アダムは風呂に入っていた。

井戸に落ちてから、既に半日以上経っていた。にも関わらず、水中で感じたあの冷たさがまだ抜けていなかった。夏日で熱く、農作業は直射日光の下で行っていた。それでも、ひやりとした感覚がまだ残っていた。

そしてそれは、風呂に入っても変わりは無かった。むしろ温かいとはいえ、水に触れたことで、余計に増幅された様にも感じた。


あの光景は、水の中だったのだろうか。つい、そんな疑問が頭をもたげた。そうだとしたら、それはどこにあるのだろう。

水は限りなく澄んでいるようだったから、沼や水溜りではないだろう。綺麗な水のある場所だ。川?湖?それとも…海か?

そもそもあの髪は、一体誰のものなのだろう?

様々な疑問が頭の中を駆け巡る?誰、何処、何時、どうやって…。頭の中で渦を巻く思考を観察していると、アダムはその渦の内側にあるものの正体に気がついた。

焦燥感。あの突き動かされるような憧憬を伴った、先へ先へと足を向かわせる衝動だ。あまりにも長い間感じることが無かったため、最後にいつその感覚を覚えたのか、もはや分からなくなっていた。

何度も自分に言い聞かせたはずだ。

自分は所帯持ちで、渇望に突き動かされるまま気楽に旅をする訳にはいかない。自分がいなくなればどうなる。妻と子たちをほっぽらかしになど出来るものか。ここ数年は豊作が続いているが、いつまた凶作の年が来るかは分からない。男手は自分一人で、他の家族はみな非力だ。ウィンは大分肝がすわってきてはいるが、まだ子どもだ。一人前になるまでに教えなくてはならないことが色々ある。

だが、そういった理性の砂の城に、激しい衝動の波が迫る。戦わせては駄目だ。この二つを両立させる必要がある。

アダムは目を瞑り、意識を研ぎ澄ませてみた。

まだ全身に残るあの冷たさと、水に浸かっているという感覚を糸口にして、自分の意識の中にある手がかりを手繰りよせようとしているのだ。

実際に行くことは出来なくても、考えることは出来る。

アダムは足を若干浮かせ、あたかも深い水の中に浮かんでいるようにしてみた。だが実際には深さの無い浴槽では、足を浮かせても何度かは底に踵が当たってしまう。それが痛手になってしまったが、目が暗さに慣れるにつれて気にならなくなってきた。

感覚を鋭敏にし、皮膚の記憶を解放する。そうすると不思議なことに、温かい湯に入っているにも関わらず、全身が冷えるような気がした。

アダムは足を若干動かし、水の温度を感じようとした。少し大きく振ったので、足がまた浴槽の底にぶつかるかと思い、若干身構えた。

だが、足はぶつからなかった。

その瞬間、支えられていたはずのアダムの上半身は水の中に沈み込んだ。

突然のことに驚き、アダムは閉じていた瞼を開いた。

目を開ければ、そこには風呂場の明かりがあるはずだった。

だが目を開いても、光は何処にも見当たらない。視界が開けないことが、アダムの恐怖を増幅した。

足をバタつかせても、手応えが無かった。アダムは必死にもがくが、顔がなかなか水の外に出て行かない。

とても寒い。

水が刺すように冷たい。それは確かに井戸の中で感じた冷たさに似ていたが、それを遥かに上回っている。

もがけばもがく程、熱が奪われていく。呼吸も安定せず、何回も水を飲んだ。

「助けてくれ!」

口が外に出た時に叫んでみたが、その声はまったく響かなかった。

風呂場じゃない。どこかとても広い場所だ。

アダムの意識ははっきりしなくなり、やがて暗闇の中に呑まれていった。


***


「お終い」

そう言うと、アリソンは本を閉じた。それを見て3人の子供達は、いかにも不機嫌そうな顔をした。

「もう一度読んでよ」

最初に切り出したのはウィンだった。その後にリラとミラの双子の姉妹が「読んで、読んで」とせがみ出した。

「もうお父さんがお風呂から出るわ」

とアリソンは優しく言い聞かせた。

「でも、このままじゃ眠れないよ」とウィンが言う。

「あらあら…」

その光景のおかしさに、アリソンはついつい目を細めて笑ってしまった。

「『一人前の男』になるんでしょう…?ウィン。一人前の男は必要な時にはしっかり眠るものよ。しっかり休まなくちゃ、出せる力も出せないでしょう?」

「それは…。そうだけど」

ウィンはあからさまに口を尖らせた。アリソンは愛くるしさを覚え、彼の頭を優しく撫でる。まだ子供なのだ。

「ママ」

部屋を出ようとするアリソンを、リラが呼び止めた。

「寝る前にひとつ聞いていい?」

「なあに?」

「さっきの絵本で、どうしてお妃様は神様から罰を受けたの?」

「え…?」予想外の質問に、アリソンはどぎまぎしてしまった。

「お妃様は何も悪いことしてないよ」と今度はミラが続けて言う。

「ただお姫様のことを、羨ましく思っただけで」

「そうね、確かに。聖典を読めれば本当は良いんだけれど、まだあなた達には少し早いから…」

物語の中で王妃が姫に抱いた感情は、実際のところは憧憬ではなく、嫉妬だった。嫉妬の感情は神徒にとって、もっとも忌むべき感情であるとされている。その理由は経典である聖典に書かれているのだが、厳粛な文体は子供達が読むにはあまり適しているとは言えなかった。

アリソンは頭の中で、難解な聖典の教えを噛み砕き、ようやく内容がまとまると口を開いた。

「この世の生きとし生けるものは皆、同じエネルギーを共有していると言われているの。それは神様が昔生み出したもので、それを受け取ることで生き物が生まれた。でもそのエネルギーは一箇所に留めると穢れてしまうから、常に循環させないといけない」

「それが王妃の妬みと何か関係あるの?」

ウィンが聞く。

「妬み…、物語の中のお妃様みたいに、自分が持っていないものを持っている人を嫌いになる感情だけど、それはエネルギーの巡りを悪くしてしまうの。エネルギーを巡らせるには自分を捨てて、いつも相手の為になることをしなければならないのだけど、妬みは人の頭を自分の事だけでいっぱいにしてしまうから…」

ウィンと双子の姉妹は、ポカンとした表情を浮かべた。まだ少し難しかったかもしれない。苦笑いを浮かべながらアリソンは立ち上がると、灯りを消した。

「神様はエネルギーの巡りを大切にする。巡りを良くする人には、ご加護があるし、悪くする人には罰が当たるの。特に私たち農家は天の恵みに頼らなくてはならないから、教えは守らなくちゃいけないの」

子供達はもう抗議することは無かった。寝静まりそうな様子を見て、アリソンは子供部屋を出た。

「他人を思いやれる人になってね」


***


 アリソンは寝室に入ると、アダムがいないことに気が付いた。いつもこの時間には、ベッドに戻っているはずだ。

 彼が風呂に入ってから、もう一時間近く経っている。おかしい、アダムは長風呂が苦手なのに。

 アリソンはベッドに入り夫をしばらく待っていたが、気分が落ち着かず、とても眠れそうになかったので、アダムを探すことにした。


「あなた?」

アリソンは脱衣所に入ると、いるはずのアダムにそう呼びかけた。返事はない。床に置かれた籠を見ると、今日アダムが来ていた服が入っていた。風呂場にいたのは間違いないだろう。

「あなた?」

もう一度呼びかけたが、やはり返事はなかった。疑問に思ったアリソンは、浴室の戸を開いた。

 だが浴槽の中に、アダムの姿はなかった。


 自分が気づかぬ間に、風呂から出ていたのだろうか?だとしたら、次にどこへ行くだろう…。アリソンは思った。いくつか候補を頭の中で挙げていきながら、彼女は廊下を歩いていた。

 その時、トイレの中から水の流れる音がした。誰が中にいるのか確認しようとすると、扉が開いた。だが中から出てきたのはアダムではなく、ウィンだった。

「どうしたの?」

中から出てきたウィンがきいた。

「いいえ、何でもないの。早く寝なさい」

「はあい」

そのままトイレを離れ、角を曲がると、ウィンの姿は見えなくなった。その代わり小さな足音が続いて、扉が開き、そして閉じる音がした。

ウィンが部屋に戻ったのを確認すると、アリソンは再びアダムを探し始めた。子供に心配をさせる訳にはいかない。


 その次にアリソンが向かったのは台所だった。暑い夜だったので、喉の渇きを潤すために、水を飲みに行っているかもしれない。だとすれば、向かうところは水差しが置いてあるダイニングだ。

 だが、台所にもアダムの姿はなかった。


アリソンは子供部屋の戸を開いた。風呂上がりに子供達の寝顔をしばしばアダムが観に行くことがあったからである。

だが子供部屋にも、アダムの姿は無い。

「お母さん?」

部屋を出ようとした瞬間、アリソンは呼び止められた。ウィンだった。

「どうかしたの?」

扉の間から漏れる光に照らされた顔に、心配そうな表情が浮かんでいた。

「ねえ、お父さんが来なかった?」

アリソンは眠っている姉妹を起こさない様、小さな声できく。

「来てないよ。お父さんに何かあったの?」

「ううん。それならいいの。多分お母さん達の部屋にいるんだと思う」

「僕も探す」

そう言って、ウィンが起き上がろうとするので、アリソンは慌てて止めた。

「大丈夫よ。だから寝ていて」

「嫌だ」

「お願い」

アリソンはそう言い切ると、部屋から出て、戸を閉めた。だがそれが抑止になることもなく、ウィンは扉を開けて出てきた。

「何で僕はお父さんを探しちゃあいけないの?」

「もう夜だからよ。子供は寝る時間なの」

苦しい答えだった。何か嫌な予感がしたのだ。でも、それを子供に悟られてはいけない。

「明日もちゃんと朝早く起きるから」

「駄目」

「お願い」

拭えない不安のせいで、精神が逆撫でされていた。アリソンはウィンの方に向かうと、中腰になり、肩を掴んだ。

「寝なさい。お願い。他人を思いやれる人になって」

ウィンは母の叱咤を受け、俯くと、とぼとぼとした足取りで部屋へ戻っていった。


 部屋にも、やはりアダムの姿はなかった。時間が経てば、いつの間にか戻っているのではないかという読みは外れてしまったようである。

 一度頭を冷やすため、ベッドの縁に腰掛けようとした時、アリソンはアダムが時々、翌日の天気がどうなるかを見るために、裏庭に出ることがあったことを思い出した。外に出ていれば、家の中でいくら呼びかけても、気づかないだろう。

 アリソンは寝室を出て、裏口へと続く勝手口がある台所へ再び向かった。


 バシャッ、という音が聞こえたのは、アリソンがちょうど勝手口から裏庭に出た時のことだった。

「あなた?」

 灯りのない裏庭は暗く、奥にある柵も見通すことができなかった。

 彼女は家の中から持ってきたランプをかざし、辺りを見る。だがアダムの姿は見当たらない。

家に戻ろうとした時、辺りが少し明るくなった。空を見ると、数分前まで見えなかった月が出ていた。厚い雲に隠れていたらしい。黒々とした雲の輪郭が、月明かりによって浮き彫りになっていた。

 すると、先ほどまで暗くて見えなかった井戸の影に、人の足らしきものがあることに気がついた。

 アリソンは、井戸の方に歩み寄っていく。

 すると再び、ポチャンという音が聞こえた。水の音だ。彼女は井戸へ向かう足を速めた。何の音だろう。まるで頭を出した魚が、水中へ戻っていく時のような音だった。何か井戸の中にいるのだろうか?

 だが、そんな疑問は、井戸の影で一糸纏わず、全身ずぶ濡れで、凍えそうになっているアダムの姿を見た途端に紀えてしまった。 

「あなた!」

全身から完全に血の気が引いていた。恐ろしいほどに白い。手首に触れたが、驚くほど冷たかった。人間はここまで冷たくなるものなのか。

 そういえば、こんな風に感じたことが前にもあった。

 病死した母の亡骸に触れた時だ。

「あなた!一体どうしたの!?何があったの」

顔こそこちらへ向けなかったものの、声が聞こえたのか、アリソンにむけて何かを言おうとした。だが声は出ず、全身と同じく唇も震えていた。

「お父さん!」

声がした方を見るとウィンがいた。見るからに動揺している。アリソンはウィンに気づくと、村長に念話を借りて、隣の村に住む医者を呼ぶ様言った。ウィンはすぐさま村長の家へ向かった。

「あなた…」

どうして風呂場でなく、こんなところにいたのだろうか?彼の体を湿らせている水も、恐ろしいほど冷たかった。夜の空気で冷えた湯などでは絶対にない。長年、太陽に触れたことのないような冷たさだった。深い川の底や、地下水のような。

 アダムの手に、数本の髪が握られていたのに気づいたのは、この時だった。親指と人差し指で、その内の一本をつまむと、アリソンは見える様に顔の前にまで持ってきた。

艶のある、金色の髪。その細さから見るに、女の髪のようだった。

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