宗次郎、悩む(三)
見慣れた田園風景に青葉ではなく、
「この方は
下戸のくせに、珍しく泥酔している若先生に叩き起され、紹介されたのは、小柄ながらもなかなかがっしりとした身体つきの男。年の頃は若先生より五つほど下だろうか。年下ながらも、若先生にも見劣りしない鋭い眼光は、流石神道無念流の免許皆伝者といったところだ。熟睡していたところを起こされた不満は、いつの間にか吹き飛んでいた。
「神道無念流って、あの三大道場の一つ、
名より人柄より、剣術の流派に意識が向いてしまった様子の一紗に、心中で苦笑を零す。かくいう俺とて、まずそこが気になってしまったのだから、人のことは笑えないのだけれど。
「残念。俺あ同じ神道無念流でも、
「あー! その岡田って人知ってる! 練兵館の先生の、そのまた師匠に当たるやつだろ? そんな人に教えてもらっていたなんて、お前すげえやつじゃん!」
学問のことなどさっぱりのくせに、剣術の知識だけは無駄にある一紗である。そんな一紗の失礼な言葉の数々にも一切厭な顔をしない永倉さんは、実に気持ちよさそうな顔で笑った。
「なんだあ、嬢ちゃん。剣術が好きなのか?」
「おうよ。私はいつか、この日の本で一番の剣客になるんだ」
「嬢ちゃんが? わっははは! こりゃあ愉快な嬢ちゃんだ。勇さん、あなたの言った通り、ここには退屈しない人間が多そうだなあ」
永倉新八という男は、実に気持ちの良い男だった。元は松前藩の武家の跡取りとして生まれたようだが、剣術好きが祟ってついには脱藩をし、武者修行に明け暮れる毎日を送っていたらしい。若い頃はかなりやんちゃをしていたようで、ついたあだ名が「
脱藩をしてまで剣術修行をするだけあって、永倉さんの剣の腕はかなり確かなもので。そうそうに手合わせを願ったが、三本中一本取るのがやっとだった。それでも永倉さんは「若いのによくやるもんだ。あと三年もすれば俺が負けていたかもしれねえ」と慰めてくれたが、三年後永倉さんに敵うとは到底思えなかった。
ちなみに一紗は三本中二本取って勝った。が、あれは誰の目から見ても、女子である一紗に永倉さんが遠慮しただけにしか見えなかった。それは当の本人が一番わかっていることで、手を抜かれたことに
しかしただ一人、瞬く間に試衛館の人気者になった永倉さんのことを快く思っていない人物がいた。歳三さんだ。
「永倉さんは剣も強くて頭の良い。自分にないものを持っている永倉さんが羨ましくて気に入らないだけでしょう。どうせ」
そう言った俺に、歳三さんは容赦のない拳骨を落とした。手が出るということは、当たらずも遠からずということだろうか。同じ食客身分である左之さんとは、どちらが先に好みの女を落とせるか、などとつまらない勝負をしによく岡場所へ繰り出しているくせに、永倉さんだけは認められないとはどういう了見の狭さだろう。猛烈に痛む頭を押さえながら、畦道をぶらぶらと歩く薬売りを睨みつける。
「図星だからって、すぐに手を出すのはやめてください」
「ばっきゃろ。誰が図星だ。それに俺は、あいつが持ってないものをたくさん持っている。嫉妬する理由もねえよ」
「持っていないものって?」
「まず金だろ。それに女だろ。そしてこの美貌だろ。どっちが羨ましがっているか、一目瞭然じゃねえか」
このボンボンは……。痛む頭を押さえる俺を、歳三さんが胡乱げに見下ろす。
「おい。そんなに痛かったのかよ。まったく、日頃の鍛練が足りてない証拠だな」
「門下生でありながら、真面に稽古にも出ていないあなたに言われたかないですね。あなたこそ、そんなに羨ましいのだったら、真面目に稽古に出たらどうですか? 筋は悪くないんだから……」
「ばっきゃろ! だから、全然羨ましくねえって! 別にあいつが武家身分だからって、羨んでいるわけじゃねえからな!」
嫉妬していた理由はそっちだったのか。更に痛んだ頭を、掌で押さえる。
このボンボンは生粋のボンボンなだけあって、かなりの夢見がちだ。豪農の生まれでありながら、いつかは武士になるという夢を性懲りもなく抱き続けている。だからこそ、武士の子に生まれながら、あっさりと武士身分を手放した永倉さんに嫉妬していたのか。
「……ま、諦めたらそこで試合終了ですからね。夢を追いかけ続けるのはいいことじゃないですか」
「何言ってんだ、お前」
「いいことを教えてあげますよ。夢を書いた短冊を枕の下に入れて寝ると、その通りの夢がみられるらしいですよ。ボンボンはボンボンらしく、せめて夢の中で大名気分でも味わったらどうですか」
二発目の拳骨が投下する前に、全速力で逃げた。
「ソージ、このやろう!」
「だから、俺の名は宗次郎ですってば! 一紗の真似をしてソージと呼ぶのはやめてください! それと、出稽古先についてくるのもやめてくださいね! 伸びた門下生に骨接ぎ打ち身の薬を売るなんて、ただの悪徳商法ですから!」
「うるせえ! 俺さまの天才的な商法にケチをつけるんじゃねえ!」
水浅葱に染まった空のどこかで、
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