一紗、恋を知る(一)



 年が明けて、弥生の三日。世の女子おなごがやれ雛祭りだとはしゃぐ中、日の本を震撼させる一大事件が起こった。

 その日は明朝から季節外れの雪模様で。しんしんと積もった牡丹雪に、ソージと二人大はしゃぎしていた。事件が起こったのは、薄日が差し込める早朝。場所は、雛祭りの祝賀のために諸大名が登城する、江戸城桜田門の前。水戸脱藩浪士十七名、薩摩脱藩浪士一名によって、大老・井伊直弼が暗殺されたのだ。

 江戸開府より二百五十年あまり。一脱藩浪士によって幕府大老が暗殺される事件なんて起こったこともなかったし、ましてや、江戸城を目と鼻の先にした城下で無残な死を遂げるなど、考えられるはずもなかった。――――この時までは。

「黒船の来航より九年。尊王攘夷そんのうじょういの思想が日々激化する中での、この事件だ。もはや一枚岩とはいかなくなった幕府は、これから更なる混乱に見舞われることだろう。こたびの水戸浪士の一件など、更なる動乱の一端にすぎぬやもしれん。幕府の一大事ともいえるこの折、我ら天領てんりょう(※徳川幕府直轄地)に住む者たちが、このまま多摩の片田舎で腐っていてもいいのだろうか」

 という難しい話を、若先生は食客を集めては、喧々諤々けんけんがくがくと論議を交わすようになった。若先生の言う通り、今が日の本の一大事だということは、江戸の町に流れる不穏な空気でわかったけれど、その実、何がどう一大事かという詳しい事情までは、筋肉しか詰まっていない脳みそではわからなかった。それはソージも同じようだったけれど、私たちはたいして不安には思わなかった。

時代がどこへ向かおうとも、私たちのやるべきことはただ一つ。唯一の取り柄であるこの剣で、試衛館の、若先生の役に立つ。

そう胸に誓う私の耳に、若先生が嫁をとるという噂が流れてきたのは、庭の桜の木が蕾をつけ始めた頃。





「――――で、かずちゃんは最近何をお悩みなの?」


 小さな蕾のついた桜の木を、縁側に座ってぼんやりと眺めているところに、お幸ちゃんから声をかけられた。


「……別に。筋肉でできている脳みそに、悩みなんてありませーん」

「ふふふ。脳みそ筋肉でも、かずちゃんは年頃の女の子だもの。一つくらい悩みがあってもおかしくないわ」


 そう言うかずちゃんは、流石に鋭い。女子の中の女子なだけはある。だけど、こう面と向かって尋ねられても、自分が何を悩んでいるのか、他でもない私が一番わからなかった。


「別に悩みってほどでもねえよ。ただ、なんとなくやる気が出ないだけ。ちょっと早めの五月病だよ」

「やる気が出ないって……大好きな剣術にも身が入らないほどなんでしょう? 宗次郎さんから聞いたわよ。大事な塾頭じゅくとうを決める試験でも、とんとお話にならなかったそうじゃない」

「うぐっ」


 可愛い顔して、傷を抉るお幸ちゃんである。

 そう。私のこのやる気のない病も、なかなか深刻なのだ。というのも、若先生が独り立ちをしたのを期に、新たに塾頭を選抜することになった。門下生の中で候補として選ばれたのは、私とソージの二人。女の身である私が新たな塾頭候補として選ばれたことに波紋がなかったわけではないが、この道場で最も腕が立つのは私とソージなのだ。私より弱い者が異論を挟めるはずがない。それでも不平を言う輩には、影で剣にものを言わせて黙らせた。そうして挑んだ試験で、私はソージに惨敗したのだ。


「あれは、その……たまたま具合が悪かっただけで」

「言い訳をしなくても、別に私は怒ってないよ? 烈火のごとく怒っていたのは、宗次郎さんだけでしょう?」

「やっぱり……。あのさ、ソージ、まだ怒ってるの?」

「それはもう、怒髪天どはつてんを突く勢いで」


 やはり容赦のない物言いのお幸ちゃんに、がっくりと肩を落とす。私の見事なまでの惨敗に怒ったのは、他でもない対戦者のソージだった。若先生や他の食客などは、「調子が悪かっただけだ」「塾頭の座は残念だけど、次は頑張れ」などと、口々に慰めてくれたが、あいつだけはそうはいかなかった。いや、実際に剣を交えたやつだからこそ、わかってしまったのだろう。私の心が、剣にさっぱりこもっていなかったことを。


「も~、面倒くせえなあ~。お蔭でのうのうと塾頭の座に就けたからいいじゃねえか。何がそんなに不満なんだか」

「のうのうと塾頭の座に就いたことが不満なんでしょう? 宗次郎さんは、かずちゃんといつも通りのいい勝負がしたかったのよ」

「知るかよ~。私だって、自分がどうしてこうなったのかわかんねえんだ。若先生が嫁をとるって聞いた時から、何をするにもやる気が出なくて。やる気が出ない病の治し方があるってんなら、私の方が教えて欲しいくらいだぜ」

「…………。かずちゃん、それって……」

「それにさ、ソージに負けたってのに、それほど悔しくないんだ。元来負けず嫌いの私が、ソージに負けて塾頭になれなかったことを、それほど悔しく思ってないんだぜ? もう重篤な病としか思えねえよ。何か悪いもんでも拾い食いしたかな」

「ねえ、かずちゃん」

「ん?」

「あのね……すごく、すごーく、言い辛いのだけど」

「なんだよ。もったいぶるなよ」

「うん。あのね、かずちゃん。落ち着いて聞いてね。かずちゃんはその……若先生のことを、お慕いしているんじゃないかな?」

「何をもったいぶっているかと思えば。若先生のことを慕っているなんて、そんなの当たり前じゃないか。そんなの、お幸ちゃんだって同じだろ?」

「いや、まあそうなんだけど。だから……私が言いたいのは、かずちゃんが一人の男の人として、若先生のことを慕っているんじゃないかってことよ!」


 突然声を荒げたお幸ちゃんを、ぽかんと見上げる。

 私が若先生のことを、一人の男として好きだって?

 あまりにも現実離れした言葉に、乾いた笑みが漏れた。


「……そんなの、ありえない。ありえちゃいけないだろ? だって、若先生はお嫁さんをもらうんだぜ?」


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