夢野言乃葉

 夜。コートの隙間から入ってくる冷たい風が、酒で火照った体を冷ます。少し飲みすぎたせいかおぼつかない足取りで、街の街灯から逃げるように、あてもなく歩き回り、着いたのは小さな川だった。川沿いについたガードレールに手をつきながらぼんやりと下を眺めると、水面に写る月が歪み、とめどなく揺れているのが見えた。足元に落ちていた小石を拾い放り投げると、乾いた音がして、不規則に波打つ水面に月が散らばった。十二時をとうに過ぎた街は、表面的には死んだように静まり返っていて、川のせせらぎと蛙の鳴き声以外には何も聞こえてこない。

“飛び降りてみようか”

 そんな声が心の奥底から聞こえてきた気がした。聞いたことがあるような、無いような、ぞっとするほど自分と似た声。

“やめとくわ。落ちても死ねるわけじゃないし”

 そう返し、瞼を閉じる。下らない自問自答を繰り返しながら、酔いが回った頭を少しずつ醒ましていると、横の方から複数の足音と男の怒鳴り声が聞こえてきた。気にせず川の方を向いていると、真っ直ぐ足音が近づいてくる。さすがに落ち着かなくなり、何事かと横を見た瞬間

「うわぁ」

 袖のないローブみたいなものを着た女がぶつかってきた。回る視界の中で、混乱する頭が考えたのは、こんな真冬に細い腕を出して寒くないのだろうかという、どうでもよい疑問だった。仰向けに倒れる私に女が近づいてくる。

「大丈夫?」

 はっきりとして透き通るような、でも色の無い声。文句のひとつでも言おうとしたが、肩の痛みに気付き、中々言葉にならない。どうやら倒れた時に強く打ってしまったらしい。

「しまったな」

 後ろの様子を気にしながら、さして悪びれる様子もなく女が言った。見ると、数人の男達がこちらに向かって走ってきている。女は男達から逃げ回っている最中に、私とぶつかったようだ。冴えない頭で状況を理解しつつある私の顔を見た時、フードの奥で女は一瞬不意を突かれたように目を少し見開いた後、こぼれてくる笑みを隠すような顔をして

「ちょっと失礼」

 と言って、私を抱き上げた。突然お姫様抱っこされ慌てる私を気にもとめないで、女は走り出した。その速さに驚きながらも、振り落とされないように私は女にしがみつく。すぐそこまで迫っていた男達が少しずつ遠ざかっていく。女が唄を口ずさみ始めた。どこかで耳にしたことがあるような英語の唄。私が段々と落ち着いてきて、頬をなでる風が心地良く感じられるようになった頃、女は川沿いから街の中へと入った。怪しげな色のネオンが次々と視界の端から端へと移動していく。めまぐるしく変化する景色から逃げるように上を見上げると、先刻粉々にした月が、はっきりとした輪郭を持って、赤みを帯びた薄気味悪い光を放っていた。

「もう大丈夫かな」

 そう言いながら女が私を下ろしたのは、いつも私が通勤に使っている駅の前だった。周りを見回すと、年配のホームレスがニ、三人いた。

「それじゃ、また明日」

「えっ!ちょっと待ってよ!」

 私の言葉に悪戯っぽい笑みを返すだけで、何も言わずに女は街の中へと消えていった。残された私はすっかり酔いが醒めてしまったにもかかわらず、夢見心地で自分のアパートへと帰った。




「うーん」

 布団から手だけを伸ばして、けたたましく鳴り響く目覚ましのベルを止める。この作業をするのはもう五回目で、いい加減五分おきに起こされるのにも飽きた私は、毛布を被りながら立ち上がり、外装がほとんど剥げてしまっている古い石油ストーブをつけた。生暖かい空気がボロアパートの一室に充満し始めた頃、ストーブの上にヤカンを載せる。朝ごはんのカップラーメンのふたを開けて、窓の外を見ると、吸い込まれてしまいそうな程深い青空に、薄い雲が申し訳なさそうに浮かんでいた。

 三日前、父がこの部屋に上がりこんできた。十八になって家を出て以来、実に七年振りとなる父との再会は最悪だった。チャイムを鳴らし、郵便配達のフリをして私に鍵を開けさせ、強引に中に入った父が最初に発した言葉は“金を出せ”だった。助けを呼ぼうとする私の口を慣れた手つきでふさぎ、母と離婚してからずっとそうしてきたように腹を一発殴り、呻く私に向かって“しゃべったら殺す”と言って、父は部屋を漁った。もしものために部屋に保管してあった相当な額の貯金と、他に金になりそうなものを取ると、父は“十日後ぐらいに借金で金を作らせるから覚悟しとけよ。誰かに言ったらすぐに殺してやるからな”と言い放ち、帰って行った。久しぶりに受けた暴力で蘇った、心と身体に深く刻まれた恐怖によって、私はただうずくまることしかできなかった。

 ヤカンが耳障りな音を立ててお湯が沸いたことを告げた。カップの内側についている線よりも少し下までお湯を注ぐ。フタを閉め、携帯で時間を確認してからテレビをつけると、日曜の朝だからなのかどのテレビ局も下らない番組しか放送していなかった。きっかり三分待って、味の濃いラーメンをすすりながら、今日はどうしようかと考える。同僚から誘いのメールがきてはいたが、とても行く気にはなれなかった。他人に相談するには、必然的に生じるであろう相手の好奇心を受け入れられる程の余裕を取り戻せてはいないし、普段通りに意味の無い会話を楽しむのも面倒だった。とりあえず、部屋の掃除や洗濯をやろうと決め、私はラーメンのスープを飲み干した。

 一通り家事を終えた十一時頃、突然携帯が鳴った。慌てて画面を見ると公衆電話からだった。いつもなら知らない番号は無視するのだが、昨日の女の言葉が気にかかり、私は通話ボタンを押した。

「やっほー。元気してた?怪我は大丈夫?」

 声の主は予想していた通りだった。

「何で私の番号を知っているの?」

「そういうことも全部説明してあげるからさ、どう?ちょっと一緒に昼ごはん食べない?」

 私は得体の知れない女との会話に、不思議と動揺していない自分に驚きながら答えた。

「どこで?」

「どこでも好きなところでいいよ。代金は私が持ってあげる。出るのが面倒なら君の部屋まで行ってあげてもいい」

「じゃあ十二時にフィラッテで」

「わかった。それじゃ先に行って待ってるよ、横井里見さん」

 電話が切れた後、しばらく私は女について考えを巡らせた。電話番号をはじめ、私の名前、住所まで知っていることを会話の中で明かしていき、間接的に脅すような話し方。大人一人を軽々と持ち上げて走り回れる身体能力。少なくとも普通の人間ではない。ひとしきり女の正体を考えた後、時間になったので急いで準備をして、私はアパートを出た。恐怖と不安と少しばかりの好奇心を抱えて。




 フィラッテは街の中心部からやや離れた所にある、古いカフェだ。知っている人の少ない隠れた名店で、いつ行っても店内は静かで落ち着いた雰囲気が漂っている。大通りから脇道にそれ、入り組んだ路地を五分程歩くと、店に着いた。入り口で煙草をふかす女に駆け寄る。

「ちゃんと来たみたいだね」

 煙草を地面に放り、底のしっかりした頑丈そうな黒のローファーで潰しながら女が言った。昨日と同じ袖のない漆黒のローブのようなものの下に、同じく黒のシャツを着て、灰色のズボンを穿いている。肩や腕は陽の光に透けるように白く、フードの奥にある顔はよく見えない。それにしても寒くないのだろうか。

「あなたはいったい何者なの?」

「とりあえず入ろうか」

 そう言って店のスイングドアを開ける女に続いて中に入った。広くも狭くも無い店内では、数人の客がテーブルに座ってめいめい食事を楽しんでいた。二階には誰もいないことを確認して、私達は窓際の席についた。女がフードを脱いだ時、私は思わず目を瞠ってしまった。というのも、女の髪が綺麗な薄い桃色だったからだ。

「びっくりした?」

 女が、耳が隠れるぐらいの長さの、所々はねた自分の髪を触りながら言った。年は二十前後に見える。淡い紫色の瞳には刃物のような鋭さが宿っている。髪の色と白い肌が妙に合っていて、違和感があまり生じていないのを不思議に思いながら私は訊ねた。

「その……あなたは何者なの?」

「名前はユナ=エルフォード。職業は殺し屋。あっ、よく間違われるんだけど、別に変な色に髪を染めた日本人じゃないよ。職業柄日本語が上手いってだけで……日本語だけじゃないけど。名前だって通り名とかじゃなくて本名だし」

「じゃあ、私に何の用が……」

「君を殺しに来た」

 無機質な声。空気が凍る。私が何も言えないでいると、ユナは

「冗談だよ。でも、話を続けるより先にやることがあるんじゃない?」

 と笑いながらメニューを渡してきた。私はそれを受け取り、自分の分のメニューを開いて眺めるユナを気にしつつ、何を食べるか決めた。注文を終えると、すぐに私はユナに向き合い、訊いた。

「それで、用事って?」

「昨日君にぶつかったお詫びをしようと思って」

「お詫び?」

「誰か好きな人を一人殺してあげる」

 私はユナの目を真っ直ぐに見た。全てを拒絶するような冷徹さを秘めた瞳。一片の感情も含まない声。私は、殺し屋などというものがこの世に存在するのかはなはだ疑問だったが、少なくとも彼女がそういう類の人間だと思わざるえなかった。

「誰でもいいよ。例えば……横井賢治とか」

 父の名を聞いて身を強張らせる私に彼女は微笑んだ。クラブサンドと一緒にやってきた珈琲を一口飲み、心を落ち着かせてから、私は口を開いた。

「どこまで知ってるの?」

「結婚相手にDVを繰り返し、離婚した後からは引き取った娘にDVを加え続けたことから、娘が家を出た後は暴力団まがいのことをやってる小さな事務所を仕切る小物となり、最近経営不振で困ってて、四日前に娘のアパートに押しかけ金を奪った挙句、闇金に金を借りさせようとまで考えているっていう所まで」

 そう言うとユナは自分の分のサンドウィッチに手をつけた。私もクラブサンドにかぶりつく。大きめに切った具をパンと一緒にしっかりと噛んで飲み込んでから、私はおいしそうにサンドウィッチを頬張るユナに言った。

「今決めなきゃいけない?」

「話が早くて助かるなぁ。もちろん今すぐにとは言わないよ。かといって私も暇じゃない。一週間後の日曜日までに決めてもらおうかな……ちょっと交換」

 そう言ってユナは私のクラブサンド一切れと、自分のサンドウィッチ一切れを入れ替えた。珈琲を飲んで一息つく私にサンドを味見しながらユナが続ける。

「サンドも中々……というかあっさり受け入れるんだね。いきなり会った女に、人を殺してあげるなんて言われたら、普通は怪しんだりするものじゃない?」

「別に怪しんだからどうこうなるものじゃないでしょう?それに、あなたが誰かの個人情報を勝手に調べ上げられたり、大人一人を抱いて息一つ切らさず走れるのは事実なのだし」

「いいね。そういう考えが出来る人は嫌いじゃない」

 それからは私が二、三質問しただけで、たいした会話も無く食事が終わり、私はユナと別れた。




 私の父がその凶暴性を現したのは、私が物心つき始めた頃だったと思う。最初は酒を飲んだ時少し暴れることがある程度だったのだが、徐々にそれがエスカレートしていき、最終的にはいつも母に理由の無い暴力を振るい続けるまでになっていた。家の中で怒鳴り散らしたり、冷淡な口調で母を脅す父の姿を、私はただ茫然と見ているだけしか出来なかった。声の無い泣き顔で必死に耐える母。狂気という言葉でしか片付けられない様子の父。幼い私は重くのしかかる変えようの無い現実から一歩身を引くことを選んだ。目の前で起こる出来事を現実と認めたうえで、それと自分の関係を考えないことを覚えたのだ。しかし、後に中途半端な逃避がこの世界で通用するはずがないことを思い知らされることとなる。

 変化は私が中学二年生になった時に訪れた。異常な生活に耐え切れなくなった母が、父と離婚したのだ。そこで問題となったのが私の親権だった。心も身体もボロボロとなっていた母の重荷となることを恐れ、私は父の娘となることを選んだ。また、当時父は、母に暴力を振るう以外は、娘想いのいたって普通の父親だったために、もしかするとこれからは正常な生活が始まるかもしれないという、淡い期待すら私は抱いていた。だが、結果は父の暴力の矛先が私に変わっただけだった。私は毎日のように父に脅かされる日々を送った。一人ぼっちの孤独な闘い。何度か友達や教師に心配され、手を差し伸べられたことがあったが、私は全てそれらを拒んだ。ただの強がりだったのかもしれない。しかし、私のためと言い寄る人々が、無責任な正義を振りかざし、善を与える自分を示すのに躍起になっているような印象を受けたのが、一番大きな理由だったと思う。私はひたすら現実を見続けた。受け入れることは出来そうになかったが、それが母への、自分への義務のように感じられた。

 十八になった時、父に黙って家を出て、行方をくらませた。何とか住む所と仕事を見つけ、私は貧しいながらも充実した生活を現在まで送り続けることに成功した。不思議なことに家を出てからも父のことを憎み切れない自分がいた。その根底には父がまだ普通の父親だった頃の思い出に刻まれた、家族という繋がりを信じる気持ちがあった。そして今、父との思わぬ、望まぬ最悪の再開を果たした私は、父との関係にはっきりとした答えを出すことに言い知れぬ不安を感じていた。




「そんな大事なことがあったなら、相談してくれれば良かったのに」

 セルフサービスのホットココアを飲みながら、同僚の井口景子が言った。水曜日の昼のファミレスは、自分達と同じように、会社の昼休みに少し外に出かけようと考えるサラリーマンでそこそこ賑わっていた。私は先ほど空にし終わったパスタの皿を脇へやりながら答える。

「言ったところで、結局私の問題だしね」

 本当は父が私の部屋に来たことは、ほとぼりが冷めるまで誰にも言わないつもりだったのだが、会社内でちょっとした私に関する噂が流れていたために、仕方なく私はこうして景子に話すことに決めたのだった。もちろん、私が昔父から虐待を受けていたことなどは伏せてだが。景子が他人に話さないわけがないが、少なくとも噂が変な方向に流れることはなくなるだろうと私は踏んでいた。

「でも、一人で抱え込むよりいいじゃない」

「そうかもしれないね」

 私はカップに注がれたカフェラテに写る薄茶色の自分の顔を見ながら言った。“あなたには何も出来ないけどね”とは言えなかった。人の痛みを簡単に分かち合おうとする。それが正しいことだと疑わないで。別に景子が悪いわけではない。私だって偉そうに言えるほど、答えの出ない問いを繰り返すことの出来る頭を持ち合わせてはいない。

「警察とかには言ってないの?」

 ここで“悩みとかあったら言ってね”なんて言わないのが景子の良い所だ。手は差し伸べるけれど、それ以上は踏み込まない。自分には手に負えないから、良心という必要最低限の善意を示すだけにとどめる。こういうことを分かっているから、少なくはない同僚の中でも景子と特に上手くいっているのかもしれない。ただ一つ、癪に障る所はあるが。

「言ってない。警察が動くほど大ごとじゃないし」

 呆れたような顔をしてココアを飲み干し、伝票を持ってレジに向かう景子に続いて、私もカップを殻にして席を立った。“私がおごるから”と言って会計を済ませる景子にお礼を言うと、携帯が振動した。慌ててメールを確認する。数字や記号だらけの知らないメールアドレスからのメッセージは“外で待ってる”というものだった。ガラス越しに入り口を見るとユナが煙草をくわえていた。

「それじゃ、私ちょっと用事があるから先行ってて」

 と言って、景子が見えなくなったのを確認した後、私はユナに向き直った。

「どうしたの?」

 私の不満そうな顔を見て、ユナが答えた。

「つれないなぁ。ちょっと様子を見に来ただけだよ。迷える子羊のね。さて、場所を変えようか」

 ユナについて行きたどり着いたのは、小さな公園だった。手入れがあまりされていないらしく、茶色い枯れ葉がそこかしこに散らばっている。私達は色あせた木製のベンチに腰掛けた。

「さっきのは井口景子だっけ?あの子も殺してあげようか?」

 私は横を向いたが、フードの中でユナがどんな顔をしているのか分からなかった。煙草の煙が冬の乾いた空気に溶けていく。

「殺し屋って、サービス精神旺盛なのね」

「冗談だよ。ただちょっとからかっただけ。君も気付いてるんでしょ?あの子がおもしろがってるって」

 もどかしさと息苦しさを混ぜ合わせたような灰色の空。枯れ葉が風に吹かれ、掠れた音を立てながら地面をすべる。おもしろがってる……確かにそれは私がただ一つ癪に障るところだった。

「おもしろがらない人間の方が少ないんじゃない?」

「ふふ、それもそうだね」

 そう言ってユナは、右手に持った煙草を指で弾き飛ばした。放たれた煙草が、細かい火の粉を撒き散らしながら弧を描き、地面に落ちたその時、強い風が吹いた。フードがめくれ、薄桃色の髪が現れる。

「さて、横井賢治の方はどうするか決めた?」

 黙る私にユナが続ける。

「じゃあ一つ、意地悪な質問。何故悩むの?」

 鋭い視線から逃れるように、ここ数日間私の頭に居座り続けたものの名を口にした。

「家族……だからかな。腐っても」

 一瞬、ユナが顔を綻ばせたのを私は見逃さなかった。

「家族なんて血が繋がってるだけの、赤の他人だよ」

 吐き捨てるようにユナが言った。そのナイフのような紫の瞳に、何故か私は吸い込まれそうになる。

「家族が大切なのは家族だからじゃない。その人が自分にとって大切だからだ。そして、大切な人が家族に多いのは、家族が自分に一番近い存在だからだ。そりゃあ自分に近い方が自分にとって大事な存在になりやすいさ。けどね、だからといって家族だから大切なんだということにはならないんだよ」

 公園の入り口から小学生の集団が入ってくるのが見えた。各々グローブやバットを持って、楽しげに声を上げている。どうやら今日は振り替え休日らしい。自分の髪を見て驚く小学生に笑って手を振りながら、ユナは言った。

「家族だからなんて狂ったように主張してる奴は、所詮自分の頭で考えることを忘れた屑なんだよ。この社会では、そんな屑の主張が正義とすらみなされているんだけどね」

 チーム分けを終えた小学生達が野球を始めた。甲高い声が公園に広がる。ユナが煙草に火をつけて、立ち上がった。

「そろそろ時間かな。これは私からのちょっとしたプレゼントだよ。それじゃ」

 そう言って私に二つ折りにされた小さなメモを渡し、ユナは公園を出て行った。私はしばらくベンチに座ってぼんやりと野球を眺めてから、急いで会社に帰った。




 携帯に打ち込んだ十一個の数字を見つめながら、私はため息をついた。今日は金曜日。昨日と全く同じように、会社の自動販売機の前にある休憩スペースで、缶のおしるこを左手に、携帯を右手に持ってベンチに座り悩む私に、昼食と一緒に飲むジュースを買いに来た社員が、訝しげな視線をよこしては通り過ぎていく。まだ昼休みは始まったばかり、時間はたっぷりあると自分に言い聞かせ、私はおしるこを飲んだ。熱をもった甘い小豆が心を落ち着かせる。

 ユナから貰った紙にはある人物の名前と電話番号だけが書いてあった。白河百合。決して忘れることのなかった母の名前には、何故か馴染みの無い響きが感じられた。母に関する、実感の無い過去の心象の渦から抜け出さず、現実としての母を受け止めることをしなかった代償なのかもしれない。

 飲み物を買う社員がいなくなり、休憩スペースには私一人になった。自動販売機のくぐもった駆動音と窓ガラスを激しく打つ雨の音だけが聞こえる。飲み終わったおしるこの缶をゴミ箱に入れ、私は再び真っ赤なプラスチック製のベンチに腰掛けた。暗い窓の外を見ると、乱立するビルが、滝のような雨の中に、そのシルエットをぼんやりと浮かび上がらせていた。かけてみよう。もしかしたら出ないかもしれないし。でも……。そんな問答を繰り返し、ついに私は通話ボタンを押した。

 数回コール音が鳴った後、もう切ってしまおうと思ったその時、電話が繋がった。

「もしもし?」

 懐かしい声。私は思わず震えてしまいそうになるのを堪え、しっかりとした声で言った。

「母さん?私。里見」

 息を呑む母。少し間を置いて声が返ってきた。

「久しぶりね。元気?」

「うん。母さんも元気?」

「元気よ。その…あの人は?」

 母は離婚する少し前から、父のことをあの人と呼ぶようになっていた。私はどう言うべきか迷ったが

「うん、元気にしてるみたい」

 とだけ言った。別に嘘はついていない。少なくとも娘を脅せるくらいの元気はあるのだから。

「会社は?働いているんでしょう?」

「今、昼休み。母さんは?」

 母が黙った。電話を片手に持つ母を思い浮かべ、そのイメージにまだ不確かさが残る自分に嫌気がさすのを感じながら、私は母の答えを待った。しばらくして母が遠慮がちに言った。

「家。里見、あのね、母さんまた結婚したの」

 私の一瞬の思考の空白を埋めるように、外が光った。少し遅れて雷鳴がとどろく。私は出来るだけ自然な声で言った。

「おめでとう」

 心の奥底から声が聞こえてくる。自分に似た声が。

“所詮そんなものさ。家族なんて。簡単なものなんだ”

 声に対抗するように私は自分に言い聞かせる。

“別に母さんは悪くない。私だって選んだ道から逃げるように、何かにすがりついているだけだ。母さんを責める権利が私にあるはずがない”

 私の返答に声が大きくなった。

“じゃあ、今お前が抱える感情はなんだ?優しかった頃の父の思い出に縛られ、暴力を振るう父を憎めず、家族という言葉にしがみつくお前が。家族なんて呪いみたいなものだ。赤の他人同士を縛りつける見えない鎖。それを断ち切った母が、お前は妬ましいのだろう?”

「母さん、そろそろ時間だから切るね。最後に一ついい?」

「何?」

 私は大きく息を吸って、言葉を吐き出した。

「……家族って何?」

 沈黙。母が口を開くまでの無音の数秒間が、私には永遠に思えた。

「ごめん。母さんには分からない」

「こっちこそ変なこと訊いてごめん。それじゃ」

「里見。いつでも電話していいからね」

「分かった」

 私は電話を切り、ベンチから立ち上がってメモをゴミ箱へと放り投げた。通話履歴を消去し、携帯をポケットにしまう。もうかけることはないだろう。外はまだ大雨が降っていて、闇のような黒い空に時折光が走るのが見えた。私は立ったまま、ただその様子を眺め続けていた。




 人の間を縫うようにして駅を走る私を、周りの人々が不満そうな目で見てくる。日曜日の夜八時というだけあって、駅は様々な人でごった返していた。ぶつかった人に謝りながら進み続け、駅の隅にあるロッカーの並ぶスペースにたどり着いた時には、約束の時間を過ぎていた。

「一分十七秒の遅刻」

 ユナが時計も何も見ずに言った。

「ごめん」

 息を整えながら謝る。両側に並ぶロッカーの間に立つ私達以外には誰もいない。ユナが煙草を足で踏み消して言った。

「一つだけ質問。横井賢治以外に殺して欲しい人はいる?」

「いないわ」

「オッケー。なら行こう」

「えっ?」

「横井賢治の所にだよ」

 駅を出るユナに慌ててついて行く。空には雲ひとつなく、月が我が物顔で浮かんでいた。

「何で私も一緒に?」

「どうせ殺すかどうか決められてないんだろう?だったら連れてって自分で片をつけさせてあげた方が早い。それとも、もう決めてるのかな?」

 そう言って振り返るユナに私は首を横に振った。

「ま、怪我はさせないから安心してよ」

 少しもペースを乱さずに人の波の中を進むユナの後ろを歩き続ける。駅から離れるにつれて人通りが少なくなり、道の真ん中を堂々と歩けるようになった頃、ユナは小さなビルの前で止まった。壁は所々黒ずんでいて、錆びて茶色くなった看板が掲げられている。カーテンの閉められた二階の窓から、わずかに光が漏れているのが見えた。

「さぁ、行こうか」

 そう言ってユナが階段を上がった。薄暗い電灯の下で、足元に注意しながら私も階段を上がる。コンクリートが固い足音を響かせる。二階のドアの前でユナがフードを脱ぎ、

「ちょっと待っててね。すぐ終わるから」

 と言って中に入った。私は開いたままのドアの影から中を覗きこんだ。どうやら何かの事務所らしく、部屋の真ん中に置かれた低いテーブルの両側に並んだソファに六人の男が、その奥に置かれた大きな机に私の父が座っている。突然の訪問者に男の一人が言った。

「誰だてめぇ」

 何も聞こえなかったかのようにテーブルへと歩くユナに男達が立ち上がった。

「おい、お嬢ちゃん。自分が何してんのかわかってんのか?」

 そう言って掴みかかろうとした一人の腕をねじり上げ、ひるんだ男の首にユナは掌底を入れた。鈍い、嫌な音がはっきりと聞こえた。何か呻きながら倒れ、動かなくなった男の方を見向きもせずにユナは言った。

「一人」

 色の無い、無機質な声。今度はナイフを持った男が襲いかかってきた。ユナは男の突きを必要最低限の動きでいなし、突き出された腕を折って、奪い取ったナイフで男の首を掻き切った。真っ赤な鮮血が宙を舞い、ユナの白い肌に飛び散る。

「二人」

「撃ち殺せ」

 父が叫んだ。男達が胸ポケットから出した拳銃を自分に向けようとする間に、ユナはその内の一人に近づき、腕で首を絞め盾にした。そして、全員が躊躇した一瞬の隙を突いて、ユナは盾にした男の首を切って、一番近くにいた一人の銃を蹴り上げ、その左胸を突いた。

「あと三人」

 そうつぶやくユナの顔にはかすかに笑みが浮かんでいる。我に返り発砲しようとする一人の腕にナイフを投げ、男がひるんだ間に間合いを詰め、ささったナイフを引き抜いてユナは男の首を切った。一切の無駄の無い、まるで舞踏を舞うかのような華麗な動き。血に染まる薄桃色の髪と白い肌。目の前で人が死んでいることも忘れて、私はユナに見とれてしまっていた。ユナが残る一人を切り刻んでから、机の前に立つ父に言った。

「これで残りは君だけだよ」

「お前は何者なんだ?何が目的……ぐわぁ」

 地鳴りのような重い銃声とともに父が倒れた。ユナが、男達が持っていた銃の一つを拾い上げ、父の足を撃ったのだ。足を庇うようにして床を這い、壁を背に座り込む父を見ながら、ユナが言った。

「もういいよ」

 私はドアの影から出て、部屋に入った。途端に鉄臭い血の匂いが鼻をつく。床に転がる死体と、それを中心に出来た血溜まりを踏まないようにゆっくりとユナのもとへ向かう。頭の中では自分が異常な光景の中にいると分かっていても、私の足取りは意外と軽かった。これも父のおかげなのかもしれないなと、皮肉に思いながら私はユナの隣に立った。火薬の匂いでむせる私に、ユナが拳銃を渡して、微笑みながら言った。

「三分待ってあげる。撃つか撃たないかは君の自由だよ」

 壁にもたれかかって、煙草に火をつけるユナから視線を戻し、父と向き合う。私は両腕を伸ばし、父の頭に狙いを定めた。冷たい拳銃の引き金にかけた指は、石のように固い。

「お前だったのか……里見」

 父が私を睨みつけながら言った。呼吸は荒く、手で必死に足の傷口を押さえている。その惨めな姿に、私は哀れみと侮蔑の念が湧いてくるのを感じた。震える両腕を誤魔化すように私は口を開いた。

「そうだよ、父さん」

「まさかお前がここまでやるとはな。それで?さっさと殺さないのか?」

 父の声は決して余裕があるとは言えない声だったが、その裏には私には自分を殺せないという確信があるような雰囲気があった。私は拳銃を構え続ける。

「父さん、母さんさ……結婚したって」

 黙る父。その表情から心の内を読み取ることは出来ない。

「家族って何?私達の何が間違っていたの?」

 痛みに耐え、何とか生きながらえようとする父の醜い顔に、いつかの自分を見たような気がして、私は大きく息を吐いた。

「ねぇ父さん。私の家族はもう父さんだけなんだよ」

「やり直したいのか?」

 今度は私が黙った。父が落ち着いた声で続ける。

「お前が俺を許せるのか?それでいいのか?」

 優しかった頃の父と、私を殴りつける父。様々な父の姿が渦となって私の心をかき混ぜる。父と目が合った。その目が自分の娘を見ているのか、それとも、自分を殺そうとする一人の女を見ているのか、私には分からなかった。

「あと三十秒」

 ユナがよく通る声で告げた。汗ばむ手。ずっと伸ばしているので痺れてきた両腕は、それでもまだ父の頭に狙いをつけている。

「里見。俺には謝ることしかできない。命乞いをすることしかな。でも、もし許してくれたなら……今度はちゃんとお前の父親をやりたい……」

 異常な状況に不釣り合いな安っぽい問答。優しい、はっきりとした声。でも、その中に嘘は無いように思えた。

「私は……」

「あと十秒。九、八……」

“許すのか?あれだけのことをされておいて?こんな簡単に?”

 心の声が叫ぶ。下らない自問自答が始まる。

“それで父さんが戻ってくるならいい。たった一人の家族が”

“家族なんて呪いみたいなものだと知っているはずじゃなかったのか?大体、信じ切れるほどの言葉なのか?許せば報われるなんて甘えるなよ”

“でも、失えば結果は一つだけ。失わなければ結果は一つじゃない”

“打算的だな。だけどそれはただの賭けだ。別に冷静な判断じゃない。自分が何を信じるかという問いから逃げるな”

“もう自分だけを信じるのには飽きたのよ”

“おいおい弱音を吐くなよ。これまで頑張ってきたじゃないか。それとも何だ?他人を信じていればこんなことにはなっていなかったとでも?”

“結果が出た現在に、仮定は意味をなさないわ”

“なら決めろよ。撃つのか、撃たないのか。お前が。今”

 頭の中を次々とイメージが駆け抜ける。母の笑顔。父と繋いだ手。笑いながら手を差し伸べる人々。優しく家のことを問いただす教師。上っ面だけの同情を回りにちゃんと見えるように示すクラスメート。鏡に映る自分。

「五、四、三……」

「私は……私は……」

 私は重すぎる引き金を引いた。空の薬莢が床に落ちる乾いた音だけが、頭に響いた。




「こうして二人で座ってるのに、黙って一人で飲んでるのは寂しいんだけどな」

 向かいに座る私を見ながら、ユナが言った。ここはとある小さな居酒屋の中。私が父を撃った後、ユナがおすすめの居酒屋があるから行こうと言うので、何となくそのまま別れるのが嫌だった私はついて来たのだった。まだ少し早いせいか客は少ない。店に入ってから一言もしゃべらない私にユナが続けた。

「それじゃ、君が今望むものを当ててあげようか」

 その瞳に意地の悪い光が宿る。

「父親を殺した、正当な理由。殺したのは仕方が無かったと言えるような」

 私はまだ拳銃の冷たさが残る両手に目を落とした。その手はどす黒い血にまみれているように思えた。

「図星かな?」

「何で私に協力したの?ただぶつかっただけであなたがそこまでする必要は無かったでしょう?」

 ユナの言葉から逃げるように、私は今になって湧いてきた疑問を口にした。すると、一瞬、紫色の瞳を大きく見開いた後、突然ユナが笑い出した。その笑い声には、これまでの色の無い冷たい声とは違い、感情がこもっていた。邪悪な笑みを浮かべながらユナが言った。

「いやぁ、君はいいね。そこに自分で気付くとは思わなかったよ。じゃ、予定より少し早いけど種明かしをしてあげよう」

 ユナが半分ほど入っていたビールジョッキを空にして続ける。

「一週間ほど前、私に一つの依頼が入ってきた。横井賢治という男が仕切る事務所が目障りだから潰せってね。簡単でつまらない仕事のわりに、報酬が高かったから私は引き受けた」

 段々と快活になっていく口調。

「そこで色々準備している途中で偶然にも私は君と出会い、一つゲームをしてみようと思ったのさ。君に父親を殺せるかなってね」

 私の反応を楽しむようにユナは言葉を区切った。

「依頼人から横井賢治の周辺に関する情報は大方貰っていたから、それも利用して君を揺さぶった。そうして悩みぬいた挙句、君は撃った。実の父親を。正直、私は撃てないだろうと思ってた。最高の終幕となったわけだ。これが私が君の父親を殺してあげた、殺させてあげた理由だよ」

 そう言ってユナは私に微笑んだ。可笑しくてしょうがないという風に。

「私を弄んだってこと?人の痛みも知らないで?」

「弄んだことは認めるけど、痛みを知らないっていうのは認められないな」

 器用に骨を避けて魚を食べるユナを、私は睨み続ける。

「例えばさ、いじめをする子供に、よく相手の気持ちを知りなさいって注意するだろう?いじめをするのは他人の痛みを知らないからだって」

 私の視線に気付いたユナが目を優しく細めた。

「いい反応だなぁ……でも、あれって間違いなんだよ。いじめっ子がいじめを楽しめるのは、その痛みを知っているからさ。他人の痛みを知っている者だけが、それを楽しむことが出来る」

「じゃあ……あなたも親を殺したことが?」

「それはどうだろうねぇ……まぁ人間なんてそんなものさ。痛みを知っても、それから他者を守るのではなく、それを他者が受けるのを楽しむことしか出来ない。人の不幸は蜜の味ってね。君も心当たりがあるんじゃないかな」

 ユナが焼き鳥にかぶりついた。綺麗に血を拭き取った白く細長い指で、ソースがつかないように上手に食べている。私の頭の片隅に景子の顔が一瞬浮かんで、消えた気がした。

「それでも、あなたが私にとって悪だってことには変わりないわ」

「悪……か。じゃあ、君はどうなのかな?父親を殺した君は?」

「私は……」

「弄ばれただけと言い切れるほど馬鹿じゃないんだろう?」

 ユナが笑いながら言った。嘲笑とも憫笑ともとれるような笑み。私は……どうなのだろう。いや、無論私も悪者なのだ。父を殺したのは他ならぬ私なのだから。でも……。

「悩んでるねぇ。認めたくないっていうのが本音かな。まぁ……」

「私にはあなたに踊らされて父を撃ったという言い訳ができるって言いたいんでしょう?」

 ユナは驚いたように箸を止めた。私は畳み掛けるように続ける。

「私は何ら自分の手を汚すことなく父を殺すことが出来た。それでも、父を撃ったのは私。後悔と自責の念で一生悩めってことじゃないの?」

 頷くユナに私はさらに続けた。

「あなたは私にとって理想の悪役だったわけだ」

「お見事。正直そんなとこまで頭が回るとは思ってなかったよ」

 生徒を褒めそやす教師のような優しい笑みでユナは言った。やや落ち着きを取り戻した私はテーブルの上にある食べ物にやっと手をつけ始めた。しばらく無言のままで時間が過ぎていったが、やがてユナが堪え切れないといった風に口を開いた。

「さて、このままだとイマイチ面白くないままで終わってしまいそうだから、もう一つ種明かしといこうか」

 顔をあげ、ユナと目を合わせる私。これ以上何があるのだというのだろう。

「白河百合の新しい結婚相手は、横井賢治と結婚していた当時の不倫相手だよ」

 思わず目を見開いてしまった。私の反応を楽しむようにユナが続ける。

「横井賢治が酒に溺れた原因の一つが、白河百合の不倫だ。当時君は小さかったし、娘思いの横井賢治はその事実を隠した。ま、離婚してからあの調子じゃ、隠す意味もなかった気もするけどね」

「そんな……」

“今度はちゃんとお前の父親をやりたい”。父の言葉を聞いた時の違和感。今度はというフレーズ。その正体はこれだったのか。急に汗ばむ手。父の死に顔が脳裏をよぎる。

「焦ってる焦ってる。ダメだよ、ちゃんと隠さないと。可愛がりたくなる」

 ユナは口の端だけ釣り上げたような歪んだ笑いを浮かべている。

「黙って!」

「君が殺すべきだったのは本当に横井賢治だったのかなぁ」

 荒くなる息遣い。何かが喉元までせり上がってくる。呼吸を落ち着かせようと大きく吸い込んだ空気は、何にも味がしないのに重苦しかった。

「何で……何でそのことを言わなかったの?」

「別に言う必要は無かったからね。でもヒントぐらいはちゃんとあげたよ。電話番号とか。直接コンタクトを取れば、君が聞き出すのは簡単だった気がするけど」

「……」

「それに、自分でも薄々気づいてるんでしょ?向き合ってこなかった結果なんだって」

 視界が揺らぐ。平衡感覚が狂う。店内の喧騒が遠のいていく。椅子に座っていながらふらつく身体を支えるように、テーブルに手をつく。背中が嫌な汗で濡れているのが分かる。ここ何日かですっかり聞き慣れてしまった自分そっくりの声が、頭の中にある真っ白な空白に逃げ込もうとする私の行く手を遮るように、はっきりと聞こえてきた。

“これが報いだったわけだ。現実から目をそむけてきたお前への”

“そうかもしれない。そして私は父を撃った。何も知らないままで。納得したようなフリをして。答えだけを出した”

 勝手に撹拌される頭。記憶と思考が一緒くたにされ、混ざり合っていく。母の顔。父の後ろ姿。憎悪。悔恨。もはや何を考えているのか自分でも分からない。

「じゃあ、悩める子羊にちょっとだけ救いの手を差し伸べてあげようか」

 ユナは心底楽しそうに言った。歪んだ笑みはまだ消えていない。

「まず第一に君が殺さなくても横井賢治は死んでたってこと。私の依頼内容は横井賢治の殺害も含まれていたからね。ようは君の意思は関係なかったわけだ」

 ゆっくりと頷く私。

「そしてもう一つ。横井賢治を撃っていなかったら私は君を殺してた」

「なっ」

「そりゃあそうだろう。事後処理はその手の奴に頼んで完璧だから足はつかないとしても、少しでも不安要素は取り除くのが普通でしょ?」

「でも、撃ったとしても私が厄介者なのは一緒でしょう?」

 ユナは私の全てを見透かすような瞳で言った。

「甘い甘い。私に殺されて償おうとしてもダメだって。ま、その方がいじめがいがあるけどさ」

 私は黙った。証拠も何もないのに、私が撃ちましたなんて言っても、警察は信じてくれないだろう。私は償えないのだ。この身を持ってしか。命の代償は命で。短絡的思考だと理解してはいるものの、ショート中の思考回路はいとも簡単に胡乱な結論を導き出す。さっきはそんなことを毛ほども考えなかったくせに。

「今の君を見れば分かるだろう?殺すよりも生かしてるほうが面白いって。そのために用意したシナリオなんだしね」

「……」

「そして、私は今、君に逃げ道を与えた。君は君の命を守るために横井賢治を撃ったという事実をね」

 ユナは優しく諭すような口調で続けた。

「損得勘定に当てはめても、天秤は水平のまま。自分の命を引き換えに他人を殺したなら、五分五分。君が死んだところで何も変わらないんだよ。一人の女が死んで、それだけだ。結果だけが残る。自分の死で償うなんてお門違いもいいところさ……ていう風に言い訳出来ちゃう」

 私は頷くことが出来なかった。違う。ユナは逃げ道を塞いでいるのだ。償いという逃げ道を。私の反応が気に入ったのか、ユナは嬉しそうに言った。

「君は一生背負うんだよ。業ではなくて罪悪感だけをね。誰にも罰せられないし、償うことも出来ない。ある意味最悪だね」

 ユナは心底満足そうに笑った。人を嘲る笑みには違いないのだが、そこにはどこか無垢な印象があった。

「さて、メインディッシュもおいしく平らげたところで、おいとまさせていただこうかな」

 そう言ってユナは立ち上がり、私の分も含めた食事代を机に置いた。私は何も言うことが出来ない。

「そうだ。最後に一つ、君にプレゼントをあげようか」

 要らない、と言おうとしたが乾いた口からは掠れた音しか出なかった。水を飲む私を尻目に、ユナはポッケから空の薬莢とナイフを取り出して、薬莢の側面に器用に番号を刻んだ。

「はい、君が撃った弾丸の薬莢と私の仕事用の電話番号の一つ。殺して欲しい人間がいたらいつでもどうぞ。金は取るけどね。それじゃ」

「一つだけ聞かせて」

「何だい?」

「何故こんなこと楽しめるの?」

「理由はないさ。娯楽に理由は必要ないだろう?君はさっき私を理想の悪役と言った。でも、ホントの悪役ってのはこんな下らないことを心底楽しめる人間なんだろうね」

 店を出るユナの後ろ姿を私は見つめることしか出来なかった。




 あれから半年が経つ。あの事件のことは結局何一つ公の場には出てこなかった。地元の新聞にさえ。ユナが言っていた事後処理は完璧とは本当だったのだろう。警察に届けようかと思ったが、どうせ相手にされないだろうと私は諦めた。父を殺してからも、以前と大差ない日常を過ごし続けている。

“電車が参ります。ご注意ください”

 朝の通勤ラッシュで混雑する駅のホームに、スピーカーから音声が流れる。千差万別の表情を浮かべた顔。無数の足音。焦燥と苛立ちがやんわりと漂う空気。心の奥底から沸き上がってきた。あの、忘れられない、無機質な声が。

“飛び降りれば?”

 変わったことが一つある。あの、下らない自問自答を繰り返していたぞっとするほど私に似た心の声が、いつの間にかユナの声になっていたのだ。何故なのか。それは私自身よく分かっているような、絶対に分からないような気がするのだ。

“遠慮しとくわ”

 そう心の中で呟いて、私はやってきた電車に乗り込んだ。

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夢野言乃葉 @yumenokotonoha

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