宗次郎、巻き込まれる(五)
心底くだらない発句事件からみつき。梅雨の終わり頃になって、若先生がとうとう独立した。ぎっくり腰がなかなか治らない周助先生が、いよいよ老いを自覚したらしい。隠居に踏み切った周助先生は
「――――これを機に、正式入門を考えたらどうですか?」
真昼間から母屋で日向ぼっこをしている歳三さんに声をかける。ただ日向ぼっこをしているだけかと思ったら、その手にはいつかの紙の束が握られていた。
「まだ懲りてなかったんですか……」
「何のことだか。これほど崇高な趣味を、そうやすやすとやめられるかよ」
「よく言いますね。言っておきますけど、俺は騙されて道場破りをしたこと、まだ許していませんよ。あれ以来、俺は強者館に出入り禁止になったんですからね」
「知るか。お前が勝手に早合点しただけだろ」
あれだけ痛い目に遭ったはずなのに、いっかなこの調子である。もう溜息すら出ない。
「今日は若先生の四代目就任披露ですから、流石に重い腰を上げたようですけど、若先生には会っていかないんですか?」
「けっ。俺が行かなくても、かっちゃんの周りには出来のいい門下生や食客がひしめいてんだろ。だったら俺の出番はねえや」
そしてこっちの方も相変わらずこの調子である。素直じゃない大人って面倒くさい。面倒くさいついでに、意地悪な考えがのそりと顔を出した。
「若先生は発句事件について何も知らないんですよね?」
「あたぼうよ。お前も余計なことは――」
「いいことを思いついた」
「は?」
「若先生にチクられたくなければ、天然理心流へ正式入門してください。それが黙っておく条件です」
にこりと笑えば、途端に苦虫を噛み潰したような表情をされた。かなり不機嫌らしい。そりゃあそうだろう。夢見がちのくせに、誇りだけ人一倍高い歳三さんが、俺のような若輩者に交換条件を出されているのだ。だから当然、承諾するはずもないと思っていたけれど。
「……しゃーねえな」
存外素直に頷いた歳三さんに、言い出しっぺの俺の方が驚いてしまう。
「なんだよ」
「いや……まさか、承知するとは思わなかったから」
「べ、別にお前に脅されたからじゃねえぞ! たまたま暇だからだ!」
ぷいっとそっぽを向いた歳三さんの頬が、赤い。ぶっ、と噴き出しそうになった口を手で押さえると、慌てて背を向けた。
(て、照れてるとか、気持ち悪い……!)
どこまでも不器用で、天邪鬼な男である。本当は正式入門したかったにも関わらず、きっかけが掴めずに、今までずるずると我流を通していたらしい。もしかしたら、俺がこうやって誘うのを、ずっと待っていたのかもしれない。
そう思えば思うほど、おかしくて。
同時に、土方歳三という男が、好ましくも思えた。
「おい、てめえ、何を笑ってやがる」
「別にー。笑ってませんって。それより、正式入門とあれば、稽古には毎日来てくださいよ。それと、俺の方が先輩なんですからね。あ、なんなら、沖田先輩って呼んでくれても――」
「調子に乗るな」
振り下ろされた拳骨を器用に避ける。空を掻いた手を掴むと、みんなが集まる大広間へと向けて足を踏み出した。
「おいっ!」
「いいじゃないですか。正式入門ともなれば、他の門下生や食客のみなさんとの関係も大事ですからね。折もいいですし、自己紹介などなされては」
「そんな恥ずかしい真似できるかよ!」
「あ、そうそう、座敷には先日お逢いした、一紗の三味線の師匠さんもいるんですよ。これがかなりの器量よしで、おまけに未婚ですって」
ごめんなさい、お琴さん。あなたの存在を犠牲にしてしましました。
そう心の中で謝罪しながら、明らかにやる気になった男を見遣る。まあ、軽く話した限り、お琴さんはしっかりした女性だ。この女たらしの毒牙にかかることはないだろう。もし危なそうならば、俺が助ければいい。今は何より、この男のやる気を損なわないことの方が大事なのだ。
「おい。早く三味線の師匠のところに案内しろ」
「はいはい。でも、その前にみなさんへ挨拶してくださいね」
「しゃーねえな」
後にこの時の浅慮がとんでもない縁談を引き起こすことになるのだが、この時の俺はまだ知らない。
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