第一幕 試衛館の内弟子たち

一紗、男になる(一)



 近所の鼻たれ小僧の中で、私に喧嘩で敵う奴なんていなかった。


 いや、一人だけいた。畦道を挟んだ向かいの屋敷に住む、チビのひょろガキ。まるで女子のような華奢な身体つくりに、白磁の肌、熟れた果実のように真っ赤な唇を持つひょろガキは、大女と陰口を叩かれる私より背が低い。当然、腕っぷしでは私に敵うはずもないのだが、どういうわけが棒切れを持つと見違えるように生き生きとする。やっとうなど習ったことがないと言うくせに、私が舌を巻くほどの棒切れ捌きを見せるようになったとんだ伏兵に、日々焦りは募る一方だった。


 まずい、と思う。苦労して積み上げてきたガキ大将人生、初の危機だ。

 幸い、ひょろガキは自分から喧嘩を売るということをしなかった。近隣の童のように、私のことを「大女」や「山猿」、「脳みそ筋肉」と莫迦にするようなこともしなかった。それどころか、私はひょろガキにとっても自分に対抗しうる唯一の存在と認定されたようで、一種の仲間意識というか、友情というか……まあ、そのようなものが私たちの間に芽生えていた。


 つまり、意外と仲が良かったのだ。


「あ~もうっ! 疲れた喉乾いた腹減った~っ! 全てお前のせいでなあ!」


 ちなみに、件のひょろガキの名を沖田宗次郎おきたそうじろうという。喧嘩友達でもあるソージに、なにゆえ歯に衣着せぬ悪態をつきまくっているのかというと、それはこいつの家庭の事情に由来する。


「……だったら帰ればいいじゃん。別について来て欲しいなんて言ってねえし」


 我慢の尾が切れそうなほど可愛げのない台詞を吐くソージは、五歩先を黙々と歩いている。決してこちらを振り向かないやせっぽっちの背中に、飛び蹴りでも喰らわせたい気分だ。


「帰りたいのはやまやまだが帰れねえんだよ! お前のせいでなあ!」

「俺のせいじゃねえし。お前が勝手について来てるだけだし」

「誰が好き好んでてめえの貧相な背中追うかってんだ! 働き蟻の背中でも追った方が何倍もマシだぜ!」

「だったらさっさと働き蟻の背中追ったらいいだろ!? そんでもっておむすびころりん穴に落ちろ!」


 どこかで聞いた絵草子の内容を思い出すより、ぶちんと堪忍袋の尾が切れる方が早かった。


「てめえと一緒に口減らしの憂き目に合うくらいだったら、おむすびころりん竜宮城に行った方がマシだぜ! だいたい、私がこんな目に合うのもてめえのせいなんだからな!」

「頼んだ覚えはねえ! てめえなんか、さっさと家に帰っちまえ!」


 言い過ぎた、と気づいたのは、ソージが唇を噛み締めて立ち止まったのに気づいたからだ。

 ひょろっこい見た目に反して、ソージは人前で決して泣かない。弱みを見せない。見た目が女子のようだと莫迦にされ続けた結果、中身は誰よりも男らしくと気を張っていることを、私は知っている。

 そんな喧嘩友達を、心ない一言で傷つけた。

 あーあ。天を仰いだ手を、痩せ細った肩に乗せた。


「……悪かった。泣くなよ、ソージ」

「はあ!? 泣いてねえし! それに俺の名はソージじゃねえ! 宗次郎だ!」

「細かいこと言ってんじゃねえよ。だったらなんで鼻声なんだ」

「これは……お染風でいっ! うつるから、二尺以内に入ってくんなよ!」


 延々と続くような薄茶の畦道に、ひらりと薄紅の花弁が舞う。

 季節はうららかな小春日和。とりあえず、「随分と流行りに乗り遅れたお染風だな」と言っておいた。


「わかった、わかった。近寄らねえから、遅れるんじゃねえぞ」

「おい、待てって! お前は行く必要ねえだろ?」

「それがあるんだな。残念ながら」


 ソージの実家は貧乏の極みだ。父親は元々白河藩の足軽古頭という、超絶貧乏だが仮にも武士だったらしいが、背に腹は代えられない。武士は食わねど高楊枝というが、妻子の命が関わってくるとなると話が別だ。明日食うものにも困窮した沖田家は、裕福な農民に武士の身分を売った。もちろん、大っぴらに売るのは御公儀の定めた決まり事に触れるから、表向きはソージのお姉さんが嫁入りというかたちで、日野の八王子千人同心・井上松五郎の分家の筋にあたる井上林太郎という農民に身分を売ったのだ。

 そのため、沖田家の当主は長子のソージではない。貧乏御家人株を買った井上林太郎さんだ。


(明日食うものにも困っていたから仕方がない、と言っても、こいつは気に病むんだろうなあ)


 沖田家直系の者が武士身分を守れなかったのは、決してソージのせいではない。貧乏なのがいけなかったのだ。だけど、ソージは気に病むことだろう。もし、自分がもう少し早く生まれていたら。齢九つのガキじゃなかったら。己の手で、母と二人の姉を守れたかもしれないのに、と。

 自分のせいで、と責める莫迦な幼馴染に、私は「お前のせいで」などと心ない一言を浴びせてしまった。例え意味は違っていたとしても、今は決して言ってはいけない言葉だったのだ。


(でもなあ……たとえ、私たちがあと十年早く生まれたとして、沖田家を貧乏から救えたとは限らねえんだ。だから気に病むなと言ったところで……)


 この頑固頭は納得しないだろうな。絶対に。

 はあ、と溜息を吐く。ぶらぶらとやる気なく歩く私の隣で、ソージが眉を顰めた。


「で? お前まで口減らしに合った理由ってなんなの?」


 あ。そういえばそんな話をしていたっけ。


「ただのとばっちりだよ」

「とばっちり?」

「うちの母親がお前のことを気に入ってんのは知ってるだろ?」

「まあ……」

「で、私のこの女らしからぬ性格に目くじらを立ててるのも知ってるだろ?」

「そりゃもちろん」

「だから、この際アンタと一緒に口減らしに出すことにしたんだってさ。アンタが一人で寂しいだろうから、私も一緒に行ってやれって。そんで、ついでに女らしさも磨いて帰って来いとさ」

「は? ……嘘だろ?」

「嘘だと思いたいけどほんと。縁談の一つや三つもぎ取って来ねえと、家の敷居は跨がせねえってさ」


 はあ、と二度目の溜息を吐く。気が重すぎて地面にめり込みそうだ。

 武家身分を売ったところで多少暮らし向きがマシになったに過ぎない沖田家は、相も変わらず貧乏で。そんな貧乏所帯で病気の母と、二人の姉と、跡取りにもなれない小童を養うことは難しい。おまけに姉夫婦の間に男児まで生まれたら、ソージの居場所はとうとうなくなった。入り婿である林太郎さんの後を継ぐのは、新たに生まれた男児だ。ソージはどう逆立ちしても跡取りにはなれない。

 跡取りにもなれない。さりとて幼さから満足にも働けない小童は、小さい脳みそなりに精いっぱい考えた。考えた結果、穀潰しにしかならない身は他所に行ってもらおうと、そういうことになったらしい。


「ざっけんじゃねーぞ。同じ口減らしでも、どうしてお前は剣術道場の内弟子で、私は女磨きの縁談探しなんだ。普通逆だろ、逆」


 今私たちが向かっているのは、牛込甲良屋敷にある試衛館しえいかんという剣術道場。御家人株を売る前、超貧乏時代にあった沖田家が世話になったことのある剣術道場らしい。口減らし先に己の好きな剣術道場と選ぶというところも、ただでは転ばないソージらしい。それは大変結構なことなのだが。


「どーして私が女磨きに行かなきゃいかねえんだよっ! せめて男磨きてえよっ!」

「いや、無理だろそれ。せめての意味がわかんねえよ」

「無理じゃねえ。あんたの方が見てくれは女みたいなんだからさ、あんたが女磨けばいいじゃん。そんで、侍の嫁さんにでもなって、武士身分に返り咲けばいいじゃん。うんうん。で、代わりに私が内弟子になって男を磨くからさ」

「莫迦か。無理に決まってんだろ」


 ソージは胡乱気な視線を寄越すが、口にするととてもいい考えに思えた。

 背だって私の方が高い。顔立ちだって私の方がずっと凛々しい。力だって自信がある。肌の色だって、ソージは深窓の姫君のように色白の珠肌だが、私はよく陽に焼けた褐色。現に、少女に見られるより少年に間違われることの方が多いのだ。


「いや、いける。全然いけるよ。私ら背格好も似てるしさ。よっしゃ、今から私がソージでお前が一紗かずさな」

「え、本気なの。やめろよ。無理に決まってるだろ」

「無理って言った方が無理なんだ。為せば成る」

「はあ!? もう意味わかんねえよ。って、おい! やめろ、触んな――ッ!」


 アホウ。

 烏が鳴く長閑な田園に、少年の切実な悲鳴が上がった。



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