一紗、狼少女になる(二)
「俺らがもう少し出稽古に出向ければ、少しは生活の足しになるのになあ」
見慣れた田園を背景に、ぼんやりと呟く幼馴染をちらりと見遣る。今日はトシゾーの義兄であり、日野宿の名主である
「でもさ、私らの出稽古代なんて若先生の半分じゃん。そんなんじゃ腹の足しにもなんねえよ」
「わかってるよ。でも、無理にでも腹の足しにするしかねえだろ? あー……、俺も若先生みたいにもっと剣が上手ければなあ」
私とソージが口減らしにあって六年。六年前、剣術を習い始めた頃も、ソージは家のために強い武士になりたいと願った。六年経った今は、試衛館の懐事情のために剣術が上手くなりたいと思っている。誰かのために強くなりたいと願うソージは、やはり優しい奴だと思う。本人には絶対に言ってやらないけれど。
――――じゃあ、私は?
私は何のために剣術を始めて、強くなりたいと思ったのだろう?
必死に考えようとするけれど、足りない脳みそではさっぱり思いつかない。
「なあ、一紗。あのさ……今日もやるの?」
六年前よりも随分と目線が近くなったソージが、戸惑いがちに覗き込んでくる。年々近づく目線に抗うように、つい胸を反って答えた。
「やるに決まってんだろ。二人で行く出稽古なんて滅多にないんだぜ。この日を逃すわけにはいかねえ」
「けどなあ……いくらなんでも、人を騙すことには気が乗らねえよ」
「別に騙しているつもりはねえよ。だって、腹が減ってんのは事実じゃん」
試衛館の懐事情はかなり切迫している。成長した私たちは、出稽古代とは別の集金方法を編み出していた。
「お疲れさまでした~!」
日野宿本陣に隣接された道場で、私とソージの爽やかな声が響く。この日集まった門下生は八人。幸いなことに、トシゾーの姿はない。その八人は例に漏れなく、道場の床に伸びきっている。意外と優しいソージだが、こいつは剣を持つと人が変わると評判だ。今日も今日とてソージの鬼稽古にしごかれた面々が、床上で虫の息を上げている。
「……お疲れさま、でした……げふっ」
「でした~……げほ~っ」
「……お前、やりすぎじゃね?」
「そういう一紗だって、問答無用で壁に投げつけたじゃんよ」
隣で涼しい顔をする幼馴染を、じとっと睨みつける。甚だ心外だと思う私は、実はソージと同列で鬼稽古と評判の自分のことを知らなかった。
「宗次郎、一紗。遠路はるばる、ご苦労様だったなあ」
縁側で涼んでいた私たちに声をかけたのは、この日野宿の名主で、トシゾーの義兄でもある佐藤彦五郎さん。精悍な顔をにこにこと微笑ませている彦五郎さんの隣には、トシゾーの姉上が湯呑の乗った盆を持っていた。
「いつも歳三が迷惑をかけてごめんなさいね。心ばかりだけど、麦湯と茶菓子を持ってきたから食べてちょうだい」
「わ~、お姉さん、ありがとうございます! あのボンボンにかけられた迷惑には釣り合わないけれど、茶菓子はありがたくいただきますね!」
にっこりと笑った私を、ソージが勢いよく叩く。抗議の意味を込めて振り向こうとした私の頭を、ソージは力づくで下げさせた。
「莫迦が莫迦を言ってすみません」
「おほほほ。二人共相変わらずなのね。子供の横暴は歳三で慣れているから、気にしないでちょうだい」
「そう言ってもらえるとありがたいです」
このやろう。ちょっと私に背が追いついてきたからといって、最近では兄貴分気取りの幼馴染をじとっと睨みつける。隙をついてソージの分の
「てめえ、ふざけんなよ! 今すぐ吐け!」
「えー、そこまで言うなら吐いてやってもいいけど……げろげろげろ」
「うっわあ! 汚ねえ! 本気で吐くとか、お前本当に女かよ!?」
「いちいちいちいち、うるさい奴だな。お前が吐けって言ったじゃんよ。男に二言があるのか?」
「本気で吐くと思わねえだろ、普通!」
「あらあら……一紗ちゃん、そんなにお腹が空いていたの?」
手早く私の汚物を片付ける姉上――――お
「そうなんです! お宅のボンボン、じゃなかったトシゾーさんが周助先生に悪い遊びを教えるせいで、うちの家計は崖っぷちで。日々食うものにも困っている始末なんです」
とどめとばかりに泣き真似もしてみる。視界の端でソージが軽蔑の目で見ているのがわかったが、構っている暇はない。私の演技に、一宿一飯がかかっているのだ。
「まあ……それは申し訳ないことを。歳三には地獄の方がマシだって思うほど焼きを入れておくから、勘弁してちょうだいね」
「頼みます。お信さんと彦五郎さんだけが頼りなんです。ああっ」
ふらり、とよろける真似もしてみる。慌てて抱き起してくれた彦五郎さんに、「今日はこれが初めての食事で」と弱った物言いをすれば、彦五郎さんは「それはいかん!」と膝を打った。
「お信、すぐに膳の用意をしなさい。今朝、振り売りから買った卵があっただろう。それで滋養のつくものを食べさせてやりなさい」
「いえ、いいんです。そんな、悪いし。それに、今から食べていたら日が暮れて帰れなくなります」
「何を言う。愚弟の悪さの責任は私にある。今晩はここに泊まって、ゆっくり休んでいきなさい。試衛館には使いを出しておくから」
男気溢れる彦五郎さんの気遣いに、思わず拳を作って喜ぶ。したり顔の私をソージがじとっと睨んでいたが、当然のことながら無視してやった。
「――――ソージ。あんた、何がそんなに気に入らないのさ」
だが、そんなソージの仏頂面も、寝る前まで続けば流石に見飽きた。我慢の限界がきていらいらと尋ねる私を、ソージは
「人の善意に甘えるやり口が気に入らない。そう毎度言っているだろ?」
「ああ、言ってるね。でも、そのたびに私も言っているはずだぜ。綺麗事だけで試衛館の懐は温かくならないって」
「貧乏を理由に、彦五郎さんやお信さんを騙していいわけ?」
「別に騙しているわけじゃないだろ。現にトシゾーのせいでうちの家計は圧迫されているわけだし。日頃の迷惑を一宿一飯で返してもらっているだけだよ。それのどこが悪いんだ?」
現に、今夜私たちが帰らないとわかって、おかみさんなどは大いに胸を撫で下ろしていることだろう。二人分の食費が浮くのだ。それにお大尽と呼ばれる彦五郎さんのことだから、帰りにはたんまりとお土産を持たせてくれるかもしれない。あわよくば、試衛館への寄付金も増えないかと願うところだが。
「悪い、悪くないの問題じゃない。人としてどうかって言ってるんだよ」
「だから、それが綺麗事だって言ってるんだよ。あのなあ、私らは試衛館の子じゃないんだ。血の繋がりのない私らを食わせてもらっているんだから、私らだって試衛館のためになることをやるべきだろ? 違う?」
「それはお前には帰る家があるから、そう言えるだけだろ」
言ってからしまった、と思ったのだろう。ソージの顔がくしゃりと歪む。
こいつは昔からそうだ。口減らしという引け目がそうさせているのか知らないが、人から嫌われることを無性に嫌がる。嫌われたら居場所がなくなるとでも思っているのだろうか。
「……なんだよ。お前にだって、帰る家くらいあるだろ」
「……ねえよ。俺にはもう、試衛館しかねえんだよ」
俯くソージをいらいらしながら見下ろす。弱音を言えば、同情してくれるとでも思っているのだろうか。私は昔から、こいつの綺麗事だらけで甘ちゃんな一面が気に入らない。
だけど、この時の私は知らなかった。ソージが弱味を見せて甘えられる身近な人間は、もう私だけになってしまったことを。そして、それは私にとっても同様で。子供の自分と同じ目線で喧嘩し合えるのは、この意外に優しい幼馴染だけなのだ。
「くだらない。人間、どこでだって生きていけるんだよ。それにさ、別にいい子ちゃんぶらなくても、周助先生だって若先生だって、お前のことを嫌いになるもんか。いい子ちゃんじゃないと嫌われると思うのは、二人に対しても失礼なことだぜ」
何も気づいていなかったからこそ、何の飾り気もなく返せた言葉。それにソージはぽかんと呆けたような表情で返した。
「……なに?」
「いや……やっぱり、お前生まれる性別間違えたよ。男前すぎ」
「は? 今更褒めても何も出てこないぜ」
照れる私に白けた目を寄越したソージは、そうそうに布団の中へともぐってしまった。喧嘩相手が寝息を立て始めたことで手持無沙汰になった私も、いそいそと布団にもぐる。
――――十五の、夏。
隣に並べた布団で眠れるほどには、まだまだ青く幼い私たちだった。
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