一紗、狼少女になる(六)
賊の名を、
なんでも松山藩を出奔してきた藩士で――――藩士といっても、最も下の身分である中間で、雑用しかさせられないような身分だが、仮にも武士身分の男は、意識を取り戻した番屋で滑らかに身上を語った。
「ほら、俺、この男ぶりだろ? だから女にもててもててしょうがなくてなあ。おまけに気前も羽振りもいいもんだから、それなりの人望もあったのよ。だけど上の人間からしたら、気に入らねえこともあるだろ? 一本差しの中間身分が、何を大きな顔をしているかってね。だからね、上のやつからはやっかみを買うことも多かったの。あの日も、よくは覚えてねえが、くだらねえ因縁をつけられてなあ……」
男ぶり、と言うが、この無精髭で埋もれている顔のどこを見て男ぶりを評価すればいいのだろう。それは男と顔を突っつき合わせている若い同心も思っていることで、終始渋面に満ちた顔をしている。
「……それで」
「それでな、言われたんだよ。武士とは名ばかりの中間身分が、どうせ腹の斬り方も知らねえんだろうって。当時俺は十代の生意気盛り。今ほど人間できちゃいねえ。ついに我慢の限界を超えた俺は、だったら腹くらい斬ってやる! と、横一文字に掻っ捌いたわけよ。もとより本当に腹を斬ると思っていなかった上司共は、腹から滲む血にびっくり仰天してなあ。もうやめてくれと頭を下げられた。あれは最高に気持ち良かったなあ……。で、その時の傷がこれよ。だからな、俺の腹はそのへんの軟弱な武士の腹と違って、金物の味を知っているのよ」
えへん、と悦に入ったらしい男を指差して、同心はげんなりとこちらを振り返った。
「……莫迦?」
「おそらく」
素直に頷いた私の背中を、「こら!」と若先生がつっつく。
「あの、その、失礼を申し上げました」
「構わん。それで、その方は奉行所に訴え出る気はないのだな?」
「ええ……まあ。金目のものは何も奪われていませんし。奪われたのは冷や飯くらいで……」
「だったら話は早い。双方、話し合いで片をつけろ。そして――」
同心の男はおもむろに鼻をつまんだ。渋面を更に曇らせると、臭いものを払うように目の前で手を振った。
「こいつを一刻も早く風呂に入れろ。臭くてかなわん」
どうやら、終始渋面だったのは無精髭男の口上だけではなかったらしい。揃って番屋を後にした私たちは、誰ともなく湯屋を目指していた。
「あの……原田さん」
「左之でいっすよ。えっと、しー、しー……なんつったかな?」
「試衛館」
「そうそう、しえーかん! ありがと、ちび」
「ちびじゃねえよ。また強制的におねんねしたいのか」
「まあまあ、一紗。それで、原田さん。原田さんは旅の途中か何かで?」
「そ。松山藩を出奔して武者修行に出たはいいものの、あてもない旅路だから路銀が底をつくのも早くてなあ。腹が減って腹が減ってどうにもいかなくなっちまったところで、えっと、しー、しー……」
「試衛館」
「そうそう! しえーかんに辿り着いたってわけ。その節はごちそーさんでした!」
「え、いや、その……どういたしまして」
湯屋から上がった男は、流石に腐臭を漂わせていなかった。だが、顔面を覆う無精髭はそのままだ。仕方がないので、湯屋の二階で涼んでいるうちに、回り髪結いを呼びつけて身だしなみを整えてもらうことにした。
「ねえ、賊」
「ち~び~。その呼び方はやめてくれ。若い娘は揃って左之さまって呼ぶから、お前もそう呼ぶといいぞ」
「おい、クズ。てめえ、いったいどれだけ風呂に入っていなかったんだ」
その問いに、男は「ひい、ふう、みい」と指を三本折った。
「三日?」
「いや、みつき」
喋るたびにもさもさと動いていた髭の下から、なかなかの男ぶりな顔が出現した。なるほど、自分で言うだけはある。白い肌にくっきりと整った目鼻立ち。それに長身。見てくれだけならもてるはずだ。トシゾーといい勝負の二枚目ぶりだが、トシゾーはどこか色っぽい二枚目で、この男は凛々しい二枚目だ。どちらが女子にもてるかは、好みの問題だろう。
無罪放免で戻って来た男を、試衛館の人間は賊と同一人物だと思わなかったようだ。おかみさんでさえ若先生の友達、もしくは新しい門下生と勘違いしていた。そして男はみんなの勘違いを逆手にとると、そのままのうのうと試衛館に居着いてしまった。
「あれ、そのままにしといていいんですか」
男――――原田左之助が居着いて早十日。ぶすり、と尋ねた私を、若先生が苦笑をもって見上げる。
「一紗は左之が嫌いか? 気が合うと思ったんだがなあ」
「気が合う合わないの問題じゃなくて、あいつはうちに忍び込んだ賊ですよ。それを何のお咎めもなしに食客に加えるなんて。人が良いにもほどがありますよ」
「うーん、でもなあ……。行くところがないと言っているし、このまま世間に放り投げれば、また腹を空かして冷や飯を盗みに入るんだろ? 世間さまに迷惑はかけられねえしなあ」
原田左之助は自分で言うだけあって、なかなかの好漢だった。中間時代の知恵のせいか、なかなか気が利くし、手先もそれなりに器用。暇を持て余しては、水仕事、力仕事と選ばずに手伝ってくれる。腕力だって申し分ないから、いざという時に頼りになる。流石におかみさんや周助先生にはあの時の賊と同一人物だと露見したが、露見した時には既に、何とも手放しがたい地位を手に入れていた。今となっては若先生までが、門下生のほとんどが「左之」や「左之さん」と親しげだ。
そしてなんといっても、武術の才能がずば抜けている。種田流槍術を修めたという槍に、真っ向から敵う者はまずいない。自ら不手だと話す剣術も、反射神経だとか膂力だとかいう基本能力がずば抜けているから、うちの古株でも敵わない者が出るくらいだ。お蔭でソージなどは、新たな好敵手に舌なめずりをして喜んでいる。かくいう私はというと、なかなか素直に喜べないでいた。
「どうしてうちがやつの食い扶持を分け与えなければいけないんですか……」
「うん?」
「だから! 食客、いや、タダ飯食らいが一人増えるということは、そのぶん私らの口に入るものが減るということでしょう!? うわ~ん、ひもじいのはもう厭だよう~!」
「か、一紗。大丈夫だ。ひもじい時は俺の握り飯をわけてやるから。な?」
「わ~ん、それじゃあ若先生がひもじくなっちゃうよ~! もう貧乏は厭だ~! いっそ
「こら、一紗! 短慮はやめなさい! 短慮はっ!」
蒼穹の空に私の嘘泣き声が響く。こんなことをするから本気の場面で信じてもらえなくなるとわかってはいるが、今は嘘泣きをやめられなかった。
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