季節は廻って

夢野言乃葉

春。日曜日。

 階段を上がる音が徐々に大きくなり、襖が乱暴に開けられる音がした。そのまま誰かが布団で眠る自分をまたぎ、カーテンを開けた。目蓋の裏が急に明るくなる。

「ほら、起きて父さん。朝だよ、朝」

 続けて聞こえてくる夏美の声。聞こえないふりをしていると、布団をひっぺはがされた。起き上がり、今年で高校二年生になった長女にあくびまじりの挨拶をする。

「おはよう、夏美」

「おはよう、父さん。冬が待ってるよ。早く下に降りて」

 夏美に後ろから押されながら部屋を出て階段を降り、キッチン付きの小さなリビングに入ると、中学二年生の次女がキッチンから声をかけてきた。どうやら味噌汁を作っているらしい。

「おはよう、父さん」

「おはよう」

 トースターが安っぽい音を立てて、食パンが焼けたことを告げた。食器棚から三枚の皿を取って、夏美に一枚ずつその上にトーストをのせてもらい、四人掛けの木製のテーブルに並べる。続けて夏美からお茶漬けの入ったお椀を受け取る。トースト一枚に、お茶漬けに、味噌汁に、牛乳。変わった組み合わせだが、これが藤崎家の日曜日の朝の定番だった。

「父さん、箸お願い」

 キッチンでコップに牛乳を注ぐ夏美が言った。完成した味噌汁をテーブルへと運ぶ冬子を手伝ってから、箸を用意して席につく。コップをテーブルの上に置いて夏美が向かい側に座り、エプロンを脱いでその隣に冬子が座った。準備完了だ。

「いただきます」

 両手を合わせ、三人で一緒に声を上げる。テレビのアナウンサーの言葉を聞き流しながら、少し焼き過ぎて焦げ付いたトーストをかじった。表面のサクサクとした歯応えと、内部のしっとりとした食感の中にほんのりと甘味が広がる。牛乳飲んで一息ついていると、冬子が言った。

「父さん、それ取って」

 その指先にあるテーブルの隅に置かれたメープルシロップを冬子に渡すと、お茶漬けを食べ終わり、トーストにジャムを均一になるように器用に塗りながら夏美が言った。

「いつも思うんだけど、父さんよく食パンをそのまま食べられるよね」

「何もつけなくても十分美味しいと思うけどなぁ」

「バターぐらいつければいいのに」

 そう言って、中々中身が出てこないメープルシロップの容器を振りながら冬子が笑う。

「まぁ何でもかんでもそういうのをつけたりするよりいいんじゃないか」

 何となく老いを感じた気がして、明日はバターでもつけてみるかなとぼんやり考えながら、トーストを平らげる。いつの間にかテレビは天気予報になっていた。今日は一日中晴れらしい。

「梅干しってまだあったっけ」

「あるよ」

 夏美がキッチンにある冷蔵庫からパック詰めされた梅干しを持ってきた。その内の一つを取ってお茶漬けにのせる。時間が経って少しぬるくなったお茶漬けは、熱いままよりかえって食べやすかった。梅の甘酸っぱさとお茶のさっぱりとした苦味が程よく絡み合う。

「二人とも、今日はどうするんだ?」

「私は特に無し。冬は?」

「私も」

「めずらしいな、二人とも予定が無いなんて」

 思春期真っ只中の二人の娘は、毎週必ずと言っていい程日曜日はどちらかが家を空けていた。もちろん、ちゃんと家事を一通りこなしてからだが。

「暇な時に付き合ってくれる彼氏も居ないしね」

 自嘲気味に夏美がそう言って冬子の方を見ると、冬子は何だか罰が悪いような顔をして

「そっそうだねぇ」

 と苦笑いを浮かべた。アナウンサーが星座占いをやっているのが聞こえる。今日のラッキーアイテムは野球ボールらしい。味噌汁を飲み干し、手を合わせる。

「ごちそうさま」


 テーブルの上を片付けてから、新聞を取りに行った。玄関を出て、柔らかい日の光を全身に浴びながら大きく伸びをする。春がもうじき終わり夏が姿を現しはじめていたが、気温はそんなに高くなく、長袖長ズボンでちょうど良い位の過ごしやすい天気が続いていた。雲一つ無い紺碧の空。頬をそっと撫でる風が気持ち良い。

「おはよう」

 門についた、所々ペンキの剥げた郵便受けから新聞を取り出していると、隣の大山さんが声をかけてきた。そのまま自分の方へ近づいてくる。

「おはようございます」

「今日も良い天気ね。娘さん達は元気にしてる?」

「元気です。今朝なんか長女に叩き起こされましたよ」

「ふふふ。幸せそうで何よりだわ。はい、回覧板」

 胸より少し低い高さのアルミ製の門越しに回覧板を受け取る。

「どうも、ご苦労様です」

「それじゃあね」


 踵を返す大山さんに手を振り家へと戻ると、ちょうど冬子が食器を洗い終わった所だった。テーブルで回覧板に目を通し、チェック欄に印をつけているのを見て冬子が言った。

「回覧板?次は水野さんの所だよね。私が明日学校で愛ちゃんに渡しとこうか?」

「よろしく」

 必要事項を記入して回覧板を渡すと、冬子は自分の部屋へと戻っていった。新聞を読んでいると、洗面所の方から夏美の声が飛んできた。

「洗濯機回すよー。父さん、冬ー。洗い物残ってないー?」

「ちょっと待って、お姉ちゃん!」

 慌てて冬子が廊下を走る音が聞こえる。特に大きな事件もなく、新聞には味気の無い記事ばかりが並んでいた。すぐに読み終わってしまった新聞を畳み、歯磨きをしに洗面所に向かうと、夏美と冬子がいた。口には歯ブラシがくわえられている。

「はい、父さん」

 夏美から歯ブラシと歯磨き粉を受け取る。洗面所の大きめの鏡の中には二人の娘とその後ろに立つ自分のパジャマ姿が写っていた。父親ゆずりの癖の強い髪を短く切り、教師に文句を言われない程度に茶色く染めた長女。母親ゆずりの漆黒の艶やかな髪を背中まで伸ばした次女。三人で並んで立つのは久し振りで、いつのまにか自分の肩の辺りまで達している二人の身長に驚いた。娘達の成長に綻ぶ顔が鏡に写るのを見て慌てて口を閉じる。狭い洗面所の中を何度も入れ替わりながら、順番に口をゆすぎ顔を洗った。冷たい水を浴びてすっかり目が覚めたので、ゴミ捨てに行くことにした。


 両手に中身の詰まった大きなゴミ袋を持って、まだ少し冷たいアスファルトの上を冬子と並んで歩く。履き古したサンダルの乾いた足音が澄んだ空気に鳴り響く。通り過ぎる家々から色々な音が聞こえてくる。食器を洗う音。階段を駆け上がる音。誰かを呼ぶ声。それらの全てが朝の始まりを告げているようだった。ゴミ袋の重さに華奢な身体をふらふらさせながら歩く冬子に歩幅を合わし、道ゆく人に挨拶をしながら歩くと、ゴミ捨て場に着いた。ゴミ袋をその山にのせ、カラス避けの緑のネットをちゃんと被せ直して家へと戻った。


「冬ー。洗濯物お願い」

「はーい」

 玄関のドアを開けるとすぐに夏美の声がリビングの方から飛んできた。洗面所に向かい洗濯機からここ何日かの洗濯物を取り出し、冬子と一緒に茶褐色の木の階段を軋ませながら二階に持って上がる。二人で手分けしてベランダにある洗濯竿にハンガーなんかを掛けて行く。階下から夏美が掃除機をかけているのが聞こえてくる。我が家の掃除機は一昔前のもので、よく吸うかわりに駆動音が馬鹿に大きいのだった。壊れたらすぐ新しいものに買い換えようと思ってはいるのだが、一向に故障する気配はなく、むしろ近頃は買った当初よりも調子が良いように思える。

「布団も干すか」

 三人分の布団を干し、軽くはたいてから下に降りると、夏美も掃除を終えた所だった。二階の掃除はゴミ捨てに行っている間に済ませてしまっていたらしい。

「父さんもコーヒー飲む?」

「ああ、頼む」

 夏美の淹れたコーヒーを受け取り、テーブルにつく。カップに顔を近づけると独特な香りが鼻を優しく刺激した。脳に血流が廻るのを感じる。そのまま一口飲むとコクのある苦味と渋い酸味が口に広がった。冬子がキッチンから持ってきたお菓子をテーブルに広げながら席につく。その内の一つを口に放り込んでいると、自分の分のコーヒーを片手に席につく夏美を見て冬子が言った。

「お姉ちゃん、よくブラックで飲めるね」

「コーヒーに何か入れるのってかっこ悪いでしょ」

「そうかなぁ」

「まぁ、コーヒー飲めない冬に言ってもしょうがないんだけど」

「別に飲めなくたって困らないからいいの」

 そう言って冬子は自分で淹れた紅茶を飲んだ。娘達の他愛ない会話に耳を傾けながら、カカオが多めに入ったチョコレートとともにゆったりとコーヒーを楽しむ。新聞に挟んである広告の中から目ぼしいものをピックアップし終えると、二人はソファに並んで座り、録りためていたドラマを見始めた。自室からノートパソコンを持ってきて、明日からの分の仕事に少し手を付ける。ふと画面から目を離しテレビの方を見ると、最近のドラマはみなそうらしいが、中々破天荒な内容のものを二人は見ていた。ソファにもたれ掛かりながら声を上げて笑う夏美。クッションを抱く冬子もつられて笑う。仕事を満足いくまで進め終わると、時計は十二時十三分を指していた。

「昼ご飯どうする?何か食べたいものあるか?連れて行ってやるぞ」

 ドラマを見終わりソファで雑誌を読む二人に言う。夏美が雑誌を丸め、こめかみに当てて考え込むようにして言った。

「うーん……ラーメン食べたいけど、着替えるのがめんどくさいんだよねぇ。別に午後からどこかに行くわけでもないし」

「ラーメンなら確かうまかっちゃんが残ってるよ」

 冬子が雑誌から目を離さずに言う。

「ホント?ならそれでいこう、父さん」

 そう言ってエプロンをつけ台所に立つ夏美と手分けして昼食を作る。流しの下の棚からうまかっちゃんの袋を取り出し、麺を茹でつつ同時に別の鍋でスープを作る。夏美が適当な大きさに切ったレタスやハムをスープに入れ、軽く煮込んでから、水気をしっかり取った麺を入れて完成。テーブルに三つの大きな碗と麦茶の入ったコップが並ぶ。

「いただきます」

 すぐにリビングからは麺をすする音しかしなくなった。牛丼やカレーなんかを食べる時もそうで、家族全員一度食べるのに夢中になると食べ終わるまで無言になってしまうのだ。大雑把な性格だが、他人が関わることには几帳面な夏美が綺麗に切り揃えたレタスと一緒に麺を食べる。同じインスタントラーメンとはいえ、カップラーメンとは違い少々手間がかかる分こちらの方が美味しい気がした。スープをしっかり飲み干し、手を合わせる。

「ごちそうさま」

 食器洗いを冬子に任せ、歯を磨いてから二階に上がった。最近滑りが悪くなってきた襖を開け、自室に入る。一人で使うには少し広い八畳間。使い勝手の悪さから窓についていた障子を外し、代わりに薄い緑のカーテンをつけているために何となくアンバランスな空気が漂っている。窓を開け放ち、読みかけの小説を手に取り畳に寝転がる。温かい陽の光が部屋の三分の一程の所まで入ってきている。やわらかい風と共に色々な音が部屋を通り抜ける。歌うような小鳥の囀り。子供のはしゃぎ声。車のクラクション。踏切の降りる音。川のせせらぎ。飛行機のジェット音。休日なんてお構いなしに街は今日も慌ただしく廻っているらしい。

 のんびりと小説を読んでいると、開けっ放しの襖からピアノの音が聞こえてきた。どうやら冬子が下で弾いているみたいだ。軽やかで優しく、それでいて大胆な音。メリハリをキッパリつけた躍動感のある演奏。しばらくしてギターの音も聞こえてきた。冬子が弾いているのを聞いて夏美も弾きたくなったのだろう。生前秋恵が溺愛していたエレキギターであるGretsch Country ClubとFender社製のリヴァーブ付きのミニアンプの組み合わせを、夏美は家ではいつも使っている。Fender特有の煌びやかな高域とCountry Clubのホロウボディによる倍音豊かな深みのある低域。ほんの少しだけ歪ませてうっすらとリヴァーブをかけた心地よい音色と、ピアノの透き通るような音色が、互いに互いを引き立て合いながら二人だけの音世界を形作っていく。無限に続く音階を駆け上がり、駆け降りる。歌うように。踊るように。若さ故か、二人とも道を踏み外す時に感じるある種の快感を楽しむように、ともすれば創り上げた調和を台無しにしてしまうような危なっかしいセッションを続けていた。嵐のような激しさをみせたかと思うと、次の瞬間には小川のようなゆるやかな旋律が流れる。わざとリズムを外す。空白すらも世界の一部にしてしまう。娘達の無邪気で大人びた音の波に揺られている内に、意識が遠のいていった。


ー春くんー

ー何だ?ー

 リビングのテーブルに座り、いつものようにコーヒーを飲む自分と向かい合うようにして座った秋恵が声をかけてきた。リビングにあるピアノで夏美と冬子は遊んでいた。まだ足がつかない椅子に並んで座り、幼い小さな手を一生懸命に広げながら楽譜とにらめっこをしている。やや赤みがかったなめらかな髪を肩まで伸ばした端整な顔立ちの妻の方を見る。

ー私さ、パジャマってユニフォームだと思うのー

ー急にどうしたんだ?ー

ーパジャマを着てるとなんだか落ち着いた気分になるの。自分は藤崎家の一員なんだって。自分には安らげる場所がちゃんとあるんだって。だから、パジャマって家族のユニフォームみたいだなってふと思ったのー

ーユニフォームねぇー

ーあっ、今内心小馬鹿にしたでしょー

ーしてないよー

 口を尖らせる秋恵の膝に夏美と冬子が駆け寄ってきた。その手には楽譜が握られている。

ーお母さん!ピアノ教えて!ー

ーいいわよー

 そう言って秋恵は二人に優しくピアノを教え始めた。


 目を開けると自室の天井があった。いつのまにか寝てしまっていたらしい。大きく息を吸い込むと畳の匂いがした。起き上がり、小説を拾い上げ机の上に置いて、壁にかけた時計を見ると一時八分を指しながら針が止まっていた。電池が切れてしまったようだ。軽く伸びをして下に降りる。

 リビングに入ると冬子がテーブルで宿題をしていた。夏美はというと、ソファで仰向けになって口をあんぐり開けながらだらしない格好で昼寝をしている。これで成績は上位の方なのだから不思議だ。そっと夏美にタオルケットをかけてやり、冷蔵庫にある麦茶を飲んで、時計を見ると三時十四分だった。何をするにも微妙な時間だ。キッチンでどうしたものかと考えていると、ホットケーキのパッケージが目に入ったのでホットケーキを作ることにした。

 ボウルに粉と牛乳と卵を入れ混ぜ合わせる。だまが出来ないように丁寧に混ぜた生地を、薄く油をしいたフライパンに広げる。竹串できちんと火が通っているか確認してから、綺麗な円形になった生地をそっと裏返す。子供の頃はあんなに難しく大変だったのに、今ではこんなに簡単に作ることが出来る。だが、大人になってからも子供の時と全く同じ期待と喜びに満ちた思いで作ることが出来るのは、その作り方の単純さゆえなのかもしれない。こんがりと狐色に焼き上がった一枚を皿に移してバターをのせ、ちょうど数学の問題を解き終わったらしく、伸びをする冬子の前に置いた。

「ほら、焼き立てだぞ」

「ありがと」

 すぐにキッチンに戻り二枚目に取り掛かると、甘い匂いに誘われたのか夏美が目を覚まし、冬子が食べているのを見て

「おっ、ホットケーキか。いいね。父さん、私にも一枚お願い」

 と言った。フライパンから目を離さずに

「この前甘いものは控えるとか言ってなかったか?」

 と言うと

「いいのいいの。虎穴に入らずんば虎子を得ずって言うじゃない」

 と返ってきた。夏美の適当極まりない答えに冬子がくすりと笑う。

 焼き上がったホットケーキにバターを多めにのせて夏美に渡し、自分の分に取り掛かる。前の二枚で失敗した所を意識しながら細心の注意を払って焼き上げたホットケーキは、まるでパッケージにのっている写真のものみたいだった。満足げにテーブルにつくと、会心の出来のホットケーキを見て夏美が言った。

「うわぁ、自分の分だけちゃっかり丁寧に作ってるし」

「実験台ご苦労様」

 ホットケーキを食べ終え再び宿題を始めた冬子に、フォークを片手に英語を教える夏美。二人のそんな仲の良い様子を見ながらホットケーキを食べる。ほんのりと心が温まるような甘さ。懐かしい、変わらない味。ゆっくり食べて片付けを済ませると四時半になっていた。

「温泉行こう」

 ソファに寝転がり漫画を読む夏美が言った。パソコンでネットサーフィンをしていた冬子が画面から目を離し、おとがいに細長い人差し指を当てながら答える。

「うーん、いいけどちょっと早いんじゃないかなぁ」

「じゃあ、軽くキャッチボールしてから行こう。それで帰りに晩ご飯の材料買ってくればちょうど良いんじゃない?ね、父さん」

「ああ」

「そうと決まったらさっさと着替えて準備しよう」

 ソファから飛び起きて部屋へと戻る夏美に続いて冬子と自分も部屋へと戻り、朝からずっと着っぱなしだったパジャマから着替えた。バスタオルやシャンプーなんかを、夏美と冬子の分と自分の分とに分けてビニール製の大きな袋に入れる。夏美からセールの時に買った安いグローブを受け取り、ちゃんと財布を持っていることを確認してから家を出た。


 外は涼しい風が吹いていた。車のめったに通らない道路を三人並んで歩く。

「それにしても、三人パジャマを脱したと思ったら、またお揃いの格好とはね」

「ふふ、何だか不思議だね」

 夏美と冬子が笑う。というのも、三人ともTシャツにジャージのズボンという全く同じ組み合わせに着替えていたのだ。せめてもと、夏美がズボンの裾を膝まで捲り上げる。ゆっくり歩いているとほどなくして南公園に着いた。ジャングルジムもブランコも水飲み場すらない、あるのは滑り台だけという小さなこの公園は、当然ながら近所の子供達には人気が無くいつ行っても静かなので、こういう軽い運動をしたい時にはちょうど良い。申し訳程度についた入り口を抜け、三角形を作るように公園一杯に広がる。

「いくよー」

 冬子が夏美に向けてボールを放った。うすくオレンジを帯びた空を背景に、ボールが大きく弧を描いてグローブにおさまる。

「いくよ、父さん」

 夏美が大きく振りかぶって投げた。冬子とは違って勢いのあるボールが緩い放物線を描きながら風を切る。グローブで受け止めると、乾いた心地良い音がした。

「いくぞ」

 肩は入れずに腕の力だけで冬子に優しくボールを投げる。ぎこちない動きで左手のグローブがボールを捕らえた。照れ笑いを浮かべながら冬子が再び夏美に向けてボールを投げる。ふと上を見上げると、一機の飛行機が遥か上空を飛んでいるのが見えた。ボールの感触にも慣れ、テンポよくパスが回り始める。高く、低く。早く、遅く。やがて、順番も滅茶苦茶になってきたところで、夏美がこちらにボールを投げながら遠慮がちに言った。

「父さんはさ、母さんが死んでからまた新しい人と結婚しようとか考えなかったの?」

 ボールと共に飛んできた質問は、グローブにおさまる筈もなく、曖昧な空白を埋めるように冬子にフライを投げる。高く、遠く、空を昇ったボールが一瞬雲と同化し、落下してグローブに吸い込まれるのを確認した後、口を開いた。

「考えなかった、いや、考えられなかった」

「それは……私達のせい?」

 今度は冬子がボールを投げてきた。弱々しさを角度で補ったボールをしっかりとキャッチして、答える。

「違う。全部父さんの意地みたいなもんだ。母さんの娘を育てられるのは自分だけだってな。だから・・・あんまり父さんのことは気にしなくていいんだぞ」

 二人は納得したような、していないような曖昧な表情を浮かべたが、すぐにまた何でもないような話をしながらキャッチボールを続けた。空を堂々と横切っていた飛行機雲はいつのまにか消えて無くなっていた。


 西田温泉は家から歩いて十分程の所にあるこじんまりとした銭湯であり、娘達が小さい頃はよく家族四人でお世話になった。最近代わったのか、馴染みのない若い番台に三人分のお金を渡して暖簾をくぐる。手作り感溢れる微妙に大きさの揃っていない棚は、日曜日の夕方という時間だけあってほとんど埋まっていた。空いている棚から竹かごを取り出し、服を脱いで荷物と一緒に入れて棚に戻す。鍵のついたコインロッカーがあったり、畳じゃなくてフローリングの床の温泉に違和感を覚えるのはここのせいなのかもしれないなとか考えながら、古ぼけたスライドドアを開ける。長方形のお湯の入った浴槽とそれにつながった正方形の水風呂、狭いサウナに十数個の洗い場で成る簡素な浴場には様々な年代の人達が十五人ほどいた。体と髪を丁寧に洗ってお湯に浸かる。自然と吐き出された息とともに体の力がすっと抜ける。

 温泉は小さい頃から好きだった。全く知らない人達が、風呂という一つの空間を満たす空気によって、ほんの何十分というわずかな時間だけれど家族になったような気がする。欠けたタイルや黒ずんだ桶が物語る歴史を誰かと共有し、また、自分もその一部となる。そんな感覚が心を温め、落ち着かせてくれるのが好きだった。小学校低学年位の子がタイルの上を走り、自分より一回り若い父親が慌てて追いかけるのを見て、微笑ましく思っていると、隣にいる五十代の見知った顔の男性が話しかけてきた。

「よう、久しぶりだな、藤崎」

「久しぶりですね、元さん」

「元気してたか……って見りゃ分かるな」

「元さんこそ、元気そうで何よりです」

 元さんが、農作業のために鍛え上げた逞しい腕を見せながら、“おう、生涯現役だからな”と笑う。いくつかの世間話をした後、元さんが神妙な顔つきになって言った。

「実はちょっと心配だったんだぞ。秋恵ちゃんが交通事故で亡くなった時。まだ夏ちゃんが中学生になったばかり、冬ちゃんにいたっては小学四年生だったからな。お前さんも若かったし、正直やっていけるかどうか五分五分だと思ってた」

相槌を打つ自分に、元さんが続ける。

「でも、こうしてちゃんと二人を育て上げた。お前さんは立派な奴だ」

「そんな大層な人間じゃないですよ。今日だって娘達に自分の心配をさせてしまっていたことに気づかされましたし。一人で育てたのだって秋恵への思いに縋っていただけです」

「完璧な親なんてそうそういやしねぇよ。秋恵ちゃんの穴をお前さんだけが埋めようとするな。夏ちゃんも冬ちゃんも大きくなったんだ。これからは三人で秋恵ちゃんの穴を埋めるんだな。支え合うってのも家族の役割の一つ。そのためには芯がしっかりしていなきゃいけないが、お前さんなら大丈夫だろ。意地を押し通したお前さんならな。どんと胸を張ってこれからは生きていけよ」

 そう言って肩を叩き笑う元さんが浴場から出るのを見送った後、五分程ゆっくりと湯に浸かってから風呂から上がった。三人並んで玄関にあるベンチでコーヒー牛乳を飲んでから、西田温泉を後にした。


「あっ、電池買い忘れた」

 買い物をし終わった帰り道の川沿いを歩く途中。茜色燃える夕日が街を真っ赤に染め上げている。川の方へ目をやると、河原で四、五人の子供達が水切りをやっているのが見えた。じっくりと選び抜かれた平らな石が、橙色の水飛沫を煌めかせながら水面を駆る。

「電池って何の電池?」

「時計。昼見たら止まってた」

「あちゃー、そりゃ失敗したね」

 心地良い風を感じながら、そういえば今日のラッキーアイテムは野球ボールだったなとか思いだして歩いていると、人影が一つこちらの方へ近づいてきた。

「おーい、冬ー」

 一人の男の子がそう言いながら向かってくる。十メートル程の所まで来た時、冬子の隣に並ぶ自分と夏美を見て男の子が気まずそうな顔をした。うつむく冬子。男の子が冬子の元へ辿り着いた時、にやにや笑いを浮かべていた夏美が言った。

「冬の彼氏だよ」

 冬子の色白の顔が瞬く間に夕日と同じ色に染め上がる。ばつが悪そうに自分に会釈する男の子に夏美が続ける。

「ほら、二人で先に行きな」

 言われるまま自分と夏美の数メートル先を歩く二人の後姿は、初々しくも落ち着きがあって、相性の良さが感じられた。すぐに冬子の荷物を持ってあげたことからも中々の好青年であるとうかがえる男の子は、いかにも体育会系という逞しい体つきをしていて、同じくいかにも文化系の冬子とのギャップがなんだか可愛らしい。

「来週父さんにも紹介するって言ってたんだけどね」

「冬子に彼氏が出来るとはなぁ」

「そりゃ、出来るでしょ。男うけしそうなスタイルとあの性格だし。この前なんか弁当作ってたよ」

「弁当か。冬子もやるな」

「いつまで続くか楽しみだよ」

 そう言って夏美が悪戯っぽく笑う。

「夏美は拓哉くんと別れてから誰とも付き合ってないのか?」

「ないよ。骨のある奴がいないからしょうがないじゃない。父さんは私くらいの頃に付き合ってる人いたの?」

「そりゃあ、いたさ」

「どんな人?」

「秘密」

「えぇー」

 つまらなそうな顔をする夏美と一緒に歩きながら、果たして今日のような日は、次女には好きな人が出来、長女とは対等に話し、のんびりとした日々を過ごす現在は、まだ若かった自分が思い描いていた未来と、そして秋恵が死んだあの日に望でいた未来と同じなのだろうかと考えていた。そうとも思えるし、そうでないとも思える。時間は川のようにとめどなく流れ、知らない内に娘達が自分と同じように恋をして、夢を見て、大人に近付いていることに驚嘆と一抹の不安を覚えたこの日の夕日も、いつか遠い過去になってしまうのだろうと思いながら、変わらない街並みをぼんやりと眺めつつ家へと帰った。


「そろそろかな」

 夕食のハンバーグを食べ終わり三人でクイズ番組を見ていると、突然ソファ立ち上がった夏美が言った。

「どうしたの?お姉ちゃん」

 不思議そうな顔をする冬子を尻目に夏美が自分の部屋から持って来たのは、一袋の線香花火だった。

「ほら、スリッパ履いて外に出るよ。冬はバケツ、父さんはライター持って来てね」

「そんなのどこで買ってきたんだ?まだ時期じゃないから売ってないだろ?」

「朝、掃除してたら出てきた。まだ使えそうだったからやってみようと思って」

「早くやろうよ」

 そう言いながらバケツを準備する冬子にならって、自分の部屋にある銀のライターをポケットに入れて家を出た。

 外は雲が少ないせいか月の光で明るかった。無限に広がる夜空いっぱいに無数の星屑が散らばっている。今にも消えてしまいそうな瞬き。力強く存在を主張する煌めき。その光達の全てが想像もつかない年月を経て自分の元へと辿り着いている。少し冷たい夜風にあたっていると夏美が急かすように言った。

「父さん、早くライター貸して」

 小さな庭の真ん中でしゃがむ二人の所へ行き、ライターと自分の分の花火を夏美と交換する。

「いくよ」

 頼りないライターの火がぼうっと闇の中に浮かび上がり花火に火をつけた。最初はパチパチと申し訳なさそうに火花を散らすだけだったのが、先端に出来た火球が大きくなるにつれ、確かな広がりと密度を持って勢いよく爆ぜ始めた。細かい光の粒が次から次へと溢れる。

「きれい」

 冬子がその光に目を輝かせながら言った。人生は線香花火みたいなものだと誰かが言っていたような気がするが、それは著名人だったか、はたまた友達だったか。三人とも黙って花火に見入っていると、冬子の火球が落ちた。

「あっ」

 続けて自分、夏美の順に火球が落ちた。戻ってきた闇の中に火薬の匂いが立ち込める。

「じゃあ、一回戦は私の勝ちということで」

「次は負けないからね。お姉ちゃん、ライター貸して」

 慣れないせいか着火に手間取ったが、冬子の手に握られたライターが再び庭を照らす。ほのかに伝わってくる熱が少しくすぐったい。

「いくよ」

 こうして、パジャマを着て、輪になってしゃがんで、季節外れの線香花火に夢中になる三人を見たら秋恵はどうするだろう。ぼんやりと自分の火球を眺めていると、おもむろに冬子が言った。

「母さんがいたら、喜んで私とお姉ちゃんの間に入ってくるだろうね」

「笑いながら、よしっ誰が一番長生きするか勝負だ、とか言ってね」

 ゆったりとした時間を過ごしていると、どうしても過去のことを考えてしまうのは娘達も同じらしい。

「夏美の手を揺らしたりしてな」

「するする。絶対する」

 花火が弾ける音と一緒に笑い声がこだまする。秋恵はどんな時でも笑顔を絶やさなかった。手先が器用で、回りくどいことが苦手で、気が回り過ぎて、誰よりも自分が、家族が楽しいということを大切にしていた。そんな秋恵の面影は確かに夏美に、冬子に、そして自分にも受け継がれているような気がした。

「あっと。二回戦は冬の勝ちかぁ」

 三人ともほぼ同時だったが、冬子の火球が落ちるのが僅かに遅かったのを見て夏美が言った。

「じゃあ、次は父さんが勝つかな」

「それはどうだろうね」

「あっ、父さん!私の揺らさないでよ!」

 宙に浮かぶ三つの火球は競い合うように輝いていた。


 線香花火を片付け、結局同点で引き分けに終わった勝負の決着を花札でつけた時には、十二時を回っていた。慌てて歯磨きを済ませ、全員でベランダから布団を取り込んでいる時、夏美が言った。

「そうだ、久しぶりに父さんの部屋で皆寝ようよ」

「おっ、いいね」

「お前達なぁ、下に布団持っていくのが面倒なだけだろう?」

「いいじゃない、花札で勝った冬がいいって言ってるんだからさ」

 そう言って布団を敷く夏美の横に自分、その横に冬子という順で布団を並べる。冬子が電気を消した。こうやって川の字になって寝るのは何年振りだろうか。そんなことをぼんやり考えていると、右の方から夏美の声が聞こえてきた。

「父さん」

「何だ」

「父さんが私達に望むことってないの?」

「それ、私も聞きたい」

 今度は左の方から。暗闇の中で二人の視線を両側から感じながら答える。

「そうだなぁ……パジャマがユニフォームだと思えるような家族を作ることかな」

「はぁ?」

「何それ」

「温泉行ったり、花火やったり、花札したり出来る家族を作れってことだよ」

 そう言って、秋恵が残してくれた今の温かさを確かめるように両手で娘達の頭をそっと撫でた。

「将来何になって欲しいとかないの?」

「ないな。ま、父さんと母さんの子なんだから大丈夫だろ」

「要するに丸投げってこと?」

「そう言われたら何も返せないな」

「いかにも父さんらしいや。じゃ、おやすみなさい」

「おやすみー」

「おやすみなさい」

 明日、仕事帰りに電池を買ってこないとなと、頭の片隅で考えながら、春の日差しをいっぱいに吸い込んで柔らかくなった布団に身を預け、瞼を閉じた。

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