一紗、狼少女になる(三)



「おや、宗次郎に一紗。おかえりで」


 翌昼。例のごとく、道中賑やかに喧嘩をしながら帰って来た私たちを迎えたのは、試衛館で一番の古株門下生である井上源三郎いのうえげんざぶろうさんだった。


「源さん! ただいま~」

「一紗は相変わらず元気で。彦五郎さんにところに泊まっていたので?」

「うん、そう。たくさんお土産をもらってきたから、源さんも一緒に食べよう」


 丸い顔を綻ばせて笑う源さんを見ると、自然と笑みが零れた。

 源さんの入門は若先生より先だ。だけど、試衛館の跡継ぎに選ばれたのは、機転を利かせて強盗を追い払った武勇伝を持つ若先生。若先生より先に入門して、日々真面目に鍛練を積んでいる源さんは跡取りに選ばれなかった。しかし、源さんはそれを僻むこともせずに、自分に与えられた稽古を黙々とこなすだけ。そこには厭味の欠片もない。源さんがそういう人柄であるからこそ、若先生だって何の気負いもせずに、「源さん、源さん」と親しげなのだ。


「彦五郎さんのところでは、粗相はなかったんで?」


 源さんの人の好さは、この丸い顔と喋り方にも現れている。だからこそ、源さんの純朴な瞳に見つめられると、ついつい心が揺れてしまう。


「粗相というか……この莫迦が――」


 同じく心が揺れたらしい阿呆の足を、思いっきり踏みつける。「ひぎゃっ」とまるで蛙か潰れたような声が上がったが、爽やかに無視した。


「何も。何もなかったよ、源さん」

「うん? 宗次郎は、大丈夫で?」

「大丈夫、大丈夫。こいつ、欲張って食べ過ぎて、腹下しているだけだから。下痢野郎は放っておいて、私らはお土産でも食べに行こう」


 なおも悶えているソージにあっかんべーを投げつけて、試衛館の門をくぐった。

 実のところ、源さんはソージの親戚筋だ。ソージの長姉である美津さんの旦那さんは井上林太郎さんといって、源さんに分家筋にあたる人。美津さんの縁談を取り纏めてくれたのも、源さんの兄で八王子千人同心でもある井上松五郎さん。ソージの口減らし先が試衛館だったのも、一家そろって天然理心流に入門している井上家の口利きだ。


「ほおう。この玉子ふわふわはよおく出汁が利いているんで」

「でしょでしょ。お信さんの料理はいつ食べても美味しいよねえ」

「一紗も見習わないといけないんで」

「あー、無理無理。私とソージの料理は魔物を生み出すって評判だから。味付けはもっぱらお幸ちゃんの役目よ」

「でも、それじゃあ良いお嫁さんにはなれないんで」

「あー、無謀無謀。私を嫁に欲しいなんていう酔狂な男がいるかよ。私はこれ一本で食っていくんだ」


 箸を竹刀に見立てて振り下ろす私を、源さんが苦笑しながら見遣る。


「さようで」

「さよう、さよう」

「この玉子ふわふわ、宗次郎にもとっておいてやるんで」

「下痢野郎にはいらねえよ。それより、若先生にとっておいてあげて。若先生、卵が好物だから」


 若先生のためにせっせと取り分ける私を見ながら、「よく知っているんで」と源さんが笑う。随分と遅れて下痢野郎が戻って来た時には、土産の重箱はすっかり空になっていて。お蔭でさんざん罵られる羽目になったけれど、その夜に起こった事件に比べれば、至極可愛い揉め事だった。


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