宗次郎、悩む(一)



 いつの間にか公方くぼうさまが変わっていたらしい。

 というのも、十三代将軍・徳川家定とくがわいえさださまには、子がいなかった。いないまま、この世を去ってしまったため、将軍継嗣しょうぐんけいしを巡って揉めに揉めたらしい。幕閣にも大きな影響力を持つ水戸藩主・徳川斉昭とくがわなりあきらさまなどは、実子である一橋慶喜ひとつばしよしのぶさまを推していたようだが、血筋を重んじる譜代大名や斉昭さまに反感を持つ大奥は、紀州藩主・徳川慶福とくがわよしとみさまを推した。そのような経緯で揉めていた将軍継嗣問題は、彦根藩主・井伊直弼いいなおすけさまが大老に就任したことでいきなりの終息をみせた。十四代将軍を徳川慶福さまに決定した井伊大老は、一橋慶喜を推していた派閥の弾圧を敢行した。それがあの悪評高い安政の大獄であり、いっそう尊王攘夷の気風を高めることになるのだが……やはり、江戸の片田舎に暮らしていた俺たちには、知る由もないことだった。




 昨年の暮れあたりから、俺たちはようやっと寺子屋に通うようになった。十六で寺子屋に通うことはかなり遅れていることであり、加えて一紗はあのナリと気性だ。当然、寺子屋の悪たれ坊主共から目をつけられ、何かによってからかわれるようになったが、ただで転ぶ女ではない。俺が助けるまでもなく、寺子屋の悪たれ坊主共をこてんぱんにのした一紗は、入塾三日でガキ大将へと昇りつめていた。


「おい、女房。最近、旦那はなんで女装してるんだ?」


 表向きは一紗に従順になった悪たれ共だが、裏ではこそこそと陰口を叩いているのを知っている。だから、「旦那」というのは一紗の裏でのあだ名だろうが、「女房」とはもしかして俺のことだろうか。それは聞き捨てならない。


「おい、悪たれ。まさかとは思うが、女房というのは俺のことか? 理由を説明しろ。場合によってはしばく」

「今はそんなことどうでもいいよ。それよりも、旦那の女装は一体全体どういうことだい。気持ち悪くてしゃーねえわ」


 悪たれ一の言葉に、苦く顔を歪める。一紗は元から女だ。あれでも一応。だから、別に女の恰好をしていてもおかしくはないのだが、これまでがそうでなかったからおかしく見えるだけだ。

 自慢ではないが、うちは着るのにも事欠く貧乏。だから、手足だけにょきにょきと伸びた一紗も、それまでと同じようにつぎはぎだらけの小袖をつるつるてんになってまで着ていた。が、流石に哀れに思われたらしい。おかみさんなどは女物の着物を古着で買ってきてくれたけれど、一紗はこれを動きにくいと拒否した。ここでおかみさんと一紗の大喧嘩が始まった。これを見かねた若先生が買ってきてくれたのが、俺が履いているのと同じ、男物の袴。これは動きやすいと、一紗は手を打って大喜びした。以来、一紗は若先生から買ってもらった袴を後生大事に履いていたのだが、これを先の騒動以来取り上げられてしまった。


「なあ、なんで? なんで旦那は、袴を履かなくなったんだ?」

「まあ……いろいろ事情があるんだよ」


 お家の者以外に言えるはずがない。道場に忍び込んだ賊を女子の手で仕留めたまでか、それを俵担ぎにして番屋に突き出したなんて。無理に習わせてもらっている剣術が思わぬかたちで役に立ったことか、それとも大の男を俵担ぎにしたことか、それとも食い意地が張り過ぎていることか……まあ、何がおかみさんの琴線に触れたのかはわからないが、あの騒動以来、おかみさんの一紗に対する女子教育・・・・がいっそう厳しくなったのも事実。袴を取り上げられたことに始まり、最近ではお花やお茶、お琴まで習わされているらしい。うちで女今川おんないまがわ素読そどくさせられているのを聞いたこともある。


「もしかして、旦那はどこか嫁に行くのか?」


 悪たれ二の発した言葉に、俺は自分でも意外なほど驚いた。しかし、よくよく考えてみれば、一紗も今年で十七。結婚適齢期真っ只中である。もしかしたらおかみさんもそのつもりで、一紗の女子教育に熱を入れているのかもしれない。


「でもなあ、あれを嫁に欲しいと思う男がいるか?」

「いねえ、いねえ。飯を作らせたら魔物を生んで、掃除をさせたら物を大破させる女子だろ? そんなのをもらうくらいなら、家畜でも嫁にもらった方がマシだぜ」

「でも、旦那は見てくれだけはいいよな? 目の保養にはなるかも」

「顔だけはな。だけど、女子にしては背が高すぎる。旦那は生まれる性別を間違えたのよ」

「違いねえ。やっぱ、旦那を御せるのは女房しかいねえって」


 口々に言う悪たれ一、二、三の言葉に、乾いた笑いが漏れる。何となく旦那と女房のあだ名の理由がわかったところで、順番に頭をぽかりと小突いた。


「悪たれ共が、いい具合にませてんじゃねえよ。余計なことに首を突っ込む暇があったら、帰って母ちゃんの手伝いでもしな」


 ちなみに、一紗ほどではないが、俺も寺子屋ではそれなりに一目置かれているらしい。その大きな要因が、不本意にも一紗の幼馴染であるから、というものらしいが、便利なご威光なので甘んじている。

 恨めしそうに頭を押さえながらも、存外素直に家路を辿った悪たれ一~三を見送って、てくてくと牛込甲良屋敷に戻った。


(一紗が嫁ねえ……)


 そんなことは、天地がひっくり返ってもありえないだろう。そう思うからこそ、一紗が嫁に行く姿を想像すると、無性に笑いがこみ上げてくる。


「ははっ。あいつを嫁に欲しいと望む男なんていねえって」

「――――嫁がなんだって?」


 突如として横から上がった声に、柄にもなく飛び上がる。縁側では、大きな西瓜すいかを抱えた若先生と源さんが涼んでいた。


「ちょうど稽古上がりでな。トシが西瓜を持ってきてくれたんだ。宗次郎も食べないか?」


 にかりと笑う若先生に甘えて、遠慮なく西瓜を御馳走になることにした。本来ならば、礼は西瓜を持ち込んだ本人に言うべきだが、当の本人は周助先生と左之さんを連れて、廓に繰り出したらしい。ならば、感謝するだけ無駄というもの。


「俺にはさっぱり理解できません」

「なにがだ?」

「女を買う男の気持ちとか、男に買われる女の気持ちとか。いったい、何がそんなにいいのでしょう」


 しゃくしゃく、と西瓜を食む軽やかな音が、水浅葱みずあさぎをぼかした空に溶ける。本気で首を傾げる俺を見下ろして、若先生と源さんが不思議そうに顔を見合わせた。


「……宗次郎は、廓遊びが嫌いなのか?」

「そういうわけではありませんけど。でも、好んで遊ぼうとは思いませんね」

「まあ……身近で悪い例をあれだけ見ておけばなあ。トシのやつなんか、先月は吉原で危うくまげを剃られるところだったと言っていたぞ」

「うわ。本当に剃られれば良かったのに」


 吉原の遊女は、他の岡場所の遊女と違って、粋で張りがあると評判だ。お蔭で気位ばかりが高い。歳三さんなどはそこが良いと、わざわざ高い金を積んで吉原通いを続けているようだが、吉原は浮気者に対する制裁がとにかく厳しい。馴染みがいるのにも関わらず、他の遊女と遊んだ客には、髷を剃る、もしくは顔に墨で落書きをする、などの制裁が待っている。


「髷は剃られなかったようだが、顔には立派な髭と鼻毛が生えていたぞ」

「うわ。見たかったな。ヨボヨボのじいさんになるまでからかえるネタになったのに」

「……お前と一紗はとりわけトシに厳しいよな。そんなにあいつのことが嫌いか?」

「別に嫌っているつもりはありませんけれど。……そうですね、どちらかというなら、羨ましいのだと思います」


 不思議そうに首を傾げる若先生に、薄い微笑が漏れる。口内には西瓜の瑞々しい甘さが広がっていた。


「何ものにも縛られず、何ものにも囚われない、自由で気ままなあの人が羨ましいのだと思いますよ。多分、俺も一紗も。あ、でも、だからといって今自分たちが置かれている立場に不満があるわけではないので、心配しないでくださいね」


 後半部分は若先生が心配すると思い、無理に付け足した言葉だ。まあ、俺は今の生活に別段不満はないが、一紗はどうなんだろうなあ……と考えてしまう。大好きな剣術を取り上げられて、大嫌いな女子教育をさせられて。今の生活は、一紗にとって地獄と変わりないのではないだろうか。


(……あいつには帰る場所がある。俺だって、もう親が恋しくて寂しがるような童じゃない。大嫌いな女子教育に耐えるくらいなら、実家に帰ってしまえばいいのになあ……)


 それをしないのは、おかみさんから逃げたくないという無駄な意地だろうか。一紗の性格を考えるならありえることだ。まったく、面倒くさいやつ。長い溜息をつく俺を、若先生と源さんが心配そうに見下ろす。


「宗次郎。大丈夫で?」

「……面倒くさい」

「へ?」

「男とか女とか、本当に面倒くさい」


 はあ、と大人びいた溜息をつく俺を、若先生と源さんが首を傾げて見下ろしていた。


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