夢野言乃葉

 雲一つ無い真っ青な空。照りつける日差し。私は眩しく輝く真夏の太陽に手を伸ばす。頬を撫でる風が冷たくて気持ちがいい。

 ここは市の中心にある大きな病院の屋上。不治の病にかかり、この病院に連れてこられた私は、昼食を済ませた後ここに来るのが習慣になっていた。周りを囲うフェンスから下を覗くと、平日だというのにたくさんの人が病院を出入りしていた。

「またこんなところまで出歩いてたか。急に倒れたりしたらどうするんだ?全く」

「いいじゃない、ちょっと外の空気を吸うだけなんだから。それより学校はどうしたの?」

「昼休みになったから抜け出してきた。別に何か悪さをするわけでもないし、神様も許してくれるだろ」

 二人でプラスチックでできた水色のベンチに座る。自転車を相当飛ばしてきたらしく、稜は腕捲りをし手で顔を扇いでいた。少し痩せすぎてるために女の子みたいな細い腕から、汗が吹き出している。

「ほら、唯名が前に言ってたやつだ。それとジュース。」

 稜が持っている二つのビニール袋を渡してきた。受け取り、中を覗くと、片方には大きめのスケッチブックと薄い茶色の鉛筆が、もう片方には私の好きなコーラの缶が入っていた。

「ありがと」

「どういたしまして」

 稜が椅子の背もたれに寄りかかり、ハンカチで額の汗を拭いながら言う。私はコーラを袋から取り出し、その首筋にピタッとつけた。

「うわっ」

 驚いてこちらを見る稜にコーラを渡す。

「コーラはいいよ。ぬるくならない内に稜が飲んで。すごい汗なんだもん」

「どうも」

 爽やかな音を立ててコーラが開いた。勢いよく稜がコーラを口から流し込んでいく。私は制服を着なくなってからどれくらいたっただろうかなんて考えながら、その様子を見ていた。

「あー、生き返る」

 いつの間にか、青過ぎる空を一筋の飛行機雲が横切っていた。ところどころ掠れていて、でも真っ直ぐに伸びる雲は、見ている私をなんだか落ち着いた気分にさせた。

「唯名はなんかこう、夢みたいなのはないの?こんなことがしたかったとか」

「うーん。あることはあるんだけど……ちょっとじじ臭いので恥ずかしい」

「何じゃそりゃ。とりあえず言ってみろって」

「笑わないでよ」

「笑わない」

「私はね、稜が運転する車に乗って、休日に二人で遠くに出かけていって、美味い飯食って、温泉入って、何か甘いもの食って帰るのが夢」

「ははは」

稜が笑い出した。私は顔を赤らめる。

「笑わないでって言ったじゃん!」

「悪い。つい、な」

 さっきの飛行機雲は空に溶けてしまい、青のキャンバスには再び太陽しかいなくなった。私はいつまでこんな透明な気持ちでいられるのかな、なんて柄にもなく素直にそう思っていた。


 一ヶ月前、高校三年生の五月に、私、春山唯名は死を宣告された。私が知ることを望んだので正確には宣告されたとは言えないが。私はあと一年程度しか生きられないと言われたのだ。理由はある病気にかかってしまったから。その病気は原因も治療法も不明だが、病気の進行の仕方などはわかっており、私は自分が後どれくらいしか生きられないのか、この先どんな病状に苦しめられるのか詳しく知ることになった。

 そうして病院に入院した最初の頃は、自分が一年後に死ぬなんて実感できなかったし、時折高熱を出したり体を痛みが襲うだけで、普段は特に調子が悪いわけではないので、それほど苦労も多くなかった。しかし、病院にいる自分と似たような境遇の人たちを見たり、定時に行われる健康チェックを受けるにつれ、自分には未来がないことを徐々に自覚していった。別にそれによって特別無気力感に襲われたり、生き永らえたいとかいう思いは生まれなかったが、私の中で何かが変わってしまったのはぼんやりと意識できた。家族や友達と話している時や、病院の敷地内を散歩しているときなど何気ない時間に、ふと自分が死んだ後はどんな風になっているかと考えてしまう。考えて虚無感に浸る自分を肯定しようとする。そんな瞬間を繰り返していく内に六月になった。

「ちょっと失礼」

 木曜日の午後三時。あまり病院を訪れる人のいない時間帯。私が所在無く過ごしているのを見計らったように、一人の訪問者が現れた。個室のスライドドアをそっと開け、従姉妹の吉永良子が入ってくる。

「良子さん!」

「おっ、元気そうで何よりだね」

 良子さんは壁にかけてあった、ところどころさび付いたパイプ椅子を開き、座った。短めの金髪に白のシャツ、黒のパーカー。いつもの着古したジーパンをはいている。私は体を起こし、ベッドのふちに座る。

「久しぶり。見舞いに来てくれたの?」

「見舞いってほどじゃない。ちょっと様子見てみようかなって顔出しただけ」

 そう言う彼女の犬みたいな目は、私の全てを見透かしているみたいで、少し恥ずかしかった。

「どう?何か困ってることとかない?」

「ないない。無くて逆に困ってるぐらい」

 これは本当だった。自分のおかれた状況は変えられるものでもないし先のことを憂いても仕方がないという事実は、面倒くさがりな私が自分自身についてうだうだ考えるのをサボらせるのに十分な理由になったし、別に寝たきりで動けないわけでもなく比較的自由な生活を送れている事に満足できないなどといえば罰が当たるというものだ。それに、私のことで誰かに気苦労をかけるのは嫌だった。気苦労をかけた相手に申し訳ないのではなく、死んだあとに迷惑なやつだったと思われたくないエゴイズムからだが。

「そうか。じゃあちょっと待ってて」

 そう言うと良子さんは部屋を出て、五分後くらいにまた戻ってきた。その手にはギターケースが握られている。再び良子さんはパイプ椅子に座り、傷だらけのハードケースから一本のアコースティックギターを取り出した。明るい茶色のボディーは無言で、自身が使い込まれてきた年月を物語っていた。

「これあげる。暇つぶしにはなるでしょ?」

「え?」

 私は驚きながらもギターを受け取った。

「私がずっと使ってたやつ。唯名はエレキかなり弾けるから大丈夫でしょ」

「大丈夫って、そうじゃなくてホントに貰っちゃっていいの?」

「いいよ。元から誰かに譲る予定だったし、それなら大事にしてくれる人にってね」

「ありがと」

「試しに弾いてみれば?どこかうるさくしても大丈夫なところある?」

「屋上。たぶん大丈夫」

 低すぎもせず高すぎもしない階段を上がり、スチールでできた安っぽいドアを開けると、陽の光で満ちた屋上に着いた。二人でベンチに腰掛ける。干されたたくさんの洗濯物が風に吹かれて音を立てている。私はギターを構え、コードを鳴らした。

 軽やかな、それでいて奥深い音が広がる。時間をかけてこのギターが培ってきたもの。私はその温かさにうっとりしてしまった。慣れない手つきで適当にコードを繁いでいく。そうして一通り感触を確かめたあと、段々と複雑なメロディーへ。ややぎこちない指弾きは少しギターに失礼な気もしたが、私は満足だった。

「良子さん、これ何?すごくいいんだけど」

「喜んでもらえて何よりだよ」

 ギターで遊びながら会話を続ける。小さい頃からずっと交流してきた良子さんとは、友情とは違った雰囲気の間柄だった。もっと近くて、でも近すぎない距離。年齢が二つ上の彼女は私の姉みたいな存在でもあった。

「最近絵を描いてるんだって?」

「誰から聞いたの?」

「篠崎君」

 家族以外には内緒にしてと言ったはずなのだが。これは今度問いただすしかないな。

「ちょっとスケッチブックに風景を描いてるだけだよ」

「今度見せてよ。私が採点してやろう」

「見せません」

「まぁ頃合い見計らって勝手に見るからいいよ。篠崎君とは相変わらずみたいだね」

「相変わらずってなんか変な言い方」

「ごめんごめん。唯名のことちゃんと考えてるいい子だよ。とはいっても恋愛は勝負だから弱いとこ見せて負けないように」

「分かってます」

 そうしてひとしきり話した後、良子さんは帰っていった。冷蔵庫を物色し、貰い物の缶コーヒーをちゃっかり取って。


 大きな病状の変化も無く八月になった。世間は夏休み。受験勉強で忙しいにもかかわらず、友達や稜は結構頻繁に訪れてくれていた。全開にしている部屋の窓から入ってくる蝉の声を聞いている内に、陽の光が恋しくなった私は、スケッチブックと鉛筆、消しゴムを持って病院の庭の隅に向かった。大きな木の根元に腰掛け、鉛筆を紙の上に走らせる。人の目を気にすることなくゆっくりできるこの場所は、私のお気に入りだった。

 絵を描くのは昔から好きだった。何も無い真っ白な空白に世界を移しこんでいく。それは現実の一場面であったり、名も無い空想の一場面であったりした。そんな、自分でちっぽけな世界を作りあげるという作業が、子供っぽいと笑われるかもしれないが好きだ。そして今、見えない何かに突き動かされるように絵を描いているのは何故だろうか?紙の端から端まで余さず使って、陽の光に照らされた草原を無限の彼方へと広げながら、私は答えを探した。いつの間にか手が止まっていることに気付かずにいると、突然声をかけられた。

「唯名、今度は何を描いているの?」

 驚いて顔を上げると私と同じ病気にかかっている中学一年生の男の子、山里翔太がいた。何度か話しているうちにすっかり私になついてしまった翔太は、私より半年ほど早く病気にかかっている。私は翔太が座りやすいように少し左にずれた。

「草原」

「おお」

 スケッチブックを覗き込み翔太は呟いた。木漏れ日が私より一回り小さい体に転々と落ちている。こんな風に何も無い時間をただ過ごすことは、この上ない贅沢なのかもしれない。

「それにしても唯名は絶対に人を描かないよね」

「え?」

「すごくいい風景を描くくせにその中に絶対人は描きこまない。どうして?もったいないよ」

 私が黙り込み答えを探している間、翔太は返事をせかすようなことはせず沈黙を守っていた。断定された死は、まだ中学生になって間もない少年に無為に時間を過ごすことを受け入れさせたらしい。翔太は普通の子供に無い、超然とした落ち着きを持っていた。

「多分、捉えたくないからだと思う。人間という不確かさを。私が作り閉じ込めた世界の中に」

 私の言葉を考えるような素振りを見せた後、翔太は言った。

「じゃあ唯名は自分を重ねてるんだ?死ぬことが決まってるのが人間だって」

「そうなのかもしれないね」

 自分と重ねている……本当にそれだけのことなのかもしれない。約束された死はいつ訪れるのかわからない生。それでよかったはずなのに、死を確定してしまった私は、そんな生の不確実性がかえって強く感じられるのだろう。それが羨望や嫉妬から生まれてくるのかは分からないが。子供は時に鋭く真理をつくようなところがあるなと思う反面、自分の要領を得ない答えが少し恥ずかしくなった。そんな私を気にしないような様子で翔太はどこか遠くを見ていた。再び紙の上を滑り始めた鉛筆の音だけが二人の間に流れる。長い時間がたったあと、翔太が口を開いた。

「唯名は稜にぃとどんな風に付き合い始めたの?」

「急にどうしたの?」

 私が笑いながら言うと翔太は少し赤くなった。翔太は時々遊んでくれる稜のことを稜にぃと呼ぶ。それなら私のことは唯ねぇと呼んでくれてもよかろうに。

「稜にぃに聞いたら、お前にはまだ早いとか言ってはぐらかされちゃったんだよ」

 いかにも稜らしい。気取ったところがあるくせに真剣味を少しでも帯びるとシャイになるのは、私が好きな彼の一面だった。

「最初に意識し始めたのは高一の六月だったかな。ある日、軽音部でくだらない話をしてて、住むとしたらどんな家がいいみたいな話題が出た時に、私と稜が“掃除がしやすい家!”って言ったのがきっかけ」

「はぁ?」

「私も変だと思うけど、なぜかその時稜とはうまくいくなって確信が生まれたの。こいつとは気が合うってね。」

 今でも鮮明に思い出せる。あの日、部活が終わった後二人で馬鹿みたいに理想の家について話しながら帰ったことを。間取り、階段の仕様、コンロは二口か、IHかガスか。好みが違ったりしている所もあったが、お互いがお互いを昔から知っているような感じがしていた。

「それから?」

「部活以外でもちょくちょく喋るようになっていったけどあんまり大きな進展みたいなのはなかったんだよね、正直言うと。そのまま一ヶ月くらい経った頃に、朝練しようと早朝部室に行ったら、ドアの前でばったり稜と出会っちゃって。そのまま二人きりで、広い部室に入ったの。もうお互い気まずさでいっぱい、無言でアンプをセッティングするわけよ。そうして準備が終わった稜が適当にメロディを弾き始めたんだけど、その音作りとか旋律がとても優しくてね。私は無意識の内にその中に入っていって、気がついたら誰もいないのをいいことに二人して大音量でセッションしてた。私が持ってないものを稜は持ってて、稜が持ってないものを私は持ってて、お互いにそれを楽しめることがその時分かったの。朝礼五分前のチャイムが鳴って部室から出るとき、稜から告白された。付き合ってくれってね」

「うわぁ、ドラマチックすぎるよ」

「その後もまぁ何も無かったかな。ただ、あまり遊園地に行ったりカラオケやボーリングで遊んだりしなかったから、周りから変とか言われたことはあるけどね」

 突然辺りが暗くなった。上を見ると木の葉の屋根の隙間から、太陽に分厚い雲がかかっているのが見えた。沈黙する空。セミの声が鳴り響く。

「どうして遊びに行ったりしなかったの?」

「何というか相手の存在を感じられるだけで十分だったんだよね。お互いを知ってるから。だから映画なんかを見に行っても、見終った後に行くカフェでの時間の方が見ている時間より長かったし、部屋で二人でコーヒーでも飲みながら話したり、稜は小説読んで私はギター弾いてるみたいに別々のことしてたり、ふらふらっとゴールの無い散歩を手をつないでしてるほうが好きだったのかも」

「チートカップル……」

 雲のカーテンを開き、再び太陽が顔を出した。呆れ顔の翔太にまた木漏れ日が落ちる。私はあと少しで完成する絵に向き直った。

 進み方を忘れたようにゆっくり時間が過ぎていく。今頃稜は授業中だろう。これから死ぬ人間のほうがこれからも生き続ける人間より落ち着いて時を過ごしているなんておかしな話だ。絵が完成したちょうどその時、翔太が独り言のように呟いた。

「僕たちは自分のためのものしか持てないのかもしれないね」

 私が言葉を失うと翔太は慌てて続けた。

「いや、別に深い意味は無いんだ。ただ最近、そんなことを考えていただけ」

 それ以降翔太はたわいない話しかしなかったが、このとき翔太が呟いた言葉を私は忘れることができなかった。


 二ヶ月がたった。十月。夏が終わり秋が町に訪れてきていた。ある日、稜から貰ったパーカーを着て、少し厚着をしながら屋上でギターを弾いていると、担当医の矢口先生がやってきた。私が座っているベンチには腰掛けずに、フェンスに寄りかかって煙草に火をつける。薄い灰色の煙が空気に溶けていく。

「休憩ですか?」

「ちょっとね。煙そっち行ってない?大丈夫?」

「はい」

 矢口先生は納得したようにうなずいて、目をつぶって自由時間を満喫していた。風は秋が深まるにつれて冷たさを増しており、白衣の下にもそこまで着込んでそうに無い先生は寒くないのか私は気になった。殺風景な屋上にギターの音色がひっそりと流れる。

「医者が煙草吸っていいんですか?」

「僕は本当にやりきれない時しか吸わないよ」

「そういう問題ですか」

「見られたら面倒くさい奴にに見られなきゃ別にね」

 そう言って笑う矢口先生は、幾分適当な所はあっても芯はしっかりしている人間で、みんなから信頼されていた。見た目からは二十代前半だと思われるが、底知れぬ思慮深さがにじみ出ており、私はこの先生を尊敬している。

「ふぅ」

 煙草をちゃんと携帯灰皿に入れると、階段横にある小さな自販機で缶コーヒーを二本買い、矢吹先生は私の隣に座った。無言で差し出されたコーヒーを、ギターをケースにしまってから受け取る。

「ありがとうございます」

「まぁ煙草の口止め料ということで」

 缶のぬくもりで両手を十分に暖めてからふたを開けた。一口飲む。体が内側から熱を帯びていくのを感じる。

「ちょっといいですか?せっかくの休憩時間に水を差すようで悪いんですが」

「迷惑かどうかは君が決めることじゃない。遠慮せずに言ってごらん」

「先生はどうして何の見返りも無く人のために働けるのですか?」

「……難しい質問だね」

「最近、私が絵を描いたりギターを弾いたりするのに一生懸命なのは、自分が何かを遺したいからだって気付いたんです」

 矢口先生が視線だけで続きを促す。

「でもそれは私が私だけのために望むことです。そんなことを考えているうちに、人は一方的な感情しか持てないんじゃないかって思えてきて・・・優しさも思いやりも突き詰めれば自分がそうしたいからそうするんじゃないかって」

 人のために。聞こえはいいがそんなものが本当に存在するのだろうか。私が私のためじゃなく人のためになれること。私が知らないうちに誰かに何かをしてあげられること。私の大嫌いな綺麗事だって分かってる。でも、綺麗事で終わってほしくないと今は願っていた。この世界を去るまで後半年ほどになって、私の生きた世界は美しくあってほしいという理想に縋り付いているだけなのかもしれないけれど。

「あんまりこういうことを言うのは好きじゃないんだけれど、死は人を厳粛にさせると僕は思うんだ。否応なしにね。その根底にあるのが誰もがいつか必ず死ぬというある種の絶対的な共通性にあるのかは分からないけど、死に行く人たちに僕は何かしてあげたいとふっと思うんだ」

 矢口先生は缶を空っぽにして続ける。

「だけど、それだけじゃ何だか気持ち悪いから何かしら理由をつける。自分は社会の役に立ってるとかそれっぽい理由をね。ごめんね、何か答えになってなくて」

 そう言うと矢口先生はこっちを向いてごまかすように笑った。

「人は理由の無いものを受け入れられないのかもね。先刻だって、僕は君にジュースを渡すときに口止め料だとか言って理由を作っただろう?」

「じゃあ、自分のためじゃなく誰かのためになることはできないんでしょうか?優しさは存在しないと?」

 思わず声が大きくなったのにもかまわずに私は矢口先生と目を合わせた。中身のない空き缶はすでにぬくもりを失っており、手のひらに無機質な冷たさだけを残していた。

「いや、認めることが難しいだけなんじゃないかな。自己しか生きられない人間が、他者のみを考えて行動することを。そして何か理由を作ったりせずに素直に人にやさしくできるのを、薄っぺらい上におおげさな言葉で僕は好きじゃないけど、愛と呼ぶんだろうなぁ」

「愛……ですか」

 どこか空虚さが漂うその言葉に、柔らかな光みたいなものを感じた。弱々しくて、嘘っぽくて、ぼんやりとその輪郭だけを浮かび上がらせるだけの光。

「そういえば翔太君も似たようなこと聞いてきたなぁ。そういうことを考えたくなる気持ちも分かるけど、あんまり悩み過ぎないようにね」

「はい」

 そう言うと矢口先生は大きく伸びをした後ぼんやりと空を眺め始めた。翔太もやはり同じことを考えていた……というより私が翔太と同じことを考えているというべきか。彼はどんなことを思い、どんな答えを出すのだろう。フェンスの向こう側へ何気なく視線をよこしながら考えていると、矢口先生が立ち上がった。

「それじゃ。体調崩さないように」

「ありがとうございました」

 階段の方へと向かっていき、私の言葉に背を向けたまま手をひらひらとさせるだけで返事すると、矢口先生は屋上を出て行った。残された私はベンチに寄りかかり、過ぎていく時の流れに身をゆだねていた。


 夜はあんまり好きじゃなかった。暗く、自分以外の気配を感じない部屋で、ひっそりと息をする。そんな、闇に融け込んでいく瞬間は、孤独を素直に受け入れさせてくれるようで心地良かったが、どうしても好きになれなかった。反対に、朝は好きだった。まだ、うす暗い内に目を覚まし、カーテンを開ける。ベッドの上に座りながらひたすら窓の外を眺め続ける。空がだんだんと白んでいき、灰色からオレンジ、紫から青色へと変わっていく。静寂を保ったままで少しずつ、だけど着実に進む世界。触れることの許されないような、昨日と明日が繋がるあいまいな時間。すべてが混ざり合って境界の無くなるような感覚が私を落ち着かせてくれた。

 昼食を終え、いつものように屋上に向かう途中で、外は雪が降ってるんだったと思い出して引き返す。今日はクリスマスイヴ。サンタもびっくりの最高のホワイトクリスマスだ。この街に雪が降ること自体珍しく、クリスマスに雪が降ったのは何十年振りらしい。ひらひらと舞う雪が少しも途切れる気配無く、上空から降り注いでいる。部屋にギターを置くと、することが無くなった私は、せっかく着替えたんだからと病院を出た。

 病室から見た時と違って、外を歩き始めるとすぐに雪はうっとうしさ以外の意味をなくしてしまった。足跡だらけで所々アスファルトが雪の間から顔をのぞかせている道をゆっくりと歩く。最近、病気が進行してきたからなのか、体力が落ち、気怠さが取れなくなってきている。何も考えずに足を動かしていると、いつの間にか大通りに辿り着いていた。

 コートのポケットに手を突っ込み身を縮まらせながら、人の波に逆らわないように歩く。どこからか聞こえてくる安っぽいクリスマスソング。決まったパターンだけを繰り返すイルミネーション。それらの全てが何か特別なもののように感じられるらしく、すれ違う人は皆幸せそうな顔をしていた。

 一週間前、翔太が死んだ。私はちょうどその時病院に来ていた稜とそれに立ち会った。必死に涙を堪える翔太の両親とは対照的に泣きじゃくる私を、翔太はそっと撫でてくれた。そして稜に向かって

「唯名をよろしくね、稜にぃ」

 と言うと部屋を見回し、最後に手を握る私に笑いかけ

「これだけで良かったんだ」

 と呟き、満足そうに目を閉じた。

 大通りの中心にある大きな十字路の真ん中にある大きなクリスマスツリーを円状に取り囲む背もたれのないベンチに腰掛けた。落ち着いて考えるとかなりの距離を歩いていることに気が付き、急に足が重くなったので少し休憩する。吐いた息の白さを確かめる。

 種の明かされた手品で人々を騙すように煌めく街。暗くなり始めた空には転々と星が浮かび始めていた。ぼんやりと眺める雑踏の中には不幸そうな人間はいないらしかった。

 そんなものなのだろう。幸せも優しさも雰囲気だけで満足できるのだ。生きるということもまた然り。そこに何か空っぽな印象を受けるのは、私の我儘に過ぎないのだ。でも、それでも、あの時流した涙は本物だと信じたかった。

「風邪ひくぞ」

 びっくりして声がする方向を向くと稜がいた。そのまま隣に座る彼を私は見つめ続ける。病院には違う行先を伝えて出て行った上に、携帯も忘れてきてしまったので、誰も私の居場所を知らないはずなのだが。勿論心配かけるつもりも毛頭なかったけれども。

「どうして分かったの?」

「何となく」

 ポケットから懐炉を取り出し、私に渡しながら稜は言った。冷え切った手に広がる熱が少し擽ったい。

「稜」

「何だ?」

「私が死んだらさ、ギター貰ってよ。アコースティックギター」

「エレキの方は?」

「セントブルースは高かったからだめ。あれと私作のエフェクターは軽音部のものにする」

「なんでだよ。呪われそうで誰も使えないぞ」

 本当はよく分かってる。アコギの方は紡がれてきたもので、エレキの方は私が紡いできたものだからだって。私の時間を稜に押し付けるのは悪い気がするからだって。それでも、何かを彼に残してあげたいという身勝手な思いを叶えたいだけだからだって。

「唯名」

「何?」

「……何でも無い」

「何よそれ」

 私が不機嫌そうな声を出すと、稜はきまりが悪そうに笑った。私は気付いていた。私と稜が他の皆のように一緒に遊びに行かなかったのは、お互いを知るあまり相手への思いが自分のためのように感じられるからだと。そしてこの一年、そんな隘路を飛び越えて稜は私に優しくしてくれていると。考える時間だけは余り有る私が、下らない水掛け論を自分の中で繰り返して出した答えを、彼は持っていた。けれども、そんな純粋な思いを逆に稜に返す術を私は持っていない。何もできない歯痒さと、残された時間への焦りだけが募る。たまらなく自分が嫌になりそうだった。

「稜」

「今度は何だ?」

「……何でもない」

 黙り込む私の手をそっと稜が握る。私はその手を固く握り返し、言葉のない会話にただ耳を傾けていた。


 朝食を済ませ、窓を開けると心地良い風が入ってきた。三月が終わろうとしており、街には気の早い春が訪れ始めていた。優しく髪を揺らす風の中、目を閉じると、この前あった卒業式の光景が浮かんできた。

 熱っぽさを伴った身体で出席した卒業式は正直しんどかったが、なんだかとても大事なものをはっきりと形にするみたいで嬉しかった。これまでとここからを線引きする。私にはこれまでしか無いけれど、皆と共にそんな瞬間を分かち合えたのは幸せだった。軽音部の皆との最後の演奏中、泣く人も少なくない中、一人だけ終始笑い続けているのに自分でも気づかなかったのは恥ずかしかったが。

 ノックもなしにドアが開いた。

「稜じゃない。どうしたの?」

 稜はベッドに座る私のもとへ歩いてくるとこう言った。

「出かけるぞ」

「はぁ?」

「ほら、早く仕度しろって。外出届はもう出してあるから。ロビーで待ってる」

 部屋を出ていく稜を見送った後、しばらく唖然としていた私は、とりあえず言われた通りにすることにした。寒くならないように薄めのカーディガンを着て、財布等をポケットに突っ込み、ロビーに向かう。私と合流すると稜は病棟を出て少し歩き、一台の普通車の前で止まった。良子さんの車だ。

「どうぞ」

 助手席のドアが開き、稜が言った。

「はい?」

「いいから、いいから」

 わけが分からないまま助手席に乗り込むと、稜はドアを優しく閉め、自分は運転席の方へと回った。何食わぬ顔でシートベルトを締め、エンジンをかける稜に私は言った。

「ちょっと。いいかげん説明してほしいんだけど」

「免許取った。夏休み中に。大学に合格するって条件付きで校長から許可取ってな。まぁ合格したから関係ないんだけど。行きたがってたんだろ?旅行」

 そう言って恐る恐るアクセルを踏む稜に、私は何も言えなかった。開いた口が塞がらないとはまさにこれかと、混乱する頭がいい加減なことを考えているのが分かる。のろのろと動き出した車は国道に出た。私はシートベルトをしてないことに気付き、慌てて締める。

「どこ行くの?」

 ウィンカーを出すのが早かったり、直線でフラフラしたりする稜のぎこちない運転にも慣れ、落ち着きを取り戻すと、今度は旅への期待が膨らんできた私は訊いた。

「隣の県のS町。そこでまず昼飯に鰻食って、温泉入って、喫茶店でゆっくりして帰る予定」

「最高だね」

 車内を見回すとCDケースを見つけた。中を見ると色々なジャンルのたくさんのCDが入っていた。どのCDも良子さんらしさがうかがえる。

「CDかけていい?」

「お好きにどうぞ」

 お気に入りのジャズバンドを見つけて、早速かけてみる。高域から低域までバランスのとれた、品の良い音が流れてきた。心地良い空間的広がりを持った音の世界が出来上がる。おそらく付け替えてあるであろうスピーカーの値段が少し気になっていると、車は高速道路に入った。

「そういえば、初心者マーク貼ってた?」

「ん……」

 やっぱり忘れていたか。乗るときに見なかったなとは思っていたのだが。詰めの甘い奴め。

「事故ったりしたらどうすんのよ?」

「警察より先に良子さんに殺られるから良いんだよ」

「はいはい」

 外に目をやると、市街地が広がっているのが見えた。不揃いな高さのビル群。所々緑が残っているのが、私の暮らす町が少々田舎であることを物語っていた。よく知っているはずの街の、知らない景色が遠ざかっていく。

「トイレとか行かなくて大丈夫か?」

 休憩所の標識を見た稜が言った。

「確か次の休憩所まで長かったよね。寄ろう」

「了解」

 高速の横から坂を下って、駐車場に車を停めると、稜を車に残したまま私はトイレを済ませた。車に戻る前に出店でペットボトルのお茶とプラスチックの容器に入った出来たての大学芋を買った。

「お待たせ。はい、お茶」

「サンキュー」

 お茶を一口飲んでから稜は車を発進させた。しばらくして私は大学芋のふたを開けた。甘い匂いが広がる。

「何買ってきたんだ?」

 稜がこちらを見ずに訊いてきた。私はアツアツの芋に苦戦しながら答えた。

「大学芋。稜も食べる?」

「食べる食べる」

 ハンドルを握っていない左手に、大学芋を刺したつまようじを渡す。予想通り稜はまるごと一個口に放り込んだ。

「熱っ!」

「ははは」

「先に言っとけよ!」

 私は笑いを堪えながらつまようじを受け取り、代わりにお茶を渡してあげた。

「それにしても、旨いな、これ」

「うん」

 お茶で口を冷やした後、稜が言った。景色は変わり、左右には山が広がっている。空港行きの大きなバスを追い越していく。

「私さぁ、稜と付き合い始めた頃、大変だったんだよ」

「何で?」

「稜は顔もそこそこ良いし、人当たりも良いし、ちょっと細過ぎるけどスタイルも良いから結構女子の中で人気だったんだよ。だから何であんたが篠崎くんとってすっごいいじられた」

「嬉しいのか嬉しくないのか良くわかんねえなぁ」

 稜は笑いながら続けて言った。

「俺も大変だったんだぞ?唯名も男子の中で人気だったからな。お前が何で我らが歌姫春山さんとって他の男子に殺されかけた」

「それ本当?」

「本当、本当」

 何にも追われず、責任も伴わない空気のような自由な時間。隣には好きな人が居て、別に会話は無くたっていい。誰のためでもない自分。生きてるってこういうことなのかなとか、次々に横を通り過ぎていく山々を見ながら、私は大袈裟に考えていた。途方も無く大きな世界の中で、私が生きる範囲はほんの僅かで、こうして遠出することは出来ても、全てを知ることは到底叶わない。でも、その小さな自分しか生きれなくともそれで十分なのだ。飽きたら自分を広げればいいし、いつでも戻って来れる。そんな旅を繰り返して、出会った誰かや何かと自分を繋ぎ、切り離していく。

「ちょっと地図見といて。後ろのバッグに入ってる」

「道知らないの?」

「高速降りた先はまったく。道案内よろしくな」

 稜の適当さに呆れながらも、カーナビなんかよりずっといいなと思いつつ、私は地図を開き大きく印のつけてある所を見た。街を出て二時間程で、高速のインターチェンジが現れた。地図を何回も引っ繰り返しながらする私の指示で、辿り着いた最初の目的地は木と瓦で出来た縦に長い大きな鰻屋だった。まるで店が江戸時代からそのままタイムスリップして来た様だった。黒ずんだ木の壁が誇らしげに日の光を受けている。

 春休みだからなのだろう、中は客で一杯になっていた。せわしなく動き回る店員の一人について行き、迷路のような店内を進むと、小さな囲炉裏に着いた。稜と囲炉裏を挟んで向かい合うような形で座る。

「すごい店だね」

 外見同様、建物内も歴史がひしひしと伝わるような様子だった。太い木の柱、やや黄色を帯びた障子、所々破れた畳。それら全てがこの店が過ごしてきた歳月を物語っている。

「聞いてはいたけど、想像以上でびっくりした」

 稜が囲炉裏の灰をいじりながら言った。しばらくするとお茶となんやら魚の骨を揚げたものが出てきた。

「何これ?」

「骨せんって奴らしい。鰻の骨を揚げたものだって」

「ふーん」

 生々しいヴィジュアルに少々抵抗を感じながらも一本手に取ってかじってみた。思っていたよりも柔らかく、少々魚特有のあの苦い味がしたが、塩が軽くまぶしてあるので、割とあっさりした後味だった。

「おいしい」

「おいしいな。この塩が何とも」

 稜も気に入ったらしく、既に二本目に手を出していた。一本目を食べきったところで私はあることに気が付いた。

「そういえば、メニューとかないの?」

「この骨せんとお茶とうな重しか出ないんだってさ。それとお酒」

「何かそういうのいいね」

 二人で競い合う様に骨せんを食べ終わると、お待ちかねのうな重が出てきた。稜とせーので蓋を開けると、香ばしい匂いが広がった。さっと目を合わせ

「いただきます」

 と同時に言うと、がっつく様にうな重を平らげた。二人とも炭火で焼かれた鰻の芳しさと柔らかさ、そしてたれの絶妙な甘さに夢中になってた。一言も発することなく、あっという間に食べ終わり、

「ごちそうさま」

 を済ませると私は思わず笑い出してしまった。

「いやー、無言だったね」

「無我夢中だったもんな」

 そうして満足げに私達は店を後にした。レジの所で売られていた骨せんを忘れずに買って。

「さて、案内よろしく」

「任せといて」

 鰻屋から目的の旅館まではそんなに時間がかからなかった。下町の狭く入り組んだ路地を抜けたところにそれはあった。鰻屋と同じく、こちらも何か時代を感じさせる風情だった。砂利が敷き詰められた駐車場には、私達以外の車は見当たらない。

「えらく空いてるね」

「良子さん曰く、知る人ぞ知る秘湯らしい。まぁ人が多いよりいいよ」

「それもそうか」

「ほら、唯名の分のタオルとか色々」

 稜からバッグを受け取り中へ入ると、大きな玄関の中央は男湯と女湯と書かれた暖簾のかかった二つの入り口がすぐに目に入った。私はその、旅館の入り口が風呂の入り口みたいな雰囲気がなんだかとても懐かしく感じられた。さっそく受付を済ませ、中に入る。

 暖簾をくぐると大きな二十段ほどの階段があって一番下が浴場につながっていた。階段の真ん中あたりに踊り場があって、木の棚と籠があるだけの脱衣所となっている。部屋の四方を囲む壁以外は仕切り等は無く、踊り場から浴場が見下ろせった。

「すげー」

 隣のほうから声が聞こえた。

「聞こえてるよ、稜」

 誰も居ないことをいいことに壁越しに話す。

「何というか、開放的だな」

「だよね」

 体を洗い、たった一つしかない大きな湯船に浸かった。自然と息が吐き出される。体を伸ばし高い天井を見つめる。

「ふぅ」

 どうやらお隣さんも入ったらしい。タイル張りじゃなくて、岩を敷き詰めただけの床。少し凸凹になっている木の壁。色褪せた桶。体がじわじわ温まってくる。この旅館が紡いできた時間。私がその中の一つになれたのが何となく嬉しかった。

「稜、怒らないでね」

「何だ?」

「なんでそんなに優しいの?」

 つかの間の沈黙の後、稜が言った。

「今言うべきじゃないな」

「何それ」

 そうだった。こういう大事なことは直接顔を合わさないと言わない人だった。その後は二人とも言葉を交わさずに、身に覚えの無い懐かしさを満喫していた。

「さて、お次はと」

 瓶の珈琲牛乳を飲んでゆっくりした後、私達は車に乗り込んだ。まだほんのりと温かい体に、フロントガラス越しに春の陽気な陽の光が降り注ぐ。

「最後は喫茶店だったな」

「この店って有名なの?」

 地図についてある丸印を指差しながら聞くと稜は車を発進させながら言った。

「良子さんの幼馴染がやってる店だって」

「ふーん。あ、そこ右ね」

 大通りをちょっと横に逸れた所に“Breaktime”という看板を掲げるその店はあった。木で出来たドアは開けるとぎぃっと軋むような音を立て、吊り下げられた鈴がそれを誤魔化すように鳴った。中はテーブル席とカウンター席がいくつかという具合。珈琲の薫りが身体を包み込んだ。

「いらっしゃい」

 カウンターの奥から声がした。この店の主人と思われる女の人が立っている。真っ赤な髪に真紅の瞳。

「おじゃまします」

 口をついてそんな言葉が出た。この店の中に漂う、過去と未来がちょうどいい割合で混ざり合う様な空気を感じたからかもしれない。

「良子さんから話は聞いてる。好きな席に座っていいよ。今日は誰も来ないようにしてあるから。終わりに向かって歩き続けるしかない二人の旅の終点に相応しいようにね」

 少しクサい台詞だが、この店主なら似合っている。終わりを定められた二人。その言い方は普通だったらむっと来るのだが、何故かそのフレーズが素敵なように感じられた。何となくロマンチックで儚いイメージ。

 いつも通り、二人でカウンター席に並んで座る。きょろきょろと店内を見回す稜を横目に、私は主人に訊ねた。

「あの、お名前は」

 慣れた手つきで珈琲を淹れながら主人が答えた。

「小林秋。君は唯名ちゃんで隣の彼は稜君でしょ?」

「えっ、何で知って……」

「何となくって言ったら、信じる?」

 この人ならあり得るかもしれないとか馬鹿げたことを考えながら私が黙っていると、彼女は悪戯っぽく笑って

「冗談だよ。良子さんから聞いてたの」

 と言った。不思議な人だ、と素直に思った。自然と人を引き込んでしまうような。

「はい、当店自慢の珈琲とガトーショコラになります。おかわりは自由だから、ゆっくりしていってね」

 私たちに皿を渡すと彼女はカウンターを離れ、部屋の隅においてある小さなピアノを弾き始めた。耳に届くまでに消えてしまいそうな、でも決して弱々しくない音。その音色に耳を傾けながら珈琲を飲む。

「おいしい」

 稜と目が合った。彼も同じ気持らしい。慌ててケーキに手を付ける。うん、おいしい。

「はー、幸せ」

「袖にチョコついてんぞ」

「うっ、ホントだ」

 顔を赤らめる私を見て笑う稜。何でもなくて何にも代えられない、待たなくても急がなくても良い時間。珈琲を二杯おかわりした後、意を決して私は訊ねた。

「あの、そこのギター弾いてもいいですか?」

 私が指差している、部屋の角にあるギターとアンプを見て、秋さんは答えた。

「いいよ。アコギもあるから稜君の方はそっちでいいかな?」

 二人でテーブルを動かしてスペースを作った。秋さんからアコギを受け取る稜を横目に私はアンプをセッティングした。小さめでかわいらしいローランドのジャズコーラスにギブソンのフルアコ。力強いが主張しすぎない老成した音。準備は万端だ。

 音で、声で二人だけの世界を作った。言葉に似た、不確かな何かで会話する。空白すらも世界の一部になった。

 愛、優しさ。自分の知らないうちに人のためになれること。理由もなく誰かに何かをしてあげること。思ったよりも難しくないみたいだ。

 音に飲み込まれてく。考えるよりも先に身体が動く。思考の仕方を忘れる。二人を繋ぐ何かだけを頼りに進み続ける。

 私に自分しかないなら、相手を自分にしてしまえばいい。稜という軌道と私という軌道を重ねる。その間にある距離を泳がなくても済むように。そうすることで稜は私に優しさをくれていた。

 寄り道をしながら少しずつ、着実に二人が近づいていてゆくのが分かる。音に溶け込んだ心が互いを引きあう力に従って。

 綺麗事。そんなこと分かってる。でも、触れればたちまち砕け散ってしまうガラス玉のような、形は無くとも輪郭はかろうじて感じることのできる、透明で温かい光のようなこの純粋な思いは確かに存在するのだ。そう信じたいだけなのかもしれないけど。そして、そんな優しさを逆に返してあげたいという私の思いは実は必要無かったのかもしれない。私だって稜と重なっていたのだから。

 あともう少し。もう互いにどちらの音なのか分からなくなってきていた。そうして、待ち焦がれたその瞬間訪れた時、私は言った。

「ストップ」

 稜の手がピタッと止まった。何となく分かっていたという様な顔。

「おつかれさま」

 そう言う秋さんがテーブルを戻すのを手伝って私達は店を出た。

 帰りの高速道路の途中、骨せんをぼりぼり食っている私に、稜が言った。

「唯名」

「何?」

「愛してる」

「知ってる」

 知ってるし、これからも忘れることは無いだろう。私の最初で最後の恋人が、私を愛してくれていたことを。好きとかそういう次元を越えて。

「稜」

「何だ?」

「愛してる」

「知ってるよ」

 そう言う彼は照れ臭そうに笑っていた。茜色に燃えた夕焼けの中で。


 体が熱い。汗が止まらない。飛び飛びになる意識の中で、痛みだけが途切れることなく伝わってくる。矢口先生や私を取り囲む見知った顔の看護師が何やら叫んでいる。私は残された力を使って首を動かし、焦点の合わない瞳で部屋を見回した。父さん。母さん。そして……。

「稜」

 蚊の鳴くような声で呼ぶと、彼は私の顔を覗き込んだ。

「何だ?」

 震えた声。強がっちゃって。

「ありがとう」

 ありがとう。私は幸せでした。本当にそう思う。

「知ってる」

 彼の顔を一筋の涙が流れるのを見た後、私は二度と開くことのないであろう重い目蓋を閉じた。もう満足だ。光が近付いてくる。温かく優しい光が……。

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夢野言乃葉 @yumenokotonoha

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