宗次郎、薬売りに出逢う(三)



 結果として状況は最悪になった。


 俺と一紗の首を順番に締め上げて、すっかり事情を聴き出してしまった薬売りは、なんと自分が賊の役をすると買って出たのだ。暴力的で何か裏のありそうな薬売りだが、若先生と同じ年頃の若者だ。一紗のぶっ飛んだ計画に呆れ、あわよくば嗜めてくれると期待したが、結果はまさかの展開。子供の思いつきに、悪ノリしているのだろうか。役者のような色男のにやにや顔を思い出しながら、小さく唇を噛み締めた。


「どうした? 怖気づいたのか?」


 暗闇の中。小さな手燭てしょくを持った一紗が、にやりと笑いながら俺を覗き込む。飴色に照らされた顔を睨みつけながら、小さな溜息を落とした。


「怖気づいてねえよ。莫迦らしくなっただけ」

「なんだとう。一紗さまの素晴らしい計画にケチをつける気か」

「素晴らしい計画ねえ……」

「それにしても、人の好い薬売りで良かったな。賊に扮したやつを追っ払ってしまえば、私たちも晴れて認めてもらえるぞ」


 人の好い薬売りが、子供の思いつきに悪ノリで協力するものか。そう思うが、上機嫌の一紗にそれを言えば拳が飛んでくること間違いなしなので、苦い顔で押し黙るだけにした。


「ちゃんと来てくれるのかな……あの薬売り」


 都合の良い賊役を調達した一紗は、計画をさっそく実行することにした。決行は今夜。闇に紛れるには好都合の、新月の夜。すっかり寝静まった母屋おもやで、俺たちは賊に扮した薬売りを待ち構えている。


「……俺たちをからかっただけじゃねえの。来ないだろ、普通は」

「いや、来る。だってあいつ、試衛館の名を出したら驚いてたもん。もしかしたら、ここと縁のあるやつかもしれねえ」


 だったら余計来ないと思うのだが、今は何を言っても一紗のわくわくに水を差すだけだ。初夏が近づいているとはいえ、夜はまだ冷える。上がりがまちの片隅で震える俺を、一紗が眉を顰めて覗き込む。


「大丈夫か? ほら、もっと手燭に近寄れよ」

「おい、やめろ。それ以上近づけると燃えるだろ、俺が」

「あ? 何だよ、燃えてきたのかよ。やっぱりお前も男だな」

「その腐った耳をどうにかしてくれ……」


 さらに小さくなる俺を、一紗が鼻で笑い飛ばす。げんなりとする俺に身を寄せながら、どこか楽しげに囁いた。


「これでようやく、お前にやっとうをさせてやれる」


 空耳かと思った。訊き返そうとしたが、その前に宵闇の中にぼうっと明かりが灯った。


「あいつだ!」


 一紗の嬉しげな声が弾ける。闇夜に灯った明かりが、緩々と輪郭を結んでいく。昼間、市中で出逢ったあの薬売りだ。だが、昼間出逢った時のような振り売りの恰好ではない。黒の着流し姿はどう考えても賊のそれには見えないし、鼻の下で結んだ手拭いに至ってはただの悪ふざけとしか思えない。


「どうだ? 賊っぽいか?」


 そう胸を張って俺たちに尋ねるところ、薬売りは悪ふざけのつもりはないらしい。となれば、ただの莫迦だ。どこか一紗と同じ匂いのする薬売りに、重い溜息を落とす。そんな俺に気づくことなく、一紗は大はしゃぎだ。


「ぽいぽい! 似合うぜ! 恰好いい!」

「そうか? ふははは、自分で言うのもナンだが、自信はある」

「かっちょいー! 期待してるぜ、賊!」

「任せろ。で、俺はどうすればいいんだ?」


 その言葉に、一紗がぴしりと固まった。若先生の武勇伝の真似事をして賊を追い払い、おかみさんに認めてもらうという大雑把な計画を立てていたらしいが、詳細までは考えが及ばなかったらしい。一紗らしくて最早溜息も出ない。


「お前ら、本当に莫迦で阿呆なクソガキなんだな。どれ、とりあえず道場に行くぞ」


 流石に呆れた様子の薬売りが、ずんずんと先に進む。こんな真夜中に部外者を入れたというだけでも冷や汗ものなのに、侵入者に勝手に動き回られるとは堪ったものではない。慌てて追い駆ける俺たちを一瞥いちべつした薬売りは、足早に道場を目指す。その足取りには、迷いがない。一紗の言っていた通り、この薬売りは試衛館に縁のある者かもしれない。


「おい、お前。試衛館に来たことがあるのか?」


 慌てて尋ねる俺に、薬売りは容赦のない拳骨をお見舞いした。どうやら、お前呼ばわりをしたことが気に食わなかったらしい。


「俺のことはどうでもいいじゃねえか」

「よくねえよっ!」

「うるせえクソガキだな。ほれ、とりあえず竹刀を振ってみろ。見てやる」


 しん、と静まり返った道場に、三つの影が伸びる。壁に立て掛けてある竹刀からおもむろに一本を掴み取った薬売りは、それをぽんと一紗に投げた。


「あ? なんだよ。これを振ればいいのか?」

「そうだ。おめえさんらの腕前次第で、協力するかどうか決めてやる」


 思わずほっと息を吐く自分がいた。

 良かった。この男が、ただの悪ふざけ野郎ではなくて。少なくとも、無条件で悪さに加担するつもりはないらしい。そしてその条件というのがなぜか俺たちのやっとうの腕前らしいが、これについてはなんの心配もない。なぜなら、俺たちはやっとうを習ったこともなければ、真面に竹刀を握ったこともないのだ。だからこそ、なにも心配する必要はないというのに。


「よっしゃ! これを振ればいいんだな? 楽勝だぜ!」


 なぜか一紗はやる気満々だった。かくいう俺も、一紗がぎゅっと竹刀を握り締めた瞬間、言い様もない高揚感に襲われていた。

 いや、これは高揚感なんていう、生易しい代物ではない。月明かり一つない、しん、と静まり返った道場で、一紗が竹刀を構える。一紗の両目がひたと前を見据えた瞬間、時が止まった。

 どくり、と静かに暴れる心の臓を鎮めるように、胸元をぎゅっと押さえる。俺は、そう――――この化け物みたいな女に、恐怖を覚えているのだ。


「エイッ!」


 夜のしじまに包まれた道場に、一紗の澄んだ声が伸びる。大きく振り上げられた竹刀が、まっすぐに振り下ろされてぴたりと止まった。たったそれだけの行為で、昼間疾走した時以上の疲労感に襲われた。


「――――ふうん。じゃあ、次はお前」


 薬売りの声に、はっと我に返る。ぶっきらぼうに投げられた竹刀を、慌てて受け取った。


「俺?」

「そう。お前」


 薬売りに促されながら、ぎゅっと竹刀を握り締める。初めての竹刀。初めての、素振り。脳内では先程の一紗の姿が鮮明に思い出されていた。

 静謐せいひつな道場に伸びる、澄んだ声音。竹刀が空を切る風音。くっきりと鮮やかな弧を描いた放物線。

 どういうわけか、負けたくない、という感情が、俺の弱気な心を奮い立たせた。


「エイッ!」


 実際に竹刀を持ったのはこれが初めて。でも、門下生の稽古やそれを教える若先生の剣筋は、おかみさんに隠れて腐るほど見てきた。

 それは一紗も同じで。だからこそ、それなりに型にはまった素振りができたのだろう。だったら、俺も同じだ。一紗と同じことをして、俺だけができないなんてことがありえるはずがない。

 そんな俺の自信は、それなりに満足な結果を生んだ。空に向かってまっすぐに伸びた剣先が、へその位置でぴたりと止まる。全てが終わったその瞬間、まるで息の仕方を忘れたかのような溜息が、喉の奥から溢れ出た。


「おっまえ! やるじゃん! 良かったな、人間いっこくらい取り柄があって!」


 神聖な何かを打ち破るような無遠慮さで、一紗が背中をバシバシと叩く。

 ……言えるわけねえじゃん。お前に負けたくなくて、つい夢中になっていただなんて。

 照れ隠しの代わりに一紗に手を鬱陶しげに払えば、目の前の薬売りが唐突に一つ柏手かしわでを打った。


「おめえら、やっぱりおもしれえな。こりゃあいい暇潰しができたってもんだ」


 にやり、と楽しげに笑った薬売りは、次の瞬間にはくるりと踵を返していた。

 まずい。招き入れた賊(仮)に、勝手に屋敷を動き回られるのは。竹刀を握り締めたまま、慌てて薬売りの後を追う。だが、どんなに急いで追いかけても、子供の俺たちと大人の薬売りの足の長さには、抗えない大きな差があった。


「よう。こんな時間に悪いな」


 薬売りの向かった先は、道場に面して建つ母屋。それも、よりにもよって周助先生とおかみさんのねや。おっかなびっくり見つめる先には、寝ぼけ眼を擦る二人の姿があった。


「あんた――」

「おい。一体なんの騒ぎだ?」


 騒ぎに駆けつけたらしい若先生の姿が、薬売りの肩越しに見えた。鼻の下で手拭いを結ぶ間抜けな薬売りと、その後ろで息を弾ませる俺たちを見つけた若先生は、不思議そうに首を傾げる。


「こりゃあ、一体全体どういうことだい?」

「どうもこうも、隅に置けねえぜ、かっちゃん。こんなに面白いモンを、俺に隠しているなんて」


 かっちゃん――――それは、嶋崎勝太先生のあだ名だろうか。もしそうだとしたら、この薬売りは若先生の友達?

 首を傾げる俺たちを見下ろした薬売りは、ようやく頭がはっきりしてきたらしい二方を見据えると、白い歯を覗かせて気持ち良さそうに笑った。


「周助先生。こいつらにやっとうをやらせてくれよ。きっと、いい暇潰しになると思うぜ」


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