おせっかい

和田一郎

おせっかい

 世間の耳目を集めている世界タイトルマッチ戦は、やがてアリーナを満席にするだろう。が、まだ客席はまばらで、この日のために新幹線でわざわざ東京に出てきた亜希子は、メインイベントに先立って行われる亮太の試合が始まるのを固唾を飲んで待っていた。

 ひとり息子の亮太はプロテストに合格して、3試合目。2試合とも判定負けを喫しており、この試合に背水の陣で臨んでいた。

 手を焼かされたあげく、やっと亮太が自分で選んだ道だ。大成して欲しい。だが、勝とうが負けようが、試合が安全に済んでくれさえすればいい、そんな思いも強い。ボクサーのつけるグローブは殴る相手の顔を守るのではなく、自らの拳を守るためのものだと、どこかで聞いたことがある。たしかに、2試合のあと、亮太の顔は腫れ上がった上に、いくつも深い傷が刻まれていた。

 リングサイドのチケットは2万円もした。往復の交通費とホテル代を足せば、今の亜希子にとっては、痛い出費だ。亮太が試合を見に来ることを拒んだので、自分でリングサイドのチケットをとらざるをえなかった。

 世界チャンピオンの名前を書いた大きな旗が、何枚も観客席にかけられている。チケットを買うまで、亜希子はその名前を知らなかった。一方、アリーナをまもなく満員にする人たちはほとんど誰も、チャンピオンの名前は知っているが、亮太の名前を知りもしないのである。


 座席を立って洗面所に向かおうとアリーナの出口に歩き始めた時、向こうからどこか馴染みのある顔をしたスーツ姿の男性が歩いてきたことに気づいた。

 近づくにつれて、はっきり見えてきたその風貌が、亜希子の記憶の奥に遡ってひとりの像とぴたりと一致した。 

 祐介だ。

 きれいに分けられ整えられた髪にはかなり白髪が混じっており、顔に増えた皺とあいまって、さすがに二十数年の年月を感じさせたが、時は祐介の姿を予想しうる程度に変えただけであった。

 高校時代、付き合っていた。別々の大学に行ってからは疎遠となり、やがて別れた。それ以来、二十数年会っていない。

 亜希子の胸は懐かしさでいっぱいになった。一緒にいてドキドキするようなことはないが、嘘をつけない実直な性格で、そばにいてくれたときのそっと包まれるような暖かい気分を思い出した。

 自分は歳をとっただろうか。あの頃のように、まだ、魅力的に見えるだろうか?

 振った相手だ。話しかけてもいいだろうか。あの時のことを、まだ怒っているだろうか?

 そんなことに頭を巡らせていると、祐介が先に声をかけた。

「アキコ?」

「祐介? 変わってないわ」

「君だって!」

 そんなはずはない。時の流れは男には手心を加え、女には峻烈である。高校時代と変わらない自分がいるはずがない。幸い祐介の視線には変化をトレースしようというような意図は感じられない。高校の頃、たった三日会えないでいた後に、顔を合わせた時の、ほかに欲しいものは何もないとでもいうような喜びに輝くばかりの表情をしていた。

―――こんな笑顔を向けられたのは、いつ以来だろう?

 亜希子の心配は吹き飛び、懐かしさが胸いっぱいに膨らんだ。

「ボクシングなんて、趣味だっけ?」

「ううん、見なくすむなら見たくない。でも、息子が出るの」

「え?」

「前座のふたつ目の試合、息子が出るのよ。プロになって3戦目」

「そうなんだ。楽しみだな」

「ええ・・・でも、現在、ゼロ勝2敗。今日も無事で終わってくれたら、それでいいわ。あなたこそ、ボクシングなんて趣味だっけ?」

 祐介は少し考えてから言った。

「いろいろとお付き合いもあってね。まあ、チャンピオンの木村さんのファンだから、いいんだけど」

「今、何してるの?」 

「万年、4回戦ボーイってとこかな」

「どういう意味?」

「たいしたことはしてないってことさ」


 リング上が騒がしくなった。

 リングアナウンサーの言葉で、第一試合の四回戦が始まることがわかった。だが、場内の観客は少なくざわついたままで、リングの周囲に緊張はない。

「じゃあ」

 後ろ髪をひかれるような思いで亜希子は別れを告げた。

 席に戻る。ちょうど亜希子の右手の方にパイプ椅子を置かない入退場路が切られていて、若いボクサーが入場していくのが見えた。その手前に、祐介が座っている。隣のジャケットを着た若い男性と話をしていた。亜希子がふたりを認めた時、祐介の方でも亜希子を見た。隣りの若い男性も、自分の方を見ていた。亜希子と目があった時、目をそらさずににこりと笑ったので、祐介とその男性は自分のことを話しているに違いにないと思った。


 第一試合、若いふたりのボクサーは四ラウンドを戦い抜いた。一回づつダウンし、ふたりとも顔を腫らし血で染めた。闘争心も技量も拮抗しているように見えたが、僅差によるジャッジで勝者と敗者に別れた。一度ついた負けの戦績は、一生消えない。一回一回の勝敗が彼等ボクサーの運命を決める。

 亜希子の心臓が高鳴る。いよいよ、亮太の番だ。

 ふたりがリングを降りてアリーナから退場していった後、リングアナウンサーが第二試合の始まりを告げた。 

「赤コーナー、花吹亮太、21才、山根ジム所属、戦績は、ゼロ勝二敗」

 亜希子は立ち上がり、花道のほうに向かった。鉄のパーテーションで仕切られた向こうが花道である。が、そばにはいかず、途中で立ち止まった。ちょうど亮太が思いつめた表情で歩いてきた。

――― 亮太!

 つい、声が出た。小さな声だ、亮太には届くまい。亮太は試合を見に来るなと言ったのだ。今、母の姿を見せて息子の気持ちを動揺させたくない。亮太はまっすぐに前を向いて、すたすたと歩いてリングに達し、ロープをまたいで四角に区切られた白い戦場に入った。


「亮太くん、いい身体してるね。大丈夫、勝つよ」

 亜希子が振り向くと、祐介が立っていた。入退場路と亜希子の席の間に、祐介の席があった。柵に駆け寄ったので、自然と祐介の席のそばに近づいていた。祐介が立ち上がって後ろを振り向いたちょうどその場に、亜希子は立っていたのだ。

「でも、あの子は優しいから・・・」

「面構えもいいと思うよ」

「大きな怪我をしないかと、怖くて・・・」

「大丈夫だよ、プロボクシングじゃ、そんなに事故は起きないよ・・・今日の応援は、ひとり?」

 亜希子はつい弱音を吐いてしまったことを後悔した。たしかに、たったひとりでリングサイドに来ている。離婚した前の夫も会場に来ているかもしれないが、どこにいるのかもわからない。

「ええ、主人、あいかわらず、忙しいので・・・」

 嘘をついた。

「そういえば、ご主人、テレビで見かけたよ」

 その時、祐介の横に座っていた若い男性が立ち上がって亜希子に言った。

「よかったら、席、僕と変わりましょうか?」

 ジャニーズに所属していると言ってもすんなり通りそうな端正な顔をした青年。満面の笑み。なめらかに光る黒の革のジャケットを着て、ボタンホールにユニオンジャックのビーズのバッチをしていた。

「いえ、そんな」

「ご主人さんに叱られますか?」

 亜希子は首を振った。

「なら、誰かに解説してもらったほうが、安心できるんじゃないですか。たまたま今日は、僕が連れて来てもらったんですけど、社長だって―――」

 青年は祐介の顔を見てニヤリとすると続けた。

「ほんとうは、僕なんかじゃなく、誰か女性と一緒に来るつもりだったのかもしれないし」

 祐介の表情に一瞬影がさした。

 青年はふたりの返事を待たず、亜希子に席の番号を尋ねた。

 席の番号を答え、続いて、つい詮索が口から出た。

「さっき、万年四回戦ボーイだって ―――」一瞬祐介を見て、また青年に向き直り言った。「祐介さんって、社長さんなんですか?」

「あれ、ご存知なかったですか? 規模のわりに知名度の低い、めちゃくちゃ地味な会社だからなあ。そういう業界だから仕方ないけど。でも、社員の手前え、会社も、経営者としての社長個人も、もうちょっと、パブリシティはがんばってくださいよね。社長」

 祐介は苦笑いを浮かべた。

 革のジャケットを着た若者は、さっさと亜希子が座っていた席に歩いていった。 

 亜希子はいったん若者の後をついて自席に戻り、置いてたコートを取り礼を言って祐介の横の席に戻った。

「ごめんね、迷惑かもしれないけど・・・ちょっと、怖くて。亮太の試合が終わったら席に帰るから。でも、祐介さんの奥様に叱られないかしら」

「僕はバツイチでひとりものだから、怒る人はいないよ」

―――あら、私と同じ。

 亜希子は危うく口から漏れそうになった言葉を飲み込んだ。

 でも、ほんとうは、誰か一緒に来たいいい人がいたんだ。都合がつかなくて、部下のあの青年を連れてきたけど・・・

 亜希子の想像は自然とそこまで進んだ。


 試合は静かに始まった。

 亮太は身体のわりには大きすぎると思えるようなグローブで、相手を的確に捉えていった。時々、ジャブやボディが相手にヒットした。

 だが、相手は顔を腫らしながらも、前へ前へと出てくる。

「亮太くんは、テクニシャンだな。ご主人さんの血をひいてるな」

「ええ、テクニックでは認められてるみたい。でも、闘争心が薄いって・・・」

「それはどうかな。外野はみんなそういうレッテルを貼りたがるんだ。君のような母と、立派なアスリートのご主人さんの間に生まれて、大切に育てられた亮太くんだ。ハングリーじゃないって、誰でも言いたくなるよ。人間は変わっていくから、そういうことも、これからだよ」

 祐介を夫としていたら、自分の人生はどうだっただろう、亜希子はそう考えずにはいられなかった。

 元オリンピック選手だった夫は、解説者としてマスコミに出ることはあっても、ちゃんとした仕事にはついていなかった。一年契約の講師や短期のコーチの契約などで、なんとか仕事はつないできたが、どうやらプライドが邪魔するらしく、いただいた仕事はいずれも長続きしなかった。社会的にうまくいかないストレスからか、家でも荒れて、ときには亜希子に手を挙げることもあった。

 祐介は地味な業界の会社で、社長をやっているらしい。きっと、真面目な性格で努力を続け、出世したのだろう。あの時別れて以降、祐介がどんな人生を歩んだのか聞いてみたいが、それはいかにも無遠慮であったし、聞くべきタイミングでもない。

 目前では息子の亮太が、人生を賭けて戦っているのである。

 それにしても、自分と同じ年頃で、経営者で、独身である祐介が、気にならないはずがない。

 離婚したと言うが、柔和に見えても、別れた夫のように家庭内では別の顔があるのだろうか。

 私は、名声に目がくらんで夫選びを間違えた大馬鹿者なのだろうか。そう思いたくはなかった。だが、たったいま、こうしてリングサイドに並んで腰を降ろしていると、その肩にもたれて頭を預けていたい相手は、別れた夫ではなく、ずっとずっと、祐介であったような気がしてくるのだった。

 亜希子は自分の机がもらえる仕事が欲しかった。

 離婚が決定的になる以前から、さまざまな仕事をしてきたが、子育てのためにスチュワーデスを辞めてからは、いずれも秘書的な仕事で、今の仕事もまもなく契約の一年間が終わる。別れた夫の養育費の仕送りはとぎれとぎれで、まったくアテにならない。何がなんでも次の仕事をみつけて、自分で食べていかなければならない。亮太は自分がチャンピオンになって、楽にしてやるからと言うが、その道はまだまだ遠い。

 祐介に頼めば、良い仕事を紹介してくれるかもしれない。しかし、そのためには、自分が離婚して生活が苦しいことを告白しなければならない。

 リングの上では、ほとんどの無関心な聴衆を前に、人生を賭けたふたりの戦いが続いていた。

 光のなかで浮かび上がっている彼等の戦いはまるで映画か演劇のようで、亜希子がいる客席からだと現実感が感じられない。だが、まばゆいばかりのライトの中で、汗や唾や血が輝く光の玉ととなって飛び散るたびに、それぞれのパンチが相手に炸裂して弾けていることがリアルにわかる。

 そして、一発のパンチが、祐介に巡らせていた亜希子の思いを吹き飛ばした。

 ジャブやボディをくらいながらも前進していた相手の大ぶりの右ストレートが、亮太の顎に入ったのだ。

 亮太は一瞬ぐらついて、なにごとかと思い、ふときついパンチをもらったことを思い出したかのように、つんのめって倒れた。

 亜希子は口を押さえて立ち上がった。

 カウント途中で亮太は立ち上がり、あわや10カウントというところで、ジャッジに向かってファイティングポーズをとった。だが、足がふらついていた。試合はそのまま続行された。相手はここぞとばかりに突進し、正確とは言えないパンチを繰り出した。それまで足をつかってかわしていた亮太だが、軽快さは完全に失われ、ずるずると下がってロープに追い詰められた。

 ガードの下からフックを突き上げられてのけぞり、そこで万事休すかと思われた時、3ラウンド終了のゴングが鳴った。

 辛くもノックアウト負けは逃れた。

 だが、コーナーに帰ってきて椅子に座った亮太の表情には闘志が抜けたように見えた。

 最終ラウンド開始のゴングはすぐに鳴り、亮太はリングの中央に出て行った。

 しかし、すでに試合の趨勢は決していた。最終ラウンド、亮太はまたいくつかのパンチをもらい、ロープを背に耐えているばかりであった。

 またしても判定負けであった。

 まばらな拍手に送られて亮太のうなだれた背中がアリーナの出口から消えた。

「ごめんね、邪魔して」

 亜希子は隣で立ち上がって自分と一緒に大きな拍手を贈ってくれた祐介に言った。

「控室に行ってくるわ。あとの試合は見ないかもしれないから、あの方、席に戻ってもらってね」

「亮太くんは残念だったけど、君としばらくでも並んで座っていれるなんて、夢みたいだったよ」

「上手になったのね」

「いや、ほんとだよ。ありがとう。亮太くん、落ち込んでいなけりゃいいけど」

 祐介は右手を出した。

 亜希子はちょっと躊躇してから、その手を握った。それは暖かな大きな手で、心まで優しく包まれたような気がした。

「じゃあ、行くわね」

 亜希子は祐介を残して、アリーナの出口に向かった。


 控室に来るのははじめてだった。 

 亮太はベンチに腰をおろし、テーピングをほどいた両の拳に視線を落としていた。

「亮太!」

 亮太は赤く腫れあがった顔を上げて亜希子を見た。

 そして、控室に響き渡る怒声をあげた。

「なんだよ、来るなって言ったろ!」

 亜希子は一瞬怯んだ。だが、歩みをすすめて亮太のそばまで来ると、亮太の隣に腰を下ろした。

 汗と血と涙。戦いの匂いが、敗戦の匂いが、鼻をついた。

「教育ママみたいなのくっついてるから、闘争心が足りない甘ちゃんだとか言われるんだよ」 

 亮太の声は低く沈んだ。

「いいじゃないの、言わせとけば。私には亮太しかいないんだし。それに、私たち、充分、ハングリーだわ」

「オレ、ボクシング辞めるよ」

「なぜよ! まだ、たった三戦じゃない」

「向いてないよ」

「そんなこと、まだわからないわよ」

「今日、アイツの目を見て、はっきりわかったんだよ。アイツ、あんなに下手くそなのに、目が違うんだよ。殺してやる、みたいな目をしてるんだよ。打っても、打っても、目の殺気が消えるどころか、もっと強くなるんだ。あの目に睨まれると、オレは目を逸らしたくなるんだよ。オレにはあんな目をするのは無理だ。やっぱり、オレにはボクシングは向いてないよ。父ちゃんみたいに、言われるままに水泳でもやってればよかったんだ・・・そしたら、今頃・・・」

 亜希子は否定の言葉が浮かばなかった。

 たしかに、そうかもしれなかった。夫の運動神経を受け継いでいるのだから、ボクシングほどの闘争心を必要としない競技なら、もっと簡単に上を狙えたかもしれない。ただ、亮太は夫や自分に反発して、用意された道やお仕着せの衣を破りたくて、あえてボクシングを選んだのだ。

 亮太が亜希子に見せた、はじめての敗北宣言であった。

 そうかもしれない。そうだとしたら、亮太は、新たな自分の道を、自分で切り開いていかなければならない。自分の弱みも、失敗も、すべて人前に晒し、それを踏み越えていかなければならないのだ。

「ボクシングのことは、私にはわからない。辞めるにしても、続けるにしても、ゆっくりと考えて結論を出しなよ。今、決めなくていいよ」

「ああ・・・とにかく、もう、ひとりにしておいてくれよ。頼むから」

 亜希子は立ち上がった。

「じゃあ、行くわね」

 過酷な現実を受け入れるときは、人間はいつも孤独だ。誰かが寄り添える時もあるし、母でも寄り添えない時がある。亜希子にはそれがわかっていた。

 亮太の肩に軽く手を触れると、亜希子は控室から出た。


 亜希子はアリーナの通路に出ると、廊下にあるベンチに腰をおろし、頭を壁にもたれかけた。

 アリーナの中から、大きな声援が聞こえてくる。メインイベントの世界タイトルマッチが行われているのであろう。

 亜希子は祐介と付き合っていた日々を思い出していた。

 高校二年、三年の間の、二年間付き合った。うぶなふたりは、キスさえ交わしたことがなかった。ただ、会える時間をつくっては、一緒にいた。それだけで充分であった。

 ふたりで行ったハイキングで、一面、銀のススキの穂に覆われた丘を、じっと眺めていたことがあった。三角座りをした亜希子を、後ろから祐介が抱きかかえるように座った。亜希子は背を祐介の背中に預けた。それだけだった。それで、充分であった。

 別々の大学に行ってから、色々な男たちとと出会った。夢かなってスチュワーデスになった時、水泳のオリンピックの日本代表選手である夫を友達に紹介されて、恋に落ちた。彼は、祐介とはまったく違う光を放っていて眩しかった。

 こんなところで、こんな境遇で、また祐介と巡り合うなどとは、思いもしなかった。

――― そうだ、やっぱり、祐介にすべてを話してみよう。いまの亮太みたいに、ありのままの自分を受け入れて、祐介にも見せるのだ。

――― いや、やっぱり、だめだ。今の自分は、祐介が成功していて頼れそうだから、近づこうとしている。自分から振っておいて、いまになって、祐介にすがっていくなんて。

――― でも、待って。これは男と女の話じゃない。就職先を提供してくれるかもしれない旧友がいるのだ。すがってみて悪いことがあろうか。生きていくのは、誰にだって、たいへんなことだ。お互い助け合うのは当然のことだ。。

――― でも、正直に話して、あっさりと断られたりスルーされたら、どれほど惨めになるだろう。自分と別れた後、祐介が長い期間、悲しんでいたという話を友達から聞いたことがある。その時の報復とばかりに自分を叩きのめすかもしれない。


 決断がつかなかった。

 声援やどよめき、リングアナウンス、入場の音楽などが何回か繰り返された。

 ふと気がつくと、アリーナの扉から出てくる人が増え、やがて波となった。

 試合がすべて終わったのだ。 

 もう、迷っている時間はない。地味な業界だと若い男は言っていた。高校の同窓会にも祐介は出てこないし、連絡先不明のリストに入っている。いま、別れて連絡先を聞かずに東京を去ったら、二度と会えないだろう。  

 亜希子は決然と立ち上がって、人波と反対にアリーナの扉に向かって歩き出した。

だんだん出てくる人が増えた。押し戻されそうになりながら、その人波をかき分けるようにして進む。

 ようやくふたりの席が見えるところまで来たと思ったら、すでにふたりの姿はなかった。

 周囲を見渡すが、ふたりはいない。

 亜希子は二人をみつけようと、今度は人の波の流れる方向に身体を投げ入れた。人波に運ばれて、別の出口へ向かう。

 遠くにちらりと二人が見えたような気がした。人の波をかきわけ追い越して、先へ先へと進む。亜希子の切羽詰まった表情に、道を開けるものもいるし、嫌な顔をして舌打ちするものもいる。かまっている暇はない。

 廊下に出た人波は、アリーナを周回する廊下の別の人波と合流して、さらに人の密度を増した大波となり、亜希子の身体を押し流した。

 亜希子は焦って前に前にと進んだ。出口までに、あるいは建物から出た直後に追いつけば、まだ合流できる可能性がある。

 亜希子が外に出た時、夜の帳はすっかり降りて、雲のない夜空には満月が輝いていた。亜希子は正面入口と道路とつなぐ広い階段を走るように降りた。

 ふたりはいったいどちらへ行ってしまったのか。

 道路へ出てタクシーを拾うつもりか?

 亜希子は道路に出て、駆ける早足で歩いた。

 が、ふたりの姿はみつからない。

 あちらこちらでタクシーがとめられ、二人、三人と乗り込んでいく。

 ああ、もうタクシーに乗ってしまったかもしれない。

 絶望を感じて、亜希子はさらに足を早めた。

 その時に道路の反対車線の遠くに、あの青年が見えた。

 黒塗りのベンツのセダンが近づいて止まった。そして、その運転席あたりのドアが向こうに開いて、祐介が降り立つのが見えた。あの青年は、自分で後部座席の扉を開いて、後部座席に乗り込んだ。祐介がその扉を外から閉めた。そして、自らも運転席に戻り、ドアを閉めた。

―――祐介!

 大声を張り上げようとした亜希子を、ふたりのその姿が発する違和感が引き止めた。

――― えっ?

 社長がベンツの運転席に座り、雇われたものがその後部座席に座るはずがない。

 祐介がスーツを着て、あの青年が革のジャケットを着ていたということは、祐介にとっては仕事であり、あの青年にとってはオフの時間だったということではないのか。

 亜希子は、すべてを合点した。

 「社長」は、あの青年のほうなのだ。そして、祐介は、彼の運転手。あるいは、総務などを担当する社員なのかもしれない。たしかに、祐介は自分のことを「万年四回戦ボーイ」と言ったではないか。どういう経緯だったのか、祐介は自分との関係を尋ねられて、私との過去の話をしたに違いない。あの青年は、祐介の若い雇用主は、行きずりの再会を面白がって、祐介に花をもたせようとして、立場を入れ替えた演技をしたのだ。

 いらぬおせっかいであった。

 祐介がただの運転手でも構わなかった。

 いや、そうなら、いっその事、話は簡単であった。余計なこと、打算的なことを考えずに、さっさと祐介の胸に飛び込むことだってできたのだ。

 亜希子ははっきりとわかった。

 自分は、今も祐介のぬくもりこそが、欲しいのだ、と。

 亜希子は車に向かって走りだし、大きな声を上げた。

「祐介!」

 だが、亜希子の声は届かなかった。

 祐介の運転するベンツは、夜の闇の中にその赤いテールランプを小さく小さく滲ませていき、やがて見えなくなった。

 夜空で大きな月が顔のあばたを見せて笑った。 


 ベンツの後部座席から、若い社長が運転席の祐介に言った、

「あの人、若い頃は随分、綺麗だったんでしょ。切ないね」 

「ええ。今でも充分・・・」 

「いらぬおせっかいだったかな?」

「いえ、助かりました。おかげで、夢のような時間を過ごすことができました。ありがとうございます」

 そう答えたものの、ルームミラーに映る若い経営者、自分を世界チャンピオンに投影している若い男に、祐介は心のなかで呟いていた。

――― 余計なことをするなあ。

 だが、そのおせっかいな芝居を笑い飛ばして本当のことを言うチャンスは、ずっと自分の手中にあったのである。

「連絡先とか、聞けたの?」

「いいえ」

「なんだ。結婚しているって言っても、夫婦関係なんて、どんな状態かわからないのに。僕だったら、絶対に、聞くな」

 たしかに、亜希子は寂しそうに見えた。

 なぜ、そうしなかったのだろうか。自分は今、そうしなかったことを後悔しているだろうか。

 そして、やっとその理由がわかった。 

 祐介が口に出した言葉は、自分に言い聞かせるようでもあった。

「人生には、汚れた手で取り出さないほうがよい、たいせつな宝物もあるんですよ」

 それがあるからどんなことがあっても、かろうじて生きていけるのだ、と。

 祐介はアクセルを踏み込んだ。

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おせっかい 和田一郎 @ichirowada

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