宗次郎、薬売りに出逢う(一)
試衛館道場に内弟子という名目で入門して、早みつき。内弟子とは名ばかりで、任せられるのは掃除や洗濯、賄いの手伝いや使い走りといった女中のような仕事ばかり。竹箒を握って庭を掃く姿も、流石に見慣れた光景になった。
そして、女の常軌を逸したこの幼馴染が、庭の桜の木に吊るされている姿ももう見飽きた。
「今度は何をやらかしたんだよ」
できることならこのまま無視して素通りしたい。だが、逆さ吊りにされている張本人から呼び止められてしまえば、無視するわけにもいかない。重い溜息と共に足を止めた俺を、一紗は上目遣いに見上げ……いや、見下ろした。
「あんたに頼みたいことがある」
「やなこった」
「ちょ、待てよ! ちくしょう、お母さんはそんな薄情な子に育てた覚えはありませんからね!?」
「誰がお母さんだ」
足を止めて振り返った俺に、一紗がしたり顔で笑む。
再度重い溜息を投下する。これ以上騒がれないようにするためには、とりあえずこいつの要求を聞くしかないらしい。他の門下生の目もあるし。もっとも、この光景に始めは腰を抜かして驚いていた門下生も、みつきもすれば流石に慣れたらしい。今となっては腰を抜かすことにも疲れ、ただ乾いた笑いを残して去って行くのみだ。
どうせ、縄を解くことを要求されるのだと思ったが、一紗の要求は「腹減った。握り飯を持ってこい」というものだった。
「腹減ったって……いつから食ってねえの。というより、いつからこうなってるの」
土間からこっそりくすねてきた握り飯にかぶりつきながら、一紗がもごもごと喋る。当然手足は縄に縛られたままだから、俺が手を差し出すままに握り飯を頬張るしかない。しかも、逆さのままで。
「んー……へひゃがたはやくにほっふかはったから、かれほれひちひちはにもふってねえな」
「頼むから、飲み込んでから喋ってくれ」
「んんっ! 今朝方早くにとっ捕まったから、かれこれ一日何も食ってねえな」
ない胸を張って答える一紗に、自然と溜息が零れる。初夏の太陽は既に中点を越えている。丸半日を逆さまで過ごしているこいつは、最早化け物の類にしか見えない。
「今度は何をやらかしたんだ?」
「別に何もー。朝早くならばれねえと思って、道場に忍び込んで、ちょっと竹刀を振ってただけだよ。……まあ、うっかり竹刀を三本折っちまったけど」
一紗は筋金入りの莫迦力だ。正月の特大鏡餅を素手で割ったという伝説を持つほど、こいつの怪力には加減がない。ちょっと振っただけ、なんて言うけれど、真実は強く振り過ぎたせいで壁にでもぶち当てて、大破させてしまったのだろう。
「そりゃお前が悪い。さっさと謝って来い」
「竹刀を折ったことは悪いと思ってるけどさ、あのババアがやっとう禁止令なんてふざけたこと言い出さなければ、私だって朝に忍んで素振りすることはなかったんだ! ババアにも責任はある!」
「責任転嫁はやめろ」
「なにさ! 一人だけ涼しい顔して! あんただって、本当はババアのことを快く思ってねえんだろ? 内弟子なんて名ばかりで、まだ一度も竹刀を握らせてもらったことないじゃん!」
確実に痛いところを突いてくる脳みそ筋肉の顔面に、残りの握り飯を勢いよくぶつける。顔面を米粒だらけにした一紗が、盛大なくしゃみをしながら叫んだ。
「何すんだよ! 鼻で握り飯食っちまったじゃねえか! もったいない!」
「お前がつまらんことをぎゃーぎゃーぴーぴー騒ぐのが悪い」
「はあ? だったらあんたは、こんな芋道場で一生掃除をして過ごすのかよ。ソージだけに掃除ってか! 面白くないわ!」
「俺だって面白くねえわ! だけどな、あのクソババアに何を言ったところで変わらねえだろ! 口ごたえしてここを追い出されたら、俺には帰る場所がねえんだよ!」
「だから一生をあのクソババアにこき使われて、気がついたらクソジジイになってるってか? は! 弱虫のお前にはぴったりの末期だな! 言っておくけど、私はてめえの下の世話はしねえからな!」
「頼んでねえわ! お前だってクソババアにこき使われて、将来はあんな般若の顔したクソババアになるんだ!」
「なるわけねえだろ! 私は間違ってもあんな皺の目立つババアにはならねえよ! ぴちぴちつるもち肌のババアを目指してやるわ!」
「――――誰がしわしわのクソババアだって?」
地の底から轟くようなおどろおどろしい声に、背筋がぞっと粟立つ。
おそるおそる振り向いた先には、縄を握り締めたおかみさんが般若の形相で立っていた。
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