「あなた」

畑仕事に出ようとした時、アダムはアリソンに呼び止められた。

「どうした?」

「リラが人形を井戸に落としたみたいで。拾いに行ってもらえませんか?」

井戸は家の裏にある。そこそこ深い井戸で、子供だけで拾うのは確かに危険だ。

「ああ」

そう言うと彼は道具一式を床に置き、台所の勝手口から裏庭に出た。

庭の真ん中には井戸があり、双子の姉妹、リラとミラが少し離れた所にいた。両親と兄が金色の髪である中で、この二人だけは髪の色が黒かった。二人は泣いている。ミラは人形をきちんと持っていた。感情を共有しているのだ。

しかし何より先に目に飛び込んできたのは、井戸の淵に寄りかかり、必死に手を井戸の中に入れている息子のウィンだった。

心臓が止まりそうだった。

「何してる!」アダムは思わず飛び出すと、ウィンを井戸から下ろした。ウィンは唖然とした表情を浮かべている。

「お父さん」

「危ないじゃないか。落ちたらどうするんだ?」

「だって…」ウィンはリラの方を見た。

「リラが人形を落としちゃったんだ」

「だからどうした?お母さんには言ったんだろう?」

「それはそうだけど…」ウィンは少し泣きそうな顔をしていた。でも涙は流さない。男は泣くな、というアダムは教育の賜物だった。

「僕、お兄ちゃんだし。お兄ちゃんなら、妹が困った時は助けてあげなきゃいけないんでしょう?」

「それはそうだが…」

「誰の力も借りないで。それでこそ一人前の男だってお父さん言ったよ」

「そうだな。ただ、それで自分の身を守れなかったら意味がないだろう?」

いつの間にか、アダムの口調は優しいものになっていた。息子の成長ぶりに喜びを覚えたのだ。

ウィンはまだ8歳だ。だが、順調に成長している。今回は、それがたまたま裏手に出たということだろう。

「自分の身を守れるのも、一人前の男の条件だ。これから自分の手に負えないと思った時には、父さんを呼びなさい」

「わかった」

「じゃあ、ほら。網を貸して」

ウィンは注意深く(柄は彼の身長より長かった)持ち、アダムに渡した。アダムは井戸の淵へ向かった。

「あとは父さんがやるから、お前は妹たちを家の中へ連れて行きなさい」

「僕、お父さんを手伝いたい」

アダムは頬を緩めた。

「分かった。じゃあ見てるといい。だが妹たちを家に連れて行くのが先だ」

アダムはウィンの方からリラの方へ目を向けて、

「安心しなさい。マーゴはちゃんと戻ってくるよ。家に入って、お母さんの手伝いをしておいで」

しゃくり上げながらもうんと頷き、双子は家の中に入っていった。


雲が少し立ち込め、光が遮られている。その為、井戸の中は見通しが悪く、アダムは少し身をのりださなくてはならなかった。

少し奥に目を向けた。

暗くてよく分からない。

もう少し前へ身を向けた。

両手で体重を支えつつ、井戸の底を見る。

雲と雲の間から、光が差した。井戸の僅かな部分が、それを反射し、光っている。その中に、小さな人形のシルエットをアダムは見た。

ーあれだ。ようやく見つけたという達成感で、アダムはウィンが呼び掛けているのにも気がつかなかった。

もう少し近くへ顔を寄せようと身を乗り出した瞬間、アダムは自分の足が宙に浮いているのに気がついた。


***


食器洗いを終え、洗濯をしようと玄関から外へ出た。

「奥さん」

中年の男二人が待っていた。収穫祭についての相談だろう。

「あ、主人ですね」アリソンは言うと、アダムを呼んでこようとした。

「アダムとは、ここで集合する予定だったんだけどねえ…」

そう男のうち一人が言った時、ウィンが慌てて家から出てきた。顔から完全に血の気が引いている。

「あらあら、どうしたの…」慌てる様子も愛らしく、ついアリソンは腰を低くしてウィンと目を合わせた。近所の農家の二人も後ろで微笑んでいる。

だがウィンが発した一言で、場が凍りついた。


「お父さんが井戸に落ちた」


*


**


***


幸いな事に、大怪我をすることはなかった。途中、縁に手をぶつけ切り傷を作ったぐらいだ。

アダムが驚いたのは、井戸の暗さだ。そして静けさ。彼はまるで別の世界に飛ばされてしまったかのように感じた。

水の世界だ。

足の下で、僅かに水の流れを感じる。地下の水脈だ。かなり深い所にあるらしく、流されてしまうほどではなかった。

そして冷たい。季節は夏だが、外の暑さとは完全に無縁なようだった。当然だ。水は陽の光を必要としたりしない。体温が下がって死ぬことも無い。

人の住む世界とは、根本的に相容れないのだ。水の世界に法や秩序があるとすれば、それは人間社会のそれとは全く異なったものになる筈だ。

空気だって必要無い。水が溺れることはない(ここまでくると、もう完全に冗談である)ー。そう思った瞬間、彼は自分が自然に水の中で浮いている事に気が付いた。なんてことだ、金槌だとばかり思っていたのに…。だが、たまたまという訳ではなさそうだ。泳ぎ慣れている、という感覚を全身で覚えた。泳いだことなど、ほとんどなかったと思うのだが。


「あなた!」

アリソンの声が響いた。上を見ると、彼女が顔を覗かせている。心配そうなな表情だ。アダムはすぐ彼女の不安を和らげてあげたくなった。

「大丈夫だ。大した怪我はしていない」

「今、ディムさんとジョージーさんが縄を下すから、それに掴まって」

近所に住む友人の農夫の名前を聞いて、彼はようやく収穫祭の打ち合わせをする予定だったことを思い出した。地上とは真逆の水の世界に、すっかり浸ってしまっていたのに驚いた。

「アダム、朝から散々だったなあ!」

ディムだ。声がすると同時に、縄が上から垂らされる。

「笑い事じゃないぞ。君の家にも井戸はあるんだからな」

笑うディムにアダムは言い返す。地上の世界に戻ってきているのを感じた。落ちてきた時の、穏やかな感情は徐々に消え、陽気な気分になってくる。

アダムは綱を掴むと、上から引っ張られていった。肩、腰、やがては爪先が水の外へと出てきて、気づけば彼は井戸の淵に座っていた。

近所の農夫数人が井戸の前で腰をついていた。彼が出てきたと分かると、拍手が鳴った。

「皆、すまない。本当にありがとう。これも日々の善行の賜物だな」

アリソンが近づいてきて、彼にタオルを渡した。

「朝の忙しい時間帯に迷惑をかけた。娘が人形を落としてな」

アダムは近くにいたリラに人形を渡した。

「これからは井戸の周りで遊ぶのは止めなさい。いいね」

近づいて人形を受け取った幼い娘に、彼は言った。彼を救助せんと集まってくれた農夫たちに礼を言って回っていたアリソンが、ようやく戻ってきた。

「全身濡れてしまっているわね…。新しいお召し物を用意します、あなた」

アダムは頬を緩ませた。

「出会った嵐の日を思い出すな」

「もう。今冗談を言うのはおよしになって」

口調こそ戒めるようだが、目には笑みを浮かべてアリソンが言った。アダムは共に寝室へ向かおうとする妻を制した。

「お前も仕事が残ってるだろう。着替えぐらい自分一人で出来るさ」

農夫たちへ再びの感謝の言葉を述べ、アダムは寝室へと着替えに戻った。


夫婦の寝室は二階にある。

広い部屋であるにも関わらず、間取りの関係から窓が奥に一つあるだけな為、朝であるにも関わらず、室内は薄暗かった。明るさを補う為のランプがいつも付いているのだが、今日は消えていた。朝早く起きた時、妻が起きないようアダムが消したのだった。

早起きをするのは随分と久しぶりだった。いつもなら彼より先にアリソンが起きる。その後に彼が起き、子供部屋にいる子供たちを起こしに行く。だから、彼女より早く起きてしまえば一人になるのだ。一人でずっと旅をしていたかつての日々とは大違いだった。

散歩をした時に会った村外れに住む飛行箒職人の青年に対して、あんなによそよそしくなってしまうのも驚きだった。彼からは昔の自分と同じ匂いがした。独り者の匂い、孤独に耐性のある者が放つ匂いだった。

孤独に耐えられなくなったからだと、アダムは思った。孤独に恐れを感じているから、その中で生きる者にも、どこか居心地の悪さを感じてしまうのだ。今日、あの井戸の中で異様な感覚の鋭さを見せたのも、きっとその恐怖のせいだろう。

部屋の暗さに加え井戸の水で濡れ、冷たくなっている服が、水に浸かっていたときのことを生々しく思い出させた。陽が当たる地上に戻った後は、一層あの陰鬱とした空間の異様さを感じるようになった。

アダムはそれを振り払うように、上に来ていたシャツを脱ぎ始めた。ボタンを外し、露出していったところから、水のひんやりとした感じが抜けていく。まだ身体の中にあった水の世界の残滓を抜いていく儀式のようだった。

異変があったのは、腕一本抜けばシャツが完全に脱げるというところまで来たところだった。手首の敏感な肌に布が当たった瞬間、彼の頭の中であるイメージが像を結んだ。

全ての光を吸収してしまうような闇。それを背景にして、ゆっくりと靡く金色の髪。いかなる光源も見えないが、その金髪だけは、まるで陽の光にあたっているかのように輝いて見える。

あのイメージだ。一人で旅をしていた時に、頭の片隅にあった光景。

かつての孤独な生活を忘れさせるのには十分な程の時間が経っているのに、その美しさに驚いた。本当に一瞬、脳裏に浮かんだだけなのに、これまで見たどんな光景にも増して鮮やかだった。まったく変わっていない。ちっとも色褪せていない。長らく忘れていたことを思い出した時の、達成感に似た感銘で胸がいっぱいになる。

だが、だから何かと聞かれれば、それまでだった。

もう自分は若くはない。妻がおり、子供もいるのだ。吟遊詩人の語る騎士の物語の様に、麗しい女性を探す時は、とうに終わっているのだ。思い出したのはいいが、今は無用の長物だった。

アダムは持ってきたタオルで身体を拭き始めた。腕から拭いたのは、突然蘇ってきたビジョンを消し去ろうとしたからかもしれない。

なのに、今回は消えない。新たに服を着替え、太陽の下に出てきても、相変わらずビジョンは彼に頭を占拠し続けた。心の奥底に、水の冷たさが残ってしまったかの様だった。

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