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 またあの青い花畑に辿り着いた所で、ルミナスは目を覚ました。


外は明るくなっていたが、まだ夜が明けたばかりらしかった。

昨晩寝る寸前に何をしていたのかが思い出せない。頼まれた箒の最後の仕上げに取り掛かっていたのは覚えている。いつも仕上げをする時には大抵夜を徹して作業を進めるのに、寝てしまったというのだろうか。

ルミナスは非常に恨めしく思った。途中で中断をして、作業をした時ほど結果が散々になる時はない。作業を始めてから高まった勢いで終盤まで持っていくのが彼のやり方だった。気分転換などしようものなら、熱が冷め、最初に決めたのとは別の方法を試してみたくなってしまう。そしてそういう時は結局当初のやり方が正しかったりするのだ。


作業場に目を向けるとランプが付けっ放しになっていた。おかしい。眠る時は消すはずなのに。作業用の前掛けをしていたままなのにも違和感を覚えた。お陰でポケットの中に入れておいた道具が寝返りを打った時に落ちたらしく、ベッドの周りに散乱していた。

何より一番奇妙だったのは、靴を履いたまま寝ていたことだった。どんなに変わった寝方をする者でも、靴ぐらいは脱ぐはずだ。

恐らく、自発的に眠ったのではない。強制的に眠らされたのだ。それならベッドに入った記憶がないのも、このように普段着のまま寝たことにも筋が通る。

強制的に眠らされるなどという奇妙な出来事の原因として思い当たるのは、ただ一つだ。

ルミナスは傍に目を移した。毛布が何かに被さり、山になっている。彼がこっそりその毛布を捲ると、艶のある、豊かな赤い髪の女が現れた。反対側を向いているのか、顔は見えない。気持ちよさそうに寝息を立てている。

ルミナスは溜め息をつくと、背伸びをして、小屋を出た。


早朝の空気に触れ、ルミナスの気は少しばかり晴れた。新鮮な草や木々の香り、鳥の囀りは、やはり素晴らしいものだ。人の気がまったく感じられない。早朝は俗世間の営みから、最も程遠い神聖な時間だった。これからはこの時間に起きるべきか、ルミナスは真剣に考え始めた。

とはいえ、朝食の時間まではだいぶ時間がある。いくら農家だとはいえ、ルーンの女将さんもこの時間はまだ眠っているだろう。ひょっとするとその娘であるキアラが森の中の小屋で研究に勤しんでいるかもしれないが、声をかけるのには気が引けた。ルミナスより遥かに愛想がよく、実際親切だとはいえ、大切な研究の時間を邪魔されればキアラとて不快に思うだろう。

小屋の鍵は閉めてきた。とはいえ、ベッドの上で気持ちよさそうに寝ていたルピアなら、簡単に解錠することが出来る。小屋を施錠したのは、突然訪ねてきた魔女を閉じ込めておく為ではなく、森から出てくる動物を中に入れない為だった。彼が工房として使う小屋には食料がない(そもそも台所がない)のに、キツネやひどい時にはイノシシが入り込んで中を荒らすのだ。折角留守番になっているのだから、ルピアが魔法で追い払ってくれれば都合が良いのだが、仮に獣が入ってきても、気にしないで寝続けるのは容易に想像できた。


散歩を続けるルミナスは思いを巡らす。

ルピアの突然の出現で腰を折られてしまったとはいえ、新しい箒は完成間近だ。ここ数ヶ月で立て続けに依頼を引き受けたので、今のが完成すれば少し空白が出来る。多忙のせいであまり顔を出せていなかったデモ集会にも最後まで出席できそうだ。

聞けば都の郊外にある工場の工事は、デモ隊の努力も虚しく着々と進んでいるという。飛行箒は品質が第一であり、高い品質の箒を生み出せるのは職人の腕だけだ。近年爆発的に技術が向上したとはいえ、大量生産で使われる機械を作るのは、魔術に全く精通していない隣国の門外漢ばかり。そんな連中が付け焼き刃的につけた知識を元に機械を作り、それが箒を作ったところで、その品質は紛い物のそれとそう変わりはないだろう。実際、隣国製の量産型箒で次々と事故が起きているというのは職人仲間の間ではすっかり有名だった。これらの企業の背後にいる隣国の政府が、そういった事故情報を揉み消そうと無駄な努力をしているのもよく知られていた。

それになによりこのエレストニアに住む魔法使い達(魔術官、と呼ばれる)は賢い。職人の手による箒は確かに値が張るが、それが長きにわたる安全性を保証することをちゃんと知っている。短期的な利益である値段の安さと、長期的な利益である安全性を比べたら、きちんと後者に重きを置くのがこの国の伝統だ。刹那的な欲望のみを重視する近視眼的姿勢が身を滅ぼすのは、歴史が証明している。


その瞬間足音が聞こえ、思考が掻き消された。


顔を上げると、筋骨逞しい男が立っていた。ルミナスは男が同じ村に住む農夫だと知っていた。アダムという名で、村一番の農夫だと聞いた。人望も厚く、村人全員から慕われている。この間嵐が来た時も、近隣の村人に的確な指示を出し、被害が大きくなるのを防いだ(ちなみにこの時ルミナスは三本目の箒の仕上げに取り組んでおり、嵐が過ぎると同時に箒が完成するまで、天井の一部が飛ばされたことに気づかなかった)。自分とは正反対の人間で、話したことはあまりなかった。アダムもそんな気を察してか、ルミナスには少しよそよそしかった。こんな時間同じ場所に居合わせたのが不思議でならなかったが、それはあちらも同じだろう。

「…やあ」先に声をかけたのはアダムだった。「こんな朝早くにどうした?眠れなかったのか」

「…君は?」とルミナスは言った。何となく自分のことについて明かすのは躊躇われた。

「私は…、農家だからね。朝は早い」

「そうか」

そこで会話が切れ、そこから数分気まずい沈黙が続いた。

「君は、いつもあの小屋で作業をしているのか?」とアダム。

「ああ」

また再びの沈黙が続く。30秒ほどした時、ただ食事はルーンの家でお世話になっている、とさほど会話を続けるのには役に立たない注釈をルミナスは加えた。アダムも、返事は「おお、そうか」ということに留めた。言わずとも、村中の人々が知っていたからである。

アルスラ・ルーンが箒職人の食事を作るようになったのは、ルミナスの師匠であったジュインクルズがこの村に住むようになってからで、それはアダムがアリソンと出会ったあの嵐の日より十数年先立つ事だった。

お互い会話に区切りをつけるきっかけを探していたところで、ニワトリが鳴き始めた。アダムはすぐさまそちらの方に意識を向けた。

「ただちょっと散歩していただけなんだ。今日は会えて嬉しかったよ。妻と子供達がもうそろそろ起きだすから、ここで失礼するよ」

「ああ」

「そうだ…、少し先になるが今年も収穫祭をするんだ。君は農家じゃないが、大切な村の仲間の一人だ。来てくれるかな」

収穫祭に参加したことは一回もなかった。

「…考えておく」

「そうか。じゃあまた」

「じゃあ」

別れを告げるとアダムは足早に去って行った。


ルミナスは、確かに他の村人とは少し違う。禁欲的であるという共通点こそあるものの、素朴でもなければ、愛嬌がある訳でもない。そもそも生まれはデュラムの村ではなく、恐らくは都だ。都の外れの孤児院で育った。国内では滅多に見かけなくなったその見事な銀色の髪を見て、北方の聖地近くに住んでいたという伝説の一族の生き残りなのでは、という者もいた。端正な顔立ちも、どこか人を寄せ付けないのに一役買っていた。人を寄せ付けないから、大体一人で、親しいもの以外との人付き合いを面倒だと切って捨てる節があった。それでいて頑固だったから、職人には向いていたのかもしれない。彼の師匠の人懐っこさは、偉大な職人だったという事実こそあれど、職人としてはやはり少し変わっていた。

村に来る以前のアダムなら、こんなルミナスを前にしても上手く立ち回れたかもしれない。この変わり者と話すには、アダムは村人とのコミュニケーションに慣れ過ぎていた。この二人が皆が寝静まった夜遅く、話し合うきっかけになったのも、アダムの不可解な瞬間移動だった。


アダムと別れてから散歩を少し続けたルミナスは、小屋のある村はずれの草原を離れ、農家の家の多く建つ村の中央へやってきた。夜が明けてから大分時間が経っていたので、家々の煙突からは煙が立ち始め、家の前では人々が話したり、作業をしたりしていた。

彼の目的地であるルーンの家の煙突からも煙が出ていた。朝食の香りがする。今日の朝食はスープらしかった。ルミナスは台所横の勝手口から、中に入った。


中に入ると、左手側にある台所でルーンの女将さんことアルスラが料理をしていた。彼にその大きな背中を向けている状態なのだが、人生の中間地点をとうに通り過ぎた彼女は、振り返らずとも気配を敏感に察知できるようだった。

「おはよう、ルミナス」

「おはようございます」とルミナスも答える。

「昨日の夜は作業だったのかい」女将さんは相変わらずこちらを見ずに言う。

「夕飯を食べに来なかったじゃないか」

「すみません」

「いいよ、いいよ。ただ今度からはうちで食べない時はちゃんとそう伝えてくれないかね」

「女将さん、それは」

「何だい、そんなに難しいことかね。別にわざわざ来て伝えてくれなくたっていいよ。手紙を送るなりしてくれればね」

「作業に入ってしまったら、小屋から出たくないんです」

「そんな横着な。子供じゃないんだから…」

「全くです」これはある程度本心からの言葉だった。師匠はどんなに作業が佳境に入っても、ここに食事を取りに来ることを忘れなかった。本当に師匠は人好きだったのだろう。どう作業と社交を両立していたのか、亡き後となっては知りようもない。

「そうかい。あのね、嫌がらせで言ってるわけじゃないんだ。私は時々自分から決めて誰かの好物を作る時がある。その喜ぶ顔を見るのが楽しみでね。だから、その本人が何の連絡もなく顔を見せなかったら、報われないじゃないか。そうだろ?」

「そうですね…」

ここでようやく女将さんがこちらを向いた。顔には笑みが浮かんでいる。

「あんたの好きなパテ、食料庫の中にとってあるよ」

ルミナスは少し自分が恥ずかしくなった。

「あ、ありがとうございます…」

「分かればよろしい。おや、その顔は申し訳なく思ってるって感じだね。なら食器を並べるのを手伝ってくれるね」

「はい」

返事をして、ルミナスは言われた通りに食器を並べ始めた。


食器を並べ終え、料理が運ばれるのを待っていると、キアラがやってきた。勝手口からやって来たのを見ると、やはり小屋にいたのだろう。

「あ、ルミナス。今日は来たの」とキアラが言う。

「ああ」

「仕上げにかかってたの?」

「そうだ。研究か?」

「ええ、そう」キアラは苦笑いしながら言うと、席に座った。後ろで結んでこそあるが、髪が乱れている。

「論文よ。今度の学会誌に載せるの。山の裏で採れた新種の発表も兼ねてね。内容についてはきかないで」

「どうして?」

「確かなことが分かるまで、何も話さない方がいいと思うの…。本当は話したいんだけれど…」

丁度いい所で女将さんが料理を運んできた。

「目にクマが出来てるじゃないか。あんた、今日農作業出来るのかい?」

「あー…、ご飯食べた後二時間ぐらい寝れば大丈夫だと思う」

「二時間だって?冗談じゃないよ。ただでさえ人手が足りないっていうのに」

そう言いながら、スープを皿に注いでいく。

「睡眠不足にさせるために、お前を大学に入れたわけじゃないよ」

「分かってます」

ルミナスは席を離れ、フォークとスプーンを取ってきた。女将さんの負担を少しでも軽くするためだ。

「それにあんた、ファブスはどうしたの?近いうちに帰ってくるの?」

ファブスはキアラの夫である。

「いいえ、お母さん。当分は戻ってこないと思う。忙しいんですって、やらなくちゃあいけない仕事がいっぱいで」

「要領も悪いからな」とルミナス。ファブスは彼の大学時代のルームメイトだった。

「そうそう。それに加えて研究テーマが広大になりすぎて、手に追えてないことがほとんどよ。研究員になったのに、そこは学生の頃から何も変わらないんだから」

「あら、長らくあってない割には、あの子の最近の事情に詳しいじゃないか」女将さんは食事の準備を終え、席に着くと訝しげに聞いた。

「モーニングコールをくれるのよ、毎週水曜に。そこで聞いたの」とキアラは呆れながら言った。

「そんな時間あるなら、さっさと仕事すればいいのに。多分研究室に篭りっぱなしなのよ」

食事の準備が出来たので、女将さんが軽いお祈りを唱え、3人は食事を始めた。しばらくして、女将さんが口を開いた。

「ファブスは心配なのさ。自分がいない間にあんたたち二人がくっついてしまうんじゃないかって」

キアラとルミナスは同時に顔を上げた。

「そんな」

「まさか」

「そうかねえ」

女将さんはニタニタ笑みを浮かべながら言う。

「だってキアラ、あんた多分ファブスとよりルミナスと一緒にいる時間の方が長いんじゃないかい」

「あ、お母さん。それはないわよ。だってルミナスは後半2年はもう大学にいなかったんだから」

「あらそうだったかしら」

「旅に出てましたからね」スープを口に含ませ、ルミナス答える。

「その2年は一回も連絡しなかったですし」

「それもまた極端だね」

「私とファブスは結構気がかりだったのよ。ジュインクルズさんと一緒にこの村に来たの見てびっくりしたんだから…世間って狭いわ」

会話はそこで途切れ(理由はルミナスが返事をしなかったからに他ならない)、しばらくは食器の音のみが響いていたが、やがて口を開いたのはやはり女将さんだった。

「キアラ、ジュインクルズさんが食事を断ったことってあったかね」

キアラは少し考えると、思い当たることがあったのか思わずポンと手を打った。

「お母さん、覚えてない?一回花火で伝えようとしたことがあったじゃない」

「え?」ルミナスは驚いた。

「私が小さい頃だから、大分昔よ。昨日のルミナスみたいに手が離せなくて、ただ夕食食べれないと伝える時間もないから、遠くからでも判るように花火を使おうとしたのよ。ただ打ち上げたのはいいんだけど、結局意味は伝わらないままで、失敗して終わりだったの」

容量が良く、何事も器用にこなしていた師匠にもそんな時代があったのか。自分がいつも見ていた姿からは、想像も出来ない事実だった。

「知らなかった」

「それで何だか懲りて、夕食はちゃんととるようにしたみたい」

「そんなこともあったかね。あたしも覚えてないよ」そう言うと女将さんは立ち上がり、「スープのお代わりは?」

二人は首を振った。キアラは立ち上がり、食器を片付け始めた。

「ジュインクルズさん、それで手を火傷したのよ。職人は手が命でしょう?ルミナスもあんまり横着しないでね。なんなら、夕飯いるか私が聞きに行こうか?」

「考えとく」

シンクの前にキアラが来ると女将さんが、

「それであんた、この後どうするの?」

「一時間でもいいから寝かせてよ。睡眠不足だと脱水症状になりやすいのよ」

「はあ…、ああ言えばこう言うんだね。大卒は口も達者だね。こりゃ、子供作れって言っても上手く言い逃れされて、孫の顔も見れずじまいかねえ…」

人手が足りないっていうのにと独りごちる女将さんを後にして、キアラは抜き足差し足でシンクを離れると、ルミナスにまたね、と言って家の奥に戻って行った。


一人食卓に残されたルミナスはスープの残りを飲んでいた。すると、女将さんがまた声を掛けてきた。

「ルミナス。ついつい忘れがちだけど、あんたもだよ」

「え?」

「子供は?職人なんだから、技術を後世に伝えないと…」

ルミナスは複雑な気分になった。箒の機械生産化が進めば、職人は必要なくなる。職人文化は潰えるだろう。もしデモが上手くいかず、そんなことになろうものなら、後継ぎを見つけた所で勿論意味はない。

「女将さん。工場が出来たら、職人は用済みですよ」

「デモ、上手くいってないのかい」

「ええ」

「そうかい。ジュインクルズさんもまた辛いご時世に、あんたを職人にしたんだね」

彼の師匠は生前、デモに積極的に関わろうとしなかった。

「ええ」

「そうかねえ…。ただ、だからって家族を持てなくなるって訳じゃないよ。いいじゃないか、持ってみても。一人では思いつかなかった解決法が見つかったりもするかもね」

ルミナスもスープを飲み終え、食器をシンクへ持っていく。

「あの、あんたの所によく来る、色っぽい魔術官さんなんかどうなんだい?あんたに気があるんじゃないのかい」

突然の女将さんの言葉に、ルミナスは面食らってしまった。実際にそういうことがあった訳ではないが(しかも強制的にされたことでさえあったが)、彼ら二人は一晩を同じベッドで過ごしたのだ。

「いや」

「『いや』って何だい?」

「考えられないです」

ルピアは、彼女が働く都では人気があるのだと聞いたことがある。彼女の並外れた美貌とプロポーションは、確かに多くの男の目を惹くだろう。だが、ルミナスは少なくとも、他の男のようにルピアに魅了されることはなかった。ルピアの方も、ただ本当に添い寝をするためだけに来ているようで、ルミナスに異性としての好感があるのかはわからなかった。

 子供を作るなど、考えられない。

ルミナスは外を見た。遠くに工房が見える。草原の中に、ぽつりと立っている。それを見て、子供どころではないと、改めて思い知らされた。それどころではない。気を抜けば今の時代、職人はあっという間に淘汰されてしまう。だがそんな時代に職人になったのを悔いるのは、遠い昔に止めた。師匠のことも今ではまた尊敬している。


いつも自分の力を頼りにしてきた。

今回もそうして、乗り切っていくのだ。

「そうかい、脈なしなのかい」女将さんが残念そうに言った。

「骨盤も広そうだし、健康な子供が生まれると思ったんだけどねえ」

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