ブルーミー

糸原アキラ

水妖編

1 

アダムはいつも見る夢を見た。

深い暗闇を背景にして、金色の美しい髪が揺らめくというものだ。女の髪だ、とアダムは夢を見る度思った。そして目が醒めると、いつもそれを忘れた。

この時も、やはりアダムは夢を忘れた。目が覚めたアダムは窓を見た。陽はまだ登っていなかった。

強い雨が降っていた。一階の玄関口に提げられたランプの眩い明かりが、階下から雨を照らしていた(彼の部屋は2階にあった)。夜道で突然の雨に打たれ、雨宿りの場所を探す、迷いし旅人への目印にしようという親切心から、宿屋の主人が一晩つけっぱなしにしているのだ。

アダムは寝床に身を横たえ、また眠りについた。彼の他に6人もの男たちが、同じ部屋で寝息を立てていた。中にはいびきがひどい者もいたが、アダムは意に介さなかった。長年旅人でい続けた彼にとっては、そのようないびきも子守唄だった。


彼は再び眠りについた。今度は夢を見なかった。

しかし揺れる女の髪の幻は、同じぐらい深い彼の意識の底に沈んでいて、機会を見つけては浮上してくる。


***


夜が明け、打って変わって雨は止んだ。道の真ん中に出来た水たまりが青空を映して、地面にあるのに空へと続く奇妙な落とし穴のようになっていた。

快晴だ。

アダムは朝食をすませると、宿を出た。ここ数日宿で親しくなった行商人の男と再会を誓い、別れた。アダムは南、行商人は東へ行くということだった。東は都のある方向で、人が多く住む都市が幾つも有る。対してアダムの向かう南は、ひたすらの自然と農村の広がる地域だ。行商人に南に何か特別な思い入れでもあるのかと訊かれた。特別な思い入れでもない限り、若い男を満足させるような刺激的なものは南には殆んどない、と。アダムは、この時は無意識下にある漂う女の髪の幻想に気づかなかったので、答えを濁した。何かとの出会いを求めて旅に出たはずなのだが、それが何か知らなかった。ただ、先へ先へという焦燥感のようなものが、アダムを突き動かしていた。そのまま歩き続ければ、いつかはその何かに出会えるような気がしたのだ。高台から見ると目前に広がる自然の中に、何かとても美しいものが隠れているように思えた。

実のところ、アダムには旅を始めた時の記憶が無かった。

気がつけば、いつの間にか旅をしていた。


***


南が寂しい地域であるのがなんとなく分かってきた。

村を出てからずっと、森の中を通る道を歩いている。風景に全く変化が無かった。宿を出てから村を一つも見ていない。耳を澄ませると川のせせらぐ後が聞こえてきた。どうも森の中を走る川に沿う形で道が敷かれているようだった。もう長らくその状態が続いている。川に付き添われているかのような、奇妙な感覚をアダムは覚えていた。

朝は晴れやかだった空が、少し曇り始めていた。


***


強い風が吹き荒れ、木の枝や草が飛ばされていく。

空は黒い雲が覆っていたが、その切れ間から夕日の茜色の光が漏れ、不吉な雲空に禍々しい感じを添えていた。それは昔村にやってきた興行師が動念写画で見せてくれた、溶岩にそっくりだった。興行師は、その光景は「地上の地獄」と呼ばれているのだと教えてくれた。


−−−地獄とはあのような感じなのだろう。


アリソンは空を見て思った。敬虔な神徒である彼女は天国と地獄を信じていたから、それは非常に生々しい感じを伴っていた。

彼女は今、デュラムの村一番の農家であるルヴォワルン家の主人である老父と、畑に覆いを被せている最中だった。覆いに効果が本当にあるのかは疑わしかったが、父に従順な娘である彼女は何も言わずに従った。

だが風は強くなるばかりだ。時々軽い自分の身体が、風に持っていかれるようになるのを、彼女は感じていた。


***


雨が降り始めた。

今、辺りの木々を激しく揺らす風にも劣らぬほどの強風で、直ぐに全身が濡れた。布が水を吸い、全身が重く感じる。特に足は、まるで重りでもつけて歩かされているようだった。水の底で重りを着けて歩かされているようだった。


水?


自分が何故そんな風に思ったのかが、アダムにはわからなかった。記憶にある限り、泳いだことはない。水浴びをすることこそあれど、足がつかないほど深い川や湖には入ったことがなかった。

水。

水といえば川があった。水の音が道中ずっと聞こえていたから、逸れていったとは考えづらい。このような大雨が降ったら、氾濫してしまうかもしれない。水に呑まれれば、まず無事ではいられないだろう。

その途端、足元から恐怖の感情が込み上げてきた。アダムは道を離れ、脇の森の中を掻き分けて行く。ただでさえ暗いのに、木が生い茂る森の中は更に暗かった。掻き分けるの慣れ、理性が戻ってくるにつれ、自分はなんて愚かなことをしたのだろうと後悔するようになっていた。

だが悔いたところでどうしようもない。森の奥深くまで既に入り込んでおり、道の方向などとうに分からなくなっていた。

その瞬間、雷がなった。


***


空を走った閃光と轟音に、思わずアリソンは怯み、持っていた布を手放してしまった。彼女はじっとしゃがみ込み、びしょ濡れになった自分を守ろうとした。


父親が彼女の名を叫んだ。だが、彼女には聞こえなかった。雷はかなり近くに落ちた。恐らくは農場の境界にまで迫ってきている森の中だ。外にいるわけには行かない。家に戻り、安全の確保をしなくては。

彼の妻は数ヶ月前に病気でこの世を去っていた。ようやく時がその傷を癒し始めているのに娘まで失ってしまったら、恐らくはもう生きていけないだろう。

必死に娘の方へ向かおうと、一歩を踏み出す。だが、上手く踏み込めず、風に少し飛ばされた。

自分の力の衰えを、ひしひしと思い知らされた。


アリソンが頭に被っていた頭巾が、風に飛ばされた。布が虚空に消える。次そうなるのは娘の命なのだろうか。


***


雷は命の危険を高めた(なにせ高い樹の下である)が、同時に視界の悪さも改善してくれた。

その光を頼りに、アダムは森の終わりを見た。開けている。農場らしかった。アダムは急いでその方向へと急いだ。


思った通り農場だ。覆いの被さった畑が広がっている。周囲を見渡し、家を探す。匿ってもらおう。もし見返りを求められたら、短い間働けばいい。屈強な体躯をしており、体力には自信があった。その男らしい容貌で、あちらこちらの町に住む美しい娘たちと、何回も夜を共にしてきた。

だが、あるものが目に入ると、そういった自惚れ混じりの打算は一瞬で姿を消した。


娘がいた。


小さな娘が地面にうずくまり、身動きが取れなくなっていた。雷が怖いのだろう。

風がその髪を揺らす。美しい金色の髪だ。

アダムの胸の中を、探し求めていたものが見つかったという充実感と、助けなければならないという使命感が埋め尽くした。理由は本人にもわからなかった。


手に持っていた荷物を次々と放り出し、アダムは娘の方へ駆け寄っていった。猛烈な向かい風だったが、気にはならなかった。長い間胸の奥底で持ち続けた憧憬の念が力に変わっていった。


震える娘に、アダムは風からかばうように覆い被さり、そのまま抱きかかえた。

その時、アダムは初めて、驚いた表情で自分を見つめる娘が顔を見た。

もっと顔立ちが整った女を、彼は沢山見てきた。だが、娘の可憐さにはそのうちの何者も敵わなかった。大きな黒目がちな瞳が、彼を見つめる。


アダムは一度娘の顔を見つめるのを止め、前を向いた。農村にしては大きな家があり、開いた玄関の戸の前に、老人がランプを持って立って、大声で呼びかけた。お若い人、こちらです。早くお入りください。


風は相変わらず吹き荒れ、両手は塞がっている。普段だったら、なかなかに堪える状況だった。だが、今はそうではない。彼が抱えているのは、何よりも尊く、壊れやすく、愛おしい宝物だ。その体重でさえも、アダムにとっては喜びだった。例え鉛のように重かったとしても、それが消えることはなかっただろう(むしろより増したかもしれない)。


***

家に着き、アダムの手から離れるや否や、アリソンは先ずタオルで彼の体を拭き(自分もずぶ濡れになっていたのにも関わらず)、残りの薪をくべて、アダムを温めた。風邪を引くからお前も休みなさい、と父親が言っても、いつもの様に素直に聞くことはなかった。それでも娘のことを案じた彼は、娘がスープを作るのを手伝った。

料理をする娘の傍で、父は彼女の頬が赤らんでいることに気づいた。やはり熱があるのか、と思い無理矢理でも娘を休ませようとしたが、あることに思い当たり、思い止まった。

娘の表情は真剣そのものだったが、どこか柔和な感じがあった。今彼女が微笑めば、それはそれは慈愛に満ちたものになっただろう。

ルヴォワルンの主人は気がついた。

自分の一人娘は恋をしたのだ。


***


一日経つと、天気は再び穏やかなものになった。

アリソンの努力も虚しく、アダムは風邪を引いた。二、三日、彼は熱にうなされ、いつもよりいっそう奇妙な夢を見た。ただ、暗闇で揺らぐ金色の髪が出てくることはなかった。


三日経った日の昼下がり、アダムはとうとう目を覚ました。

陽が暖かく、静かな日だった。これまで旅してきた町々の喧騒、男たちのいびき、そして雷の轟音とも無縁だった。旅の間四六時中耳元で鳴っていたこういった音が聞こえなくなったことで、アダムは少し寂しさを覚えた。聞こえるのは鳥のさえずりと、遠くで鳴く動物の声だけだった。

だが、自分の足元で、上体を彼に預けて眠るアリソンの姿を見て、心の虚しさが急激に埋まっていく感じを覚えた。

見たこともない程に可憐な乙女が、彼の傍にいる。アダムはアリソンから目が離せなくなった。初めて会った時、彼の目を惹きつけた金色の髪は、残念ながら頭巾の下に隠れてしまっているが、それでもよかった。

アリソンは少し身じろぎして、目を覚ました。上体を起こし、寝ぼけ眼で彼を見た。

起きたんですか、と彼女は聞いた。

彼は答えず頷いた。

それを見て、アリソンは目を細め(日光が眩しかったからかもしれない)、微笑みを浮かべた。

うなされてたので、心配していたんですよ。そう言い、目を擦りながら、彼女は周囲に

ていた物を片づけていった。嵐の日から何日経ったのかアダムは知らなかったが、きっと今日に至るまで付きっ切りでずっと看病してくれていたのだろう。

ありがとう、彼はようやく口を開いて言った。長く悩んだ末に選んだ、最初の一言だった。

丁度彼女は部屋を出るところで、こちらを振り返り、父親が話をしたいと言っていたことを告げた。


***


ここで働かないか、と主人が切り出したのはその日の夜だった。

アダムがようやくベッドから出られる様になったと知り、少し早めに農作業を切り上げてきたのだそうだ(とはいえ、陽は沈みかけていた)。

質素倹約を流儀とする人だった為、宴は非常に淡泊だったが、それでもアダムは今まで感じたことのないほどの歓迎を受けた様に感じた。

大きな農場であるにも関わらず、働き手はあまり多くはなかった。アリソンは、主人とその奥方の間に出来た唯一の子供で、それ以外に働き手になる様な子供はいなかった。この日、ハキムとナジームという愉快な二人の若者が同席していたが、彼らは巡礼の旅の最中であり、やがてはここを去り、北の聖地へ向かうのだという。農場ではその軍資金を得るために短い間働いているということだった。

アダムは、いつも自分を先へ先へと急かしていた、あの焦燥感を感じない様になっているのに気がついた。ここ、デュラムの村については、今日初めて知った。あの嵐が来なければ、恐らく通ることさえなかっただろう。なのに、この上ないほどの親しみを持ち始めていた。今までは一箇所に留まることなど考えもしなかったが、ここでなら…。

そんな時に、ここで働くことを切り出されたのだった。意は決し兼ねていたものの、その誘いを受けるのにあまり時間はかからなかった。


***


これが、村一番の農夫・アダム・ルヴォワルンがデュラムの村までやってきた経緯である。

それから先は、アダムにとって最良の時だった。

村に留まり、農家として残りの人生を過ごそうと決意してすぐ、彼はアリソンと結婚をした。不思議なことに旅をしていた時の浮気性も消え、何年経とうともアダムのアリソンへの愛は消えることがなかった。

アリソンにとっても、アダムは自分の運命の相手だと思う様になっていた。村の外の世界を知らない彼女ではあったが、たとえ他のどんな魅力的な男と出会ってもその思いは決して揺るがないであろうと心の底から信じていた。唯一不可解だったのは、夫が自分の様に幼き日の思い出を全く持たないことであったが、その確信を前にしてはそういった良からぬ予感も消え去った。


アダムが村に来てから三年後、(義)父であるルヴォワルンの主人が亡くなるという不幸にも見舞われたが、二人はその深い絆でなんとかそれも乗り切った。遺言に従い、アダムが農場を相続した。

夫婦としての蜜月はとうに過ぎたものの、日々の労働に感謝し、慎ましやかな生活を迎える彼らには関係のないことだった。


二人の初めての子供、長男のウィンは今年で8歳になる。健康に育ち、一人前の男への憧れが募る年頃だ。双子のリラとミラも、ついこの間4回目の誕生日を迎えたばかりだ。


村人からも尊敬され、幸せな生活を送っていた。

その幸福が揺らぎ始めたのは、アダムの頭のなかから水のことが離れなくなり、ついに実際の湖へと瞬間移動をしてしまってからだった。

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