一紗、男になる(二)



 江戸には三大道場というものがある。位は桃井、技は千葉、力は斎藤と異名を持つ、鏡心明智流きょうしんめいちりゅう士学館しがくかん北辰一刀流ほくしんいっとうりゅう玄武館げんぶかん神道無念流しんとうむねんりゅう練兵館れんぺいかん。それに比べ、道場は江戸にありながら、門弟のほとんどが多摩地方の者だという試衛館道場なんて、今まで小耳に挟んだこともなかった。

 名もない三流道場に期待はしていなかったが、思いの他掃除の行き届いた小奇麗な道場に、ほっと安堵の息を吐く。狭い屋敷には変わりないが、道場には埃一つ落ちていない。床はぴかぴかに磨きこまれている。門前に控えめに咲く、小ぶりの桜の木は特に気に入った。門をくぐることも忘れて、桜を見上げて悦に入る私に、野太い声がかけられたのはその時だ。


「もしかして、お前が美津みつさんところの坊主か?」


 美津さん、というのはソージの一番上の姉だ。ぐるり、と振り返った私たちの背後には、厳めしい顔をぐっと顰める、強面の男が一人立っていた。


「ひ……っ!」


 四角い顔。大きな口。筋骨隆々とした身体つき。これほどがたいの良くて強面の男は初めて見る。貧乏所帯ばかりの集落では、決してお目にかかれないような男だ。

 もしかしなくても、この男も試衛館の門弟なのだろうか。まるで鬼瓦のように厳つい顔を、半場呆然と見上げる。たじろいているのはソージも同じようだ。

 そんな私たちを順繰りに見下ろして、大きな口をにっと歪めた鬼瓦は、私たちの頭を大きな手で撫で回した。


「よく来たなあ~! こんなにちっこい時分から親元を離れるなんざ、さぞ心細かっただろう。弱音を吐かないなんて、偉いぞお前たち~!」


 弓型に笑んだ細目から、透明な雫がぽろりと落ちる。ぎょっと後退る前に、それは本降りとなった。


「やや。ごめんなあ。お前たちの心境を考えると、どうも目頭が熱くなって仕方ねえや」


 なんてこったい。この鬼瓦、厳つい見た目に反して、随分な泣き上戸らしい。

 こんな図体のでかい男が先輩だなんて少したじろんでしまったけれど、この調子なら楽勝で勝てそうだぞ。


「おい、おっさん。泣くなよ。武士が泣いてちゃ笑いモンだぜ」


 ふ、と不敵な笑みで言った私の隣で、ソージが仰天したように目を剥く。ぐいぐい、と小袖を引っ張られたが、呆然と目を見開く鬼瓦から視線を外さなかった。


「ほらよ、鼻紙。これでその汚ねえ涙を拭きな」

「……こりゃあ、随分と勇ましい坊主が来たもんだ。お前が美津さんのところの宗次郎か?」

「おうよ」


 そう返事をした途端、勢いよく袖を引かれたが、ダンッ、と足を踏むことで強制的にソージを黙らせた。


「そうか。よく来たな。俺は嶋崎勝太しまざきかつたという。ここの道場主である周助先生の養子だ。だからといって遠慮はいらねえよ。俺のことは実の兄のように頼ってくれて構わねえから。それと俺、これでも十八歳だからまだおっさんとは呼んで欲しくねえなあ……」


 どこか悲しそうに話す鬼瓦に「わかった」と頷く。そうか、この鬼瓦は試衛館の跡取り息子なのか。思わず、跡取りになれなかった小童を横目で見たら、思考を読まれたように鋭い視線が返ってきた。


「なんだよ」

「い、いや? なんでもねえよ」

「で、隣のかわいこちゃんが富一とみいちさんのところの一紗ちゃんか?」


 富一というのはうちの長兄である。咄嗟に首を横に振ろうとしたソージの足を、渾身の力で踏みつけた。


「いっ……でえっ! 何すんだよ!」

「何すんだ、じゃねえよ。お前は一紗だろ。気張って一紗のフリでもしろや」

「ふざけんなよ! どうしてお前と俺が入れ替わらなきゃいけねえんだ! そもそもお前のフリなんてどうすりゃいいんだよ!? 猿か? 猿真似でもしときゃいいのか!?」

「ほーう。言うじゃねえか」


 互いに着ているのは当て布だらけの粗末な小袖。髪型だって同じように一つに括っているだけだから、わざわざ衣装を変えて髪型を変えるまでもなく、私たちはぱっと見すごく似ている。違うところといったら、私の方が少し背が高いこと。それから髪色が私の方が茶色に近くて、ソージは夜の闇のように深い射干玉色であること。それと、私がつり目でソージがタレ目であること。それから、肌の色。それ以外は本当にそっくりな見てくれだから、後姿だけだと肉親にも間違われることがしばしばあった。

 だからこそ、入れ替わっても絶対にばれない自信があるのに、ソージは尚も渋り続ける。小声で言い争う私たちを、鬼瓦が不思議そうに見回した。


「どうした、どうした。道中、喧嘩でもしたのか?」

「いや、あの――」

「おおい。勝太!」


 突然上がった伸びのある声に振り返れば、髪に白いものが混じり始めた初老の男と、これまた同じく灰色の頭をした、目つきのきつい女が連れ立って門前に向かっていた。さしずめ、試衛館の道場主と奥方だろうか。そんな私の予感は見事的中した。


「おう。お前たちが宗次郎に一紗か。俺は試衛館の三代目道場主、近藤周助こんどうしゅうすけだ。ま、堅苦しいことはなしだ。我が家のように寛いでくれて構わねえ」


 血は繋がっていないはずなのに、周助先生は笑うととてもよく鬼瓦に似ていた。人好きのする笑みに、ほっと息を吐く。剣術道場というから堅苦しいところを想像していたけれど、この二人の元ならば何の心配もなさそうだ。

 そんな心の平安を見事ぶち壊してくれたのは、目つきのきつい女の厳しい一言。


「お前さん、何甘いことを言ってんだい。この子たちは遊びに来た近所のガキとは違うんだよ。内弟子に見習奉公なんて体の良い言葉で誤魔化しているけど、この子たちは口減らしにあったんだよ、口減らしに。うちだって口減らしにあった子を無償で置いてやるほど裕福じゃないんだから、きちっとケジメをつけて働いてもらわないと困ります」


 口減らし、と何度も強調する奥方に、むらむらと怒りが競り上がる。

 私は良い。どうせ、ソージのおまけで奉公に出された口だから。でも、幼いなりに苦渋の選択をしたソージの前で、何度も口減らしなんて言葉を使わなくていいじゃないか。


「何度も同じことを言ってんじゃねえよ、オバサン」

「お、オバサン?」

「こら、宗次郎!」

「鬼瓦は黙ってろ。あのなあ、口減らしにあったことなんて、こちとら百も承知なんだよ! だけどなあ、口減らしには口減らしなりの誇りがあるんだ。掃除でも洗濯でも賄いでも何でもやってやるけどな、オバサンに誇りを踏みにじられる資格はねえ!」


 一息に怒鳴った私を、奥方が呆気にとられたように見下ろす。だが、それも長くは続かない。皺だらけの顔が般若と化す瞬間、ふいにがしりと頭を掴まれた。


「すみませんでした! こいつ、何にも世間を知らないただの莫迦なんです! 莫迦で莫迦でどうしようもないんです! 莫迦に腹を立てるだけ無駄ですから、どうか勘弁してやってください……!」


 私の頭を掴んだまま下げさせたのは見るまでもない。ソージだ。

 何しやがんだ、という意味を込めて足を踏もうとしたが、あっさりと躱されてしまった。


「すみません、すみませんっ! 莫迦につける薬はないので勘弁してください!」

「……てめえ。何度莫迦呼ばわりすれば気が済むんだ」


 ふいに、気づく。ソージの手が震えている。そうして、ようやっと気づいた。

 私と違って本気の口減らしにあったソージは、もうここ以外帰る場所がないのだ。私が下手に喧嘩を売ったせいで顰蹙ひんしゅくを買い、追い出されてしまったら、ソージは路頭に迷うしかない。


(……口さがない言葉からソージを守りたかっただけなのに、逆に私がソージを追い詰めていたんだな)


 悟ったら、申し訳なささがぬるりと顔を出す。仕方がない。この意地悪な奥方に頭を下げる気は更々ないが、ソージのためにここは大人になろう。


「ごめんなさ――……っ!?」


 そう覚悟を決めて自分の意思で下げた頭を、今度は別の手に掴まれた。


「あっはっはっ! うちのカカアを言い負かすとは、こりゃあ、たいそう威勢の良い門弟が来たもんだなあ! 宗次郎、お前はでっけえ武士になるぞ!」

「お前さん……」

「一紗、おめえも気立ての良い女子になること請負だ。友達とカカアの間に割って入るなんざ、よほどの勇気と優しさがねえとできねえことだ。お前は立派な嫁さんになるぞ~。なんなら俺んとこにくるか?」

「ちょっと、お前さんってば!」


 私とソージの頭を順繰りに撫でていた周助先生の手が止まる。正確に言うなら、奥方に叩き落とされた。


「いってえなあ。なに、冗談だろ。妬くことねえじゃねえか」

「このウスラトンカチバカ! 何暢気なことを言ってんだい! 勝太もだよ! 何を勘違いしてんのか知らないけど、こっちの茶色いアホ毛が一紗で、こっちの色白の黒髪が宗次郎だろ? ったく、悪所通いして女漁る暇があったら、その腐った目でも磨いてきたらどうだい」


 ふん、と鼻息荒く言い捨てる奥方の横で、周助先生と鬼瓦があんぐりと口を開く。それはもう、顎が外れそうなほど。

 ひと目で見破られた奥方には、もはや脅威しか感じない。だからといって暴かれてしまった嘘のうまい言い訳も思いつかない私たちは、ただ「てへへ」とぎこちない笑みを浮かべることしかできなかった。


「はああああ――――っ!?」


 アホウ。

 烏が鳴く長閑な田園に、二人の男の切実な悲鳴が上がった。


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