一紗、狼少女になる(四)



 その夜。事件が起こったのは、深夜未明。そもそもの始まりは、激しい痛みにぽっかりと目が覚めたのがいけなかった。


「……は、腹が痛え……っ」


 きりきりと痛む腹を抑えながら、布団の上を転げ回る。痛い。どうしても痛い。右を向いても左を向いても、痛いものは痛い。ごろごろごろごろ、のたうち回っているところで、隣にお幸ちゃんが寝ていることに気づいた。そろそろと隣を振り返る。幸いなことに、お幸ちゃんは健やかな寝息を立てたままだった。


「な、なんてこったい……」


 食べ過ぎて腹を下したのは私の方らしい。とりあえず、厠。何を置いても厠に行きたい。そして、腹に潜む魔物を解放したい。

 地を這うような思いで厠を目指す途中、土間にかすかな明かりが灯っていることに気づいた。もしかしなくてもソージだろうか。お土産をわけてあげなかったせいで腹が空き、こっそり盗み食いをしているのだろうか。

 ソージにした意地悪な仕打ちを責めるように、腹の魔物がきりきりと痛んだ。まるで、私の行いを責めるかのような激痛に、腹を押さえてのたうち回る。


 私が悪かった。謝る。謝るから、どうかこの激痛とおさらばさせてくれ!


 決死の思いで辿り着いた土間で、とうとう力尽きた。痛みで立てない。だったらと、床をずりずり這いながら移動する。さながらナメクジのように辿り着いた先は、土間の隅に置いてあるお櫃の前。蝋燭の明かりにぼんやりと照らされている影は、お櫃に残った冷や飯を盗み食いしている。――――ようだが。


(…………ソージじゃなくね?)


 ソージにしては、影がでかい。食べ方が汚い。着ているものが粗末。それに、臭い。

 あっこれはソージじゃない。やばいやつだ。と気づくまで、そう時間はかからなかった。

 人間不思議な生き物で、新たな危機に直面するとそれまでの危機を忘れてしまうらしい。脱兎のごとく土間を後にした私が目指したのは、周助先生とおかみさんの寝室。寄り添って眠る二人の間に遠慮なく滑り込むと、周助先生の身体を渾身の力で揺すった。


「周助先生、周助先生!」

「んー……? ははは、もう勘弁してくれよ~……」

「何言ってるんですか! た、大変ですよ! ぞ、ぞ、ぞ……!」

「あー……? 一紗かあ……? ははは、雑巾ぞうきんは食えないぞ~」

「食うかよっ!」


 駄目だこりゃ。隣のおかみさんを揺り起こすも、「雑巾はおやつに入りません」という、よくわからない返答が返ってきた。

 もういい。周助先生とおかみさんはあてにできない。賊退治といったら、武勇伝を持つ若先生に頼るのが一番だ。腹の魔物が再燃したこともあり、慌てて寝室を後にした私は、大急ぎで若先生の私室へと向かった。


「若先生、若先生!」


 若先生の私室に上がるのは久しぶり。昔は暇さえあれば入り浸っていたが、最近では何となく足が遠のいていた。昔と変わらず、小高く積まれた書物の山にほっこりする暇もなく、大の字で寝そべる若先生を揺り起こす。


「んー……? ははは、もう食べられないぞ~……」

「何言ってるんですか! た、大変ですよ! ぞ、ぞ、ぞ……!」

「あー……? 一紗かあ……? ははは、草履ぞうりは食えないぞ~」

「食うかよっ!」


 この親子は私のことを何だと思っているのだろう。そのへんに落ちていれば、雑巾でも草履でも口に入れる小童だと思っているのだろうか。

 莫迦莫迦しい。そんなことをしたら、この繊細な腹は瞬殺だ。むかっ腹を立てたところで、腹の魔物が甲高い悲鳴を上げた。


「ひゃう……っ!」


 もう色々と限界。頼むから厠に行きたい。でも、土間に賊がいることを承知で厠に行く勇気はない。となったら方法は一つしかない。賊を瞬殺して厠へ直行する。つまるところ、腹の魔物に理性を奪われていた私は、正常な判断ができなくなっていた。

 盛大な鼾を掻く若先生の隣には、竹刀が一振り転がっていた。寝る前に素振りでもしていたのだろうか。よく使いこまれた若先生の竹刀を拾うと、一目散に土間へと戻る。筋肉しか詰まっていない脳内には、「厠」の一文字しかなかった。


「頼も――――うッ!!!!」


 騒々しい音を立てて殴りこんできた私に、冷や飯に夢中になっている賊も流石に気づいたらしい。慌ててこちらを振り向いた賊の手には、明らかに有利な獲物が握られていた。

 やっべえ。槍じゃん。槍相手に戦ったことなんてないよ。そもそも、この長さの違い、だいぶ私の方が不利じゃない?

 そう自分につっこんだ時には、竹刀を大きく振りかぶった後で。条件反射で賊も槍を構える。鋭利な切っ先が眼前に迫る。目を瞑ることもできずに固まった刹那、重い炸裂音が響いた。


「莫迦野郎! 何やってんだよ!」


 腹の魔物が呻いたと思った音は、槍の穂先が叩き落された音だったらしい。ぱちくり、と目を向けた先には、実に慌てた様子のソージが竹刀を構えていて。


「……なんでいんの?」

「てめえがいなくなったからだろ! 知らせてくれたお幸に礼を言え! その救いようもない頭を地面にこすりつけてなあ!」


 見れば、戸口には真っ青な顔をしたお幸ちゃんが立っていた。そうか、お幸ちゃんは起きていたのか。それでいつまでも戻らない私を心配して、ソージを起こして探してくれたってわけか。


「お幸ちゃん、ありがとう!」

「あ、この莫迦! 礼は賊を倒してからにしろ! 現状わかってないのか!? その頭は飾りかよ!?」

「がみがみがみがみ、うっせえやつだなあ。こんな賊、てめえがいなくても朝飯前だわ。口煩いババアは隅で震えて見てろ。一紗さまがちゃちゃっと片付けてやらあ」

「そりゃあこっちの台詞だ! 長さが違う獲物相手に、真正面から突っ込んでいく莫迦がいるか! 脳みそ筋肉こそ隅で震えて見てろ!」

「あ~!? こっちは本調子じゃねんだよ! こんな時に限って腹の魔物がなあ……!」

「あのー……お前さんたち、俺のことを忘れてない?」


 賊が控えめに存在を主張したことにより、私たちは本来の敵を思い出した。

 そこからは早かった。ソージの背中を蹴り上げて前に押し出すと、賊の意識がソージに向いた隙に賊との間合いを詰める。この冷や飯泥棒、見た目に反してなかなか条件反射のよいやつで、咄嗟に背後に下がろうとした足に足払いをかけると、体勢を崩した賊の手元に勢いよく竹刀を振り下ろした。


「いっでえ!」

「てめえ、一紗!」

「ふははは、大人しくお縄につくことだな。この、冷や飯泥棒め!」


 槍を持たない賊なんて怖くもなんともない。しかし、念のために賊の脳天にも強烈な一撃をお見舞いすると、腰紐を解いて素早く手首を縛った。ソージからも強制的に奪った腰紐で両足も縛れば、賊は完全に身動きがとれなくなった。


「ねえねえ、ソージ、お幸ちゃん。私の華麗なる剣捌き、ばっちり目に焼きつけてくれた? 私の記念すべき武勇伝一弾、近所に言い触らしてくれてもいいんだぜ? ふははは!」

「あの……かずちゃん」

「え? 握手してくれって? 困るなあ~」

「あ、あのね、そうじゃなくて……」

「伸びてるぞ、そいつ」


 ぶすっとしたソージの言う通り、高笑いする私の足元で賊は完全に伸びきっていた。


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