一紗、とりあえず成長する(一)



 私とソージのやっとう問題については、一見一応の落ち着きを見せかのようだった。だが、その実まったく落ち着いちゃいなかった。


「え? かずちゃん、土方さんのことを、盗賊として雇おうと思ったの?」

 

  同じ女中仲間であるおこうちゃんが、大きな目を更にくりくりとさせる。素っ頓狂な声に渋々頷きながら、重い溜息を吐いた。


「そうなんだよ……それが、ばれちゃったみたいでさ」

「おかみさんに?」

「そう。あの腐れ薬売り、酒の席ですっかり事情を喋っちゃったみたいでさあ。面白がった周助先生がみんなに広めちゃったもんだから、自然とおかみさんの耳にも入っちゃって」


 私とソージの悪だくみ(と私は主張するが、ソージはもっぱら私の独断だと押し付ける)を聞いたおかみさんは、こめかみの血管がぶち切れるのではないかと思うほど激怒した。なにせ、庭の桜の木に丸一日食事抜きで逆さ吊りにされたのだ。その怒りといったら、常の比ではなかった。だが、怒りも喉元過ぎればなんとやら。また私に悪さをされるより、いったん条件を飲んで剣術を習わせた方がマシだと思ったらしい。


「まあ、それで好きなことをできるようになったからいいじゃない」


 お幸ちゃんがたれ目を綻ばせておっとりと笑う。お幸ちゃんは近藤家の遠い親戚筋らしい。生まれは大坂の医家だが、花嫁修業という名目で江戸の親戚筋に奉公に出された。

 花嫁修業をするまでもなく、料理に洗濯にお裁縫にと完璧なお幸ちゃんは、おかみさんのお気に入り。おかみさんに疎まれまくっている私とは正反対だが、正反対だからこそ、私たちは意外と馬が合った。


「そうなんだけどね。まあ、理由はそれだけじゃねえと思うけど」

「それだけじゃない?」

「周助先生と若先生が話してたろ。浦和うらわに異国の舟が押し寄せたって」


 私とソージが試衛館道場に預けられて、早一年。この年の六月、日の本を震撼させる一大事件が起きた。


「異国の舟?」

「ええー、お幸ちゃん、知らないの?」

「知らない。おかみさんもそんな話をしてたっけ?」

「いや、おかみさんがわざわざ口にする話題じゃねえと思うけど……でもさ、瓦版かわらばんでもバンバン回ってたじゃん」

「そうだっけ?」


 のんびりと首を傾げるお幸ちゃんに、小さな苦笑が漏れる。このおっとりした性格が、おかみさんに気に入られる一因であり、愛すべき一面なのだろう。


「江戸湾の浦和ってとこにさ、異国のでっけえ舟が何隻も押し寄せたんだって。若先生とトシゾーは実際に見に行ったらしいけれど、見上げる首が痛くなるほどでっけえ鉄の舟だったらしい」

「へえー? 鉄の舟がどうやって海に浮かぶのかしら?」

「それは……なんでだろうな?」


 二人揃って首を傾げたところで、夕暮れ時の空にひぐらしがカナカナカナ――……と鳴いた。散らばる着物をかき集めた私たちは、大急ぎで繕いものを再開させる。


「で、鉄の舟とかずちゃんの剣術がどう関係してるの?」

「えーと、んーと……いてっ。あー、私も詳しくは知らねえけど、異国の舟はご公儀こうぎに貿易を要求したらしくてさ。ほら、ご公儀は限られた異国以外貿易は許してねえじゃん? だからさ、当然貿易を許すはずもなかったんだけど、鉄の舟が海に浮かぶっていう力の差を見せつけられたら断れず、泣く泣く条件を受け入れたって話。だからさ、今江戸の町では理不尽な手段で幕府に要求を飲ませた異国を追い払おうと、ジエイ? の意識が高まっているそうだぜ」

「へえー。かずちゃん、物知りなのねえ」

「まあな。まあ、全部若先生の受け売りだけど」


 ない胸を張る私だったが、事態は私や若先生が思うほど深刻だった。アメリカ艦隊の来航で、幕府の上層部は連日てんやわんやの大騒ぎを続け、やがてそれは国をいくつにもわけて動乱の渦に巻き込むことになるのだが――……江戸の片田舎で暮らす私たちには、まったく預かり知らぬ話だった。


「さすが、若先生はなんでも知っているのねえ」

「ふははは、さすが私の見込んだ男……いてっ。ま、世間さまがそんなかんじだから、近頃は剣術道場が流行ってきているらしくてさ。お玉が池の道場でもめっぽう剣術の強い女剣士がいるってもんで、私が剣術をすることについて、周助先生も若先生も賛同してくれるってわけ」

「ふうん。じゃあ、今のところかずちゃんの敵は、おかみさんだけなのね」


 のほほんと微笑むお幸ちゃんの横で動揺しまくった私は、本日何度目かわからない痛みを指先に受けた。ぷっくり、と赤いしみを作る指先を、顔を顰めながら咥える。

 そう、私には最強にして最大の敵が残っている。私が危険な橋を渡りまくったせいで、苦虫を噛み潰しながらも渋々認めてくれたおかみさんだからこそ、いつその逆襲を受けるのかわかったものではない。この一年、念願の剣術を習う一方で、おかみさんの威圧を意識しない日はなかった。


「いや、最早この裁縫こそが逆襲なのかな」

「え?」

「だってさ、私がやっとうを習うようになってから、針仕事とか水仕事が余計に増えた気がするじゃん? ソージはそれまでと変わらないのに、私だけ。それってさ、おかみさんはソージよりも私を敵視してるってことだろ?」

「まあ」


 寒い冬に間にこしらえたあかぎれがすっかり治り、元のふっくりとした白い手に戻ったものを、お幸ちゃんがぷっくりと艶やかな紅唇こうしんに当てる。そうして、たれ目の双眸をおっとりと和ませた。


「敵視だなんて、かずちゃんは面白いことを言うのね」

「だって、そうとしか思えねえじゃん。だってさ、おかみさんは私にだけ条件を出したんだぜ。私が剣術を習うのは、お嫁に行くまでの間だけだって。別にお嫁に行く気なんてないし、私を嫁に欲しいと望む男がいるなんて思ってもねえから、あっさりと頷いてやったけどさ。ソージばっかり贔屓してずるくないか?」

「そうかしら? かずちゃんは女で、宗次郎さんは男だもの。当然の条件だと思うけれど」


 この時の私は、お幸ちゃんの言っていることがさっぱり理解できなかった。これからの人生で最も私を悩ませることになる、私とソージの差。男と女の差。それを無意識にも薄々味わっていた私は、この理不尽な仕打ちにひたすら腹を立てていた。


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