


 そう決心して向かった大座敷では、この出で立ちをみんなして驚き、褒めてくれた。絶対莫迦にされると思っていたのに、手放しで褒めてくれる面々を見ると柄にもなく恥ずかしくなって、一目散に土間へと引きこもってしまった。


「これじゃあ、いかん」


 逃げちゃだめだ。私は、若先生に女として意識して欲しくて、晒し者にされるのを覚悟で女物の着物を着たのだ。当の若先生に見てもらわなければ、何の意味もない。

 だからといって大座敷に戻る勇気も出ず、かといって料理の役にも立たない私が土間で腐っていること四半時。迎えに来たのは例によってソージだった。


「おい、女装女」

「……私はもともと女ですー」

「知ってるよ。ほら、もうすぐ若先生の婚儀が始まるぜ。行こう」


 差し出された手を、渋々ながらにとる。不貞腐れた顔をしているであろう私をとっくりと眺めて、ソージは不思議そうに首を傾げた。


「なんだよ。不機嫌そうだな。その女装、みんな褒めてくれたんだろ?」

「だから私はもともと女だってば。……褒めてくれたけどさ、こんな女らしい着物に髪型、私に似合うもんか。切腹裃の方がよっぽど似合うよ」

「そんなの似合ってどうすんだよ……。大丈夫。お前はちゃんと、綺麗だよ。俺が保証する」


 あんたに保障されてもなあ……と腐りながら辿り着いた大座敷には、黄昏色の闇がうっすらと伸びていて。行燈の明かりが、紋付き袴姿で坐す若先生を照らしている。


「おう、一紗じゃないか。随分と久しぶりな気がするなあ」


 だって、どう接すればいいかわからなくて、全力で避けていたもの。そう言い返すこともできず、私は上座に坐す若先生に向かって、力なく笑ってみせた。


「そう、ですか?」

「うん。このところバタバタしてたからなあ。今日は俺の婚儀ためにおめかししてくれたのか? ありがとうなあ」


 そう屈託もなく笑われてしまえば、もう何も言えなくなった。

 違うんだ。若先生の婚儀のためにじゃなくて、若先生のためにおめかししたんだ。若先生に一度でもいいから、一人の女子として見てもらいたかったんだ。

 言いたかった言葉を、ぐっと飲み下す。強く下唇を噛み締めると、情けない表情が見えないように頭を下げた。


「本日は……ご婚礼、おめでとうございます」

「うん。ありがとう」


 ああ、この笑顔だ。右も左もわからないような悪たれだった私が、初めてこの試衛館にやって来た時、迎えてくれたのはこの太陽のような笑顔だった――……。

 若先生の顔を真正面からとっくりと拝んだ私は、最後に綺麗に笑って席へとついた。

 言えなかった。――――言えるはずがなかった。

 心の底から幸せそうな若先生を見ると、わざわざ幸せを壊すようなことなんて、言えるはずがなかった。

 完全に日が暮れてやって来た花嫁さんは、御三卿ごさんきょう清水家家臣の娘で、由緒ある家柄の割にはこれといって特徴のない人だった。のっぺりとした顔はお世辞にも美人とは言えない。でも、これからはあの人が若先生の隣に立って、生涯を共にする女性なのだ。そう思うとどうしても居た堪れなくて、思わず下を向く私の手をふいにソージが掴んだ。


「一紗が俯く必要はねえよ。堂々としてろ」


 と右隣のソージが呟いたと思ったら、


「クソ猿の方が百倍美人だぜ。良かったな、まだ勝機はある」


 などと、左隣のトシゾーも呟く。

 どうやら、慰めてくれているらしい。そしてやはり、トシゾーにもこの恋心はばれていたようだ。

 そう思うと無性にほっとしてしまった。ようやく、心から息をつくことができた。


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