きょうだい

夢野言乃葉

きょうだい

 雨は昔から好きだった。灰色の空。濡れた地面。鳴り止まぬ雨音。モノクロの世界。いつもとは違う表情を見せる街を、傘を差してとりとめのないことを考えながら歩くのが好きだった。降りすぎても、降らな過ぎてもダメで、水溜りが道に少し出来るくらいがちょうど良い。

 今日もそんなちょうど良い雨模様で、緑のコートを羽織り、紺色の傘を持って、私は久しぶりに駅から中途半端に近い祖父母の家から出た。五分ほど歩いたところで、そういえば目的地を決めていないことに思い至り、朝食がてら行きつけの喫茶店に向かうことにした。クリスマスが近く、色とりどりのネオンで華やかに輝く街角を、マフラーに首を縮こまらせて歩く。白い息が湿っぽい空気に溶けていく。

 現在私はスランプの真っ只中である。上手くは言い表せないが、自分でもスランプと認められるほどの悩み、というより変化の中にいる。生きることの意味を失ったと言えば大袈裟極まりないが、それに似たどろどろとした、底の見えない感情の渦に呑まれている様な感覚に囚われ続けていた。きっかけは先月末の祖父の死ではあるが、直接的な原因はこれまで私が少しずつ積み重ねてきながらも、見ないふりをしてきた、というより受け止められていると思い込んでいた、自分の生に対する違和感にあった。

 喫茶店に着いた。傘を大きな木製の樽で出来た傘立てに入れて、中に入る。途端、香ばしい珈琲の匂いに包まれた。平日の朝十時という時刻にも関わらず店内には自分の他にも客が七、八人いて、元々少ない席は結構埋まっていた。いつも通り窓際の隅の席に腰掛けると、注文を取りに来たこの喫茶店を一人で経営している女主人が言った。

「おっ、久しぶり。注文は?」

「カフェモカ一つと、ハニートースト一つ」

「アイスは何個のっける?」

「あ~、二個で」

「了解。じゃ、ちょっと待っててね」

 そう言って女主人はカウンターの方へと戻っていった。真っ赤な髪を持つ彼女は、不思議な雰囲気を持つ人で、その、他人に対する程好い距離感から、この店にくる客に慕われていた。十数分後に運ばれてきたハニートーストを、空のままの胃袋をいっぱいにする勢いで食べ終わると、私はカフェモカをゆっくり飲みながら人間観察を始めた。他の客や、窓から見える外の往来をぼんやりと眺める。あの人はだめ。あの人は良い。身に着けている時計やバッグ、服装、歩き方、表情。それら全てを統合して、勝手な人物像を作り上げる。

 意味の無い遊びと分かってはいるものの、人間関係もそんな意味の無い遊びに過ぎないのかもしれないと思う自分もいる。自分の中で相手のイメージを作り上げ、見た目に騙され、言葉に裏切られ、そしてまた自分も相手を騙し、裏切り、ついには自分自身すらも騙そうとする所業の繰り返し。腹を探り合いながら、それでも信じようとする。自分勝手な想像に縋る。それを承知していながらもやめられず、やがて他人や自分を騙すことに慣れ、その実それによって蓄積されていた痛みに気付かずにいた代償が今の私の悩みの原因の一つなのかもしれない。

 ドアにぶら下げられたベルが乾いた音を立てて来客を告げた。自分と同じくらいの歳の女と、その母親だと思われる二人が入ってきた。席に着き、注文を終え、楽しそうに笑いながら会話する二人。そんな二人の様子を私は眺めた。

 家族が嫌いだ。この世で一番近い存在である家族が。その近さゆえに。自分が一番信頼していない他者が、自分の一番身近な存在であるのが苦痛だった。

 小学校三年生の時だっただろうか。私は学校でいじめを受けていた。ある一人の友達によって。その子の苗字は有川で、みんなからはあっちゃんと呼ばれていた。同じクラスになったその日に私はあっちゃんと友達になった。あっちゃんは成績も運動も平均より少し出来るくらいで、クラス内ではそこそこ人気があった。あっちゃんは私の他に三、四人の子と一緒に特別親しいグループを作った。始め、それはただの本当に仲の良いグループであったのだが、一ヶ月ほど経った頃、あっちゃんがその本性を現した。グループは、あっちゃんの他は私も含め少し気の弱い所がある子で構成されており、暗黙の内にリーダー的地位にあった気の強いあっちゃんが、仲間の一人を難癖つけて孤立させ、グループ内の他の皆でいじめ始めたのだ。そして、その子をいじめるのに飽きると仲直りして今度はその子と一緒に別の子をいじめた。そんな風にグループ内で標的を次々とかえながらある種の恐怖政治を行った。お互いにいじめ合ったことのあるあっちゃん以外のメンバーは、その後ろめたさゆえに協力してあっちゃんを責める事も出来ず、また、大きな矛盾をはらんではいるもののそのつながりの強さゆえにグループを抜けることも出来ず、次の標的になるのは自分ではないかと怯えながら、あっちゃんの気分を損ねぬよう細心の注意を払って毎日を過ごした。しかも、はたから見れば本当に仲が良いグループにしか見えないのだ。あっちゃんは誰もいないところでは標的を直接的にいじめ、誰かいるところでは標的から距離をとって無視するにとどめることでいじめの実態を隠し、標的が他のグループに馴染みそうになると天使のような笑顔で仲直りをして新たに標的を作り上げ、決して誰も自分のグループから逃がさなかった。私達は教師も、親も、誰も頼みにすることは出来なかった。当時、母に塾に通わされ、いくつかならいごともしていた私は、家に帰ってきてからも少ない自由時間を、あっちゃんに目をつけられないような自分を演じた疲れを本を読んだりすることで癒すことに全て使っていた。そんな風に、あまり外で遊んだりせず、また、満点を取って当たり前の学校のテストもあっちゃんへの恐怖からわざと低い点数を取っていた私に、母はかなりの嫌悪感を抱いていた。

 ある時、理科の実験でモンシロチョウを育てることになった。卵をキャベツの葉の裏から探し出し、孵化させて蝶まで育てるというもの。これが簡単なようにみえて中々難しく、クラスの半分以上がまず孵化して間もない内にリタイヤ、順調に育てられていたのは少数だった。私は幸運にもその少数の内の一人で、青緑色のグロテスクな幼虫をかわいがっていた。母はというと、当人である私よりも盛り上がっていて、熱心に私を指導していた。ふんの始末やら、えさの量やら。プラスチックの中の幼虫は私の期待に応えるようにどんどん大きくなった。だが、事態は思わぬ方向へと向かうこととなる。

「ねぇ、私の子死んじゃったんだけど、あの子って薫ちゃんが卵を渡してきたよね」

 あっちゃんが自分の幼虫の死骸の入ったプラスチックを持ってきて言った。中には処理されずに残ったままのふんと腐ったキャベツの葉が一緒に入っていた。

「うん」

 私が、中々卵を見つけられないあっちゃんのために卵を見つけてあげたのは本当だった。私が頷くのをしっかり確認してからあっちゃんは続けた。

「私にははずれを渡して、自分だけ当たりを引くなんてずるいね」

 無表情。その目には邪悪な光が宿っていた。

「そんな……」

「だったらその子とこの子、交換してよ。いいでしょう?」

 何の筋も通っていない言いがかり。もはや言いがかりと呼べるのかも怪しい。だが私は“あなたが何も世話をしてあげないからでしょう?”と言う代わりに一言

「うん」

 と言って交換した。あっちゃんの言葉は絶対なのだ。何か気に食わないことがあれば標的にされる。

「ありがとう。やさしいね。薫ちゃんは」

 このとき私はあっちゃんの“やさしいね”という言葉にただ不快感を抱いただけだったが、思えばこの言葉は意外なほど深いところで私という人間を捉えていたのかもしれない。私は哀しさと虚しさを、自分の安全の代償なのだと割り切るのに一所懸命になりながらその日を過ごし、家へと帰った。今日はならいごとも塾もないから休んで寝るだけ。明日になればいつもみたいに気分を変えられているだろうと私は思っていた。それで終わりだと。私だけの問題だからだと。

 ランドセルを玄関に置き、二階の自分の部屋で着替えている時だった。階下から母の呼ぶ声が聞こえ、私は下に降りて行った。

「どうしたの?母さん」

「薫?モンシロチョウがいなくなってるよ?」

 母が空っぽのプラスチックを持ち上げて言った。私はあらかじめ用意していた言葉を発した。

「あれ?本当だ。葉っぱを入れ替えている途中で逃げちゃったのかも」

 次の瞬間、今まで感じたことの無い衝撃が私の頬を襲った。母が思いっきりぶったのだ。何が起こったのか理解出来ず茫然としている私に、母は言った。

「探しなさい」

 母に手をつかまれ、半ば引っ張られる形で学校に着いた。母の目は冷たく、口は固く結ばれていて、もちろん小学三年生の私はそれだけでもう震え上がっていたのだが、それ以上に、自分のものでもないモンシロチョウに固執する母を理解できない恐怖が私を震撼させた。裏手のキャベツ畑で見つかるはずも無いモンシロチョウの幼虫を探す私と母。あの子は今頃あっちゃんのもとでろくに世話もされないでいるだろう。私はあの子を捨てた。それは私も痛いほど自覚している。でも、何故それをこんなにも母に責められなければならぬのか。とうとう我慢できなくなった私は泣き出してしまった。

「なんで泣くの?」

 冷たく言い放つ私。黙る私。

「薫、もしかして……」

 その時藁にも縋る思いでいた私は、母がもしや全て理解してくれたのではないかという勝手な想像をした。弱りきった心はついそんな都合の良いことを考えてしまう。だが、母が次に発した言葉は私を打ちのめした。

「本当はモンシロチョウが死んじゃったんじゃないの?だからいなくなったなんて嘘ついて」

「ち、ちが……」

「そうでしょう?それなら筋が通るじゃない。あなたは母さんを騙したのね」

 色の無い顔。その目は私をあざ笑うかのようにつり上がっていた。私は終わったと思った。全て。

「謝りなさい。人を騙すなんて」

「……ごめんなさい」

 それから母は私に延々と命の大切さや正直者の美徳なんかを諭しつつ一緒に家に帰った。私はそれを理解し納得したような顔で頷くだけだった。その日の夜、私はもう死のうなんて思いながら死ねない自分が嫌になって泣いた。

 所詮人間なんてこんなものなのだ。嘘も真実もない。その人にとって正しければそれが真実。逆もまた然り。いくら何を言ったって、どうしたって、その人にとっての真実はかわらないのだ。自分勝手な生き物。空っぽのプラスチック。その中にいる私をあっちゃんや母が眺めている気がした。

 あっちゃんは今度はちゃんと世話をしたようで、私があげたモンシロチョウは順調に育った。見事に蝶に生まれ変わったその子がプラスチックの箱から解き放たれた時、私は少し目頭が熱くなった。嬉しくて、妬ましくて、哀しくて、切なくて。後になって知ったことだが、母は近所の奥様方に自分の娘がモンシロチョウをきちんと育てられていることを自慢していたらしい。それで烈火のごとく怒ったのだと分かった時、私は母にそのことを問うわけでもなく、下らないなと見下げるわけでもなく、ただ納得したような気分になっただけだった。

 それから私はよく笑い、よく人を笑わせるようになった。おどけたふりで人の輪に入っていきながら、その実、心の中ではどうせ自分を理解してくれる人などいないのだと孤独を貫いた。一人で生きていく恐怖に耐えられないだけなくせに、一人ぼっちは外聞が悪いだけだと、自分は本当は孤独を愛しているのだと、道化を演じる理由を誤魔化した。他人も自分も騙す嘘。誰も傷つかない、いや、自分だけが傷つく嘘を繰り返した。やさしい人だと言われることが多くなった。やさしくすればそれ相応のものが返ってくるなんて言葉は甚だ信じてはいなかったが、少なくとも敵意は持たれないとは思っていたので、私は適度にやさしさを振りまいた。自分の為に手を差し伸べるのは苦ではなかった。もちろん、つけこまれぬよう、やさしさに理由をつける注意は必要だったが。そんな風にして中学生までは至極太平にやっていけていたと思う。

 私は母に対してはほとんど本心を明かさなかった。母が思っている通りの自分を演じた。母にとっては理想の私こそが私なのであり、それ以外は認められない。それは母が証明したことで、ならそこにもう私はいらないんじゃないかと開き直ったような気持ちで母を騙した。時折、母は気に食わないことがあると、いつかの日と同じように薄ら笑いを浮かべて”嘘つき”と言い放ったが、そんな時私は反省したふりをして母に対して憐れむような気持ちを抱いた。もちろん私が結局は母という存在に抗えなかっただけのひねくれた餓鬼に過ぎないことは重々承知している。だが、小学三年生という、自我を形成する要因も少ない時にそんな抵抗が私に出来たのかと言われれば、それは無理なことのように思えるのだ。友達にいじめられ、母には理解されず、人間不信に陥っていたというのは言い訳にしかなり得ないが、私がひたすらに自己を隠し、他者に写る自分を生きる道を選んだことは今でも不可避だったと納得しているつもりだ。そんな自分の生き方に責任を取るだけの気位はあったのである。だからこそ、血の繋がっているだけの赤の他人に過ぎない、自分に一番近いだけの他者である家族を大切にしろなんていう主張には反吐が出た。家族が大切なのは家族だからじゃない。その人が自分にとって大切だからだ。自分と距離が近い分、家族がそういった存在になりやすいというだけではないか。そんな反発が常に心の内にあった。

 カフェモカを飲み終え、私はレジに向かった。店主がハニートーストに乗せるアイスの分の値段を勘定に入れ忘れていることに気付き、指摘すると

「あ、ホントだ。まぁ、レジ打ち終わっちゃったし払わなくていいよ」

 と言って店主は微笑んだ。何回もこの店に来て話をし、彼女のことをある程度理解している私は、改めてその鋭さに感心した。自分より何歳か年下のように思われる彼女は、私が何かしら問題を抱えているのを見抜くのはもちろんのこと、私が理由の無いやさしさを嫌うことすら見抜き、“つらそうだからまけてあげる”とは言わずに自分の非という理由を作ってから、私にやさしさを差し出したのである。近すぎず、遠すぎない距離。私は笑って

「本当?よかった」

 と言って代金を払い彼女の気遣いを受け取って、少し温かい気分で店を出た。


「こんなもんですかね。何か質問はありますか?」

 そう言って一通りアパートの説明を終えた後、不動産屋の須藤は私に向き直った。年は二十代後半だろう。身に着けている時計類からみるに若い割に中々のやり手だと推測できる須藤は、大学三年生である私が年が近いからか、話している内にすぐに打ち解け、例えば、冬場はお湯が出にくい、近所に口うるさい老人が住んでいる等々、本当なら言ってはいけないようなきわどい情報まで親切に教えてくれた。

「無いです」

 私は自分の部屋を思い浮かべながら言った。私は大学生になった時に、家族と一緒にいることを嫌い、地元の大学にも関わらず、自宅ではなくちょうど空いていた祖父母の家の二階に住み始め、現在まで至るのだが、大学二年生の時に祖母が亡くなり、そして二週間ほど前に祖父が亡くなったことで出て行かなければならなくなったのだ。勿論、今すぐ出て行かなければならないわけでは決してなく、新しい住処を見つけるのはまだまだ先でも良かったのだが、祖父が死んだ日から続いている生への虚無感を何とかするために一週間学校にも行かずバイトにも行かずただぼんやりと過ごそうと決めてそれを実行中の私は、それでももし何日間も何もせずにいたことを後悔した時の自分に対する言い訳の口実を作るために、また、友達その他に“何していたの”なんて訊かれた時のそれなりの答えを作るために、アパート探しなんて面倒なことをしているのだった。幸い、この、対面だけを保とうとする私の嫌いな母譲りの性格と、何をするにも自分を騙すための保険を作っておこうとする私の弱さから始まった作業は、意外にもすんなり事が運び、私は少し早いクリスマスプレゼントかななんて馬韓なことをちょっとだけ思ったりした。

「では、これが決して最終決定というわけでは無いのですが、とりあえず説明を聞いてどう思われているのか聞かせてください。住むのか、住まないのか」

「住みます」

 私は即答し、自分の新たな住処になるであろう部屋を再び見回した。キッチン、バスルーム付き。洗濯機は共同じゃない。一人には少し広く、二人には狭いくらいの広さ。エアコンもあり、日当たりは悪くない。駅には程良く遠く、二階建てで部屋は合計八つと少ない、アパートの一室。全体的に古いというよりボロいという印象があるが、家賃を考えれば少しも気にならない。畳敷きのくせにトイレは洋式な所など、中途半端な所も私に似ていて気に入った。

「分かりました。手続きはすぐ始めたいですか?」

「というと?」

「必要な書類は、私の作った説明書と一緒に持ってきているので、今渡せます。今日持ち帰って記入を済ませ、次回持ってきていただければそれで手続きを完了できるということです。私の事務所で長々と説明されることもなく」

 なるほど、この須藤という男がやり手である理由が分かったような気がした。客のことをよく分かっていて、表には表れにくい欲求にきちんと応えている。面倒なことをせず、早くことを済ませたいという。

「なるほど。じゃあ、今貰うことにします」

 須藤はバックの中から厚めの封筒を取り出して言った。

「こちらになります。分からない所があったら遠慮なく電話で訊いて下さい」

 封筒を受け取り、私は須藤と一緒に部屋を出た。階段を下りる途中、須藤が不意に質問してきた。

「朝倉さんは一人っ子ですか?そんな雰囲気がするのですが」

 私は一瞬沈黙した後

「いいえ、兄がいます。二つ上の兄が」

 と答えた。すると須藤は驚いて

「そうなんですか。いやぁ、何かこう芯がある様な感じが一人っ子みたいだと思ったんですがね」

 と言った。

「あ~、よく言われます」

 私は笑いながらそう言って階段を降り、ちょっと実際に駅まで歩いてみたいと思い、“家まで送りますよ”という須藤の言葉を断って、彼の車を見送ってからアパートを後にした。

 歩き始めてニ、三分経った頃、私はアパートに傘を忘れてきたことを思い出した。朝から降り続いていた雨は、アパートを見ている間にすっかり止んでしまっていた。雲の切れ間から所々差し込む太陽の光が、住宅街を照らす。吹き抜ける風。心地よい湿っぽさを伴った空気を思いっきり吸い込む。青空が顔を出し始めた。少しずつ色を取り戻していくモノクロの世界。煌く水滴。どこか神々しささえ感じるその風景の中を、私は駅へと歩いた。少し心が軽くなったような気持ちで。何だかんだと考えていても、単純なことでそんな気持ちになれてしまう程度の自分を忌々しく思いながら。

 兄。私は須藤とのやり取りで出たその単語を反芻していた。私に兄がいることは本当だ。ただ、血は繋がっていないが。私より二つ上の兄は、私が六歳の時に養子として朝倉家にやってきた。何の縁も無いただの孤児であった彼が私の兄となった理由は、表向きには一人の可哀想な子供を救うためなんてことになっていたが、多くを語ろうとしない両親を信用していない私は、ただ単に娘ではなく朝倉家を紡ぐ息子が必要だったからだと確信していた。それも優秀な。私に父は医師ではあるが別に自分の病院を持っているわけではなく、紡ぐなんて言葉を使わなければならないほど朝倉家は大層な家系ではないが、両親は、というより母は異常な位に世間体にこだわった。理由は、母の兄弟にある。父は一人っ子で兄弟を持っていないが、母は二人の兄を持っており、一番上の兄はお世辞にもまともとはいえない人で、結婚してからも両親に、つまり私の祖父母に世話になりっぱなしだった。最近引っ越したのだが、彼は家族と一緒に祖父母の二階に住み、色々なことで祖父母に迷惑をかけていた。子供が二十を越えた現在では多少はましになってはいるが。次男はそんな不甲斐ない兄を見て、自分が一家を背負うのだと人一倍努力はしたが、それでもごく一般的なサラリーマンにしかなれなかった。それで母は自分だけは世間様に誇れるような家族を作ることに固執するようになったのである。

 兄はそんな母の思惑を分かっていながら、それでも母の期待通りに育った。幼い頃から厳しい教育を受け、進学校へと進み、現役で地元の大学の医学部に入学した。兄は表面的には朝倉家の私の兄として家族と上手く付き合っていたが、私はいつも兄が必ず一定の距離をとっているように感じられた。それが、本当の家族がいない兄がこの世界で生きていくための手段だったのかは私の勝手な推測に過ぎないのかもしれないが、私は兄の孤独に自分に通じるものを感じ、自然と兄に惹かれるようになった。兄はそんな私を厭うことなくきちんと向き合ってくれていた。

 駅に着いた。時計を見ると十二時を過ぎていた。喫茶店を出たのが十一時だったからまぁ妥当な時間かなんて思いながら切符を買って改札をくぐり、ホームの真ん中に置いてあるプラスチック製の安っぽい水色のベンチに腰掛けた。平日の正午の無人駅はひっそりとしていて、私はその静寂に溶け込んでしまいそうになり、ふと電車なんて来ないのではないかという気になった。止まったままの時間。変わらない自分。

 定刻通りに電車は来た。二両編成のそれに私は乗った。誰もいないがらんとした車内に居心地の悪さを感じ、私はイスには座らずにつり革につかまった。単調なリズムを刻みながら進み続ける身体。看板が、木が、建物が通り過ぎていく。景色を置いていき、景色に置いていかれる。空虚な箱の中で私はそれを眺めた。身体が揺られるのに任せて。

 三駅目で私は電車を降りた。自動改札を抜ける。街の中心に近いためか大きく作られた駅内の売店にはそこそこ人がいた。駅を出たところの広場で、小学生が募金箱を持って駆け寄ってきた。学校の授業の一環なのか他にも数人の小学生が通行人に話しかけている。

「募金して下さい」

 一瞬。そう、ほんの一瞬だった。いつもなら笑って財布を取り出して小銭を入れるのに、私はそれを躊躇った。慌ててポケットに入っている財布に手を伸ばそうとした時には既に少年は次の人に走り寄っていた。私は誤魔化すように行き場を失った手をポケットに突っ込んだままで、再び歩き始めた。

 分かってる。彼が集めているのはお金であって気持ちじゃないってことぐらい。だからこそ私は簡単にお金を入れてあげられるはずなのにそれが出来なくなってしまっている。理由の無いやさしさを押し付けるような人間に成り下がっている自分に戸惑い、呆れながら、私はスーパーで買い物を済ませ、誰もいない祖父母の家へと帰った。


 帰り着くと十三時になろうとしていた。朝食が遅かったせいか昼食を作って食べる気にもなれず、古い錆びだらけの赤茶色の石油ストーブをつけ、私は散らかったままの部屋の隅にあるソファーに横たわった。煙草に火をつけ、ビールの缶を開ける。暗い部屋の中、カーテンの隙間から漏れてくる光で、吐いた煙がうごめいているのが見える。仰向けに寝転がってビールを流し込みながらそれを眺めている内に、段々と夢見心地になってきた。

「なんで頑張らないの?」

 兄と同じ地元の大学の医学部に不合格をし、予備校に通っていた時だった。厳しいことで有名なその予備校で、ノルマとして課されていること以上のことはやらない私に、朝早くから登校し夜は予備校が閉まるまで一所懸命に勉強を続けるある生徒がそう言った。入学した当初ははるかに私の方が成績は良かったのだが、血のにじむような努力のかいあってか、彼女が私に追いついてきた頃だったと思う。

「正しく生きるのと、まともに生きるのは別なんだよ」

 そんな風に答えると、彼女は訳が分からないといった顔をして

「でも正しく生きるのは当然でしょう?」

 と言った。さっきの一言で適当に切り上げようとしていた私は、相手が別に友達でも何でもなかったのもあり、つい熱くなってしまい

「あなたがここでどれだけ頑張っているかは私も知ってる。私があなたに比べてどれだけ頑張っていないかも分かってる。でもね、それは今の話。私だって何もしないで、今こんな風になってるわけじゃない。この十八年間にそれなりのことをしてきたの。あなたの過去はもちろん私も知らないけど、少しの間だけまじめに生きてちょっと結果が出たぐらいで、さも当然のように自分の正しさを押し付けないで。私が自習や授業をさぼっているならまだしも、ノルマはきっちりこなしてるのに、どうして否定できるの?あなたは私の今までを全て否定してるんだよ?何様のつもり?」

「それは……」

 この世の中でね、必要最低限なことはまともであることなんだよ。正しさなんてのはそれ以上を望む人間が勝手にやるもんだ」

 去り際に振り返ると、彼女は悲しそうな同情するような目をしていた。

 高校一年生の時、私は正しく生きることを諦めた。母の熱心な、やや異常な教育のかいあって、中高一貫の進学校に進んだ私は、高一の終わりに一つの選択を迫られた。文系か理系か。私は文系に進みたかった。その先に自分が描く未来があった。母は反対した。“あなたは医者になるのよ。安泰だから”なんて適当なことを言い続けた。私は論理的に学費その他あらゆることについて家族には迷惑がかからないことを説明し、自分の確固とした未来を伝えた。母は聞かなかった。自分が私を論破できないことを分かっていながら耳を塞ぎ、根拠の無い主張を押し付けた。母にとっては母が真実なのだ。母は私にかけてきたお金のことを言い、勝ち誇ったような顔で私を嘘つきだと言った。どうせ楽な方に流れているだけだと。まるでその一言がもっとも私を打ちのめす言葉なのかのように。そうしてある日、私は母を説得するのは無理なのだと悟った。

 母が“嘘つきは家には要らない”と私に包丁を向けて言ったのである。

 その刃は、私が演じているのにも気付かないくせに今更嘘つき呼ばわりなんて勝手なことを言うなよという思いを吹き飛ばし、母の手に固く握られたままで、私の心に深々と突き刺さった。もう自分は駄目なんだと思った。こんな人間が、母親だというだけで、逆らえない自分は。

 それから理系へと進んだ高校二、三年生の時、私は生き急ぐように色々なことをした。煙草も酒も、恋人と身体を重ねたりもした。今まで以上に世間体を取り繕いながら。まともに生きれば良いんだろうと、半ば自虐的に。

 一年の回り道をして大学に入ってからも、予想していたほど自分の本質は変わらなかった。ほとんどの人間は高校生の延長のような気がした。周りの人から見れば平均少し上くらいの人間。人間関係は結構広い方。友達もいる。幸運にも恵まれた容姿と、どことなく漂う孤独な雰囲気に惹かれるのか、男うけも良かった。人の輪の中心に近い方にいながらも、人との距離は悟られないくらい少し空いている。そんな自分を生きてきた。

 ソファーに寝たままぐいとビールをあおる。ストーブが燃える音だけが部屋に響いている。

 祖父の葬式の光景が思い浮かんできた。控え室でめいめいに祖父との思い出を語り合う家族や親戚達。その言葉を聞くと、祖父という人間は各々の中で全く別の人間として生きているように思えた。冷え切った身体。重苦しい静寂。火葬を終え、骨壷から白い小さな塊となった祖父を取り出した時、“あっけないな”なんて言葉が浮かんだ。勿論私とて悲しみを感じなかったわけではない。むしろ、小さな頃から祖父母が好きで、兄と一緒に可愛がって貰っていた私は、祖母が死んだ時以上の喪失感を覚えた。だが、それよりも、生の脆さや下らなさ、死の軽さ、人間という生物の空虚さが私を強く揺さぶった。

 咥えた煙草の火が暗い室内にぼんやりと浮かび上がっている。吐き出した煙が渦を巻いて天井へと昇り、消えた。

 所詮、その程度なのかもしれない。ただただ今日を生き、明日を生き、その場しのぎの喜びや悲しみを胸に抱き、他人を助け、助けられ、憎み、憎まれ、残るのは残された者にとって都合の良い記憶だけ。この数日間、そんな答えの無い問いを無限に繰り返してきた。

 いや、違う。広大な無限性に直面した時に感じるのは、諦観からくるある種の安心感だ。納得がいかずに未練がましく問いを繰り返す私は、他人を騙し、自分を騙し、道化を演じ、取り繕い、どうせ嘘も真実も無いのだからと孤独なペシミストを気取る私は、その実理解を渇望しているだけの、本当は理由の無い優しさも、正しさも、理解も、存在するのだと信じているだけの人間なのかもしれない。この世の中にもきれいごとはあるのだと。目を瞑ると空っぽの箱の中で一人ぽつんと立つ私が見えた。だらだらと前へと進み続ける空虚な箱の中で、寂しそうに笑うその顔は、無垢な一人の少女だった。

 玄関のチャイムが静寂を破った。続いて聞こえてくる兄の声。

「おーい、カオル。いるんだろ?入るぞ」

 黙っていると、鍵を開けドアを引く音がした。階段を上がる足音が次第に大きくなり、私のいるリビングのドアが開いた。

「うわっ、暗いな。カーテンぐらい開けろよ。ていうか、いるなら返事してくれ」

「返事しなかったのに入ってきたってことはどっちにしろ入るつもりだったんでしょ?」

 ソファに寝転がったままで答える私。兄はカーテンを開け、ソファーの前のテーブルの上にある、吸殻が山になった灰皿と、空になったビールの缶列をちらりと見て言った。

「まぁな。ちょっとしたおせっかいをしにきた。昼間から酒と煙草なんて中々やるな、お前」

「茶化すなら帰って。どうせ母さんから様子見て来いとか言われたんでしょ?」

「正解。お前が学校何日か休み続けてるって嗅ぎ付けてな。俺が頼まれたってわけ」

 ごちゃごちゃと色々なものが散らばっている床にスペースを作って、ストーブに手を当てながら兄は言った。私は寝返りをうって兄の方を見た。

「母さんは何て思ってるの?おじいちゃんが死んだから悲しくてノイローゼになったとか?」

「ご名答。そんなわけ無いのにな。本当に何も分かってないよあの人は」

 そう言って笑う兄の目は優しかった。私の悩みなど全てお見通しみたいだ。

「そうだね。でもどっちにしろ私は大丈夫だよ。学校だって一週間休んだらちゃんと行こうと思ってたし。単位落としたらまずいからね」

「分かってるよ。カオルがそんな心積もりでいることぐらい。そんな弱っちい妹じゃないってことぐらいな」

「じゃあ、何でわざわざ来たの?」

「言っただろ?おせっかいだって」

 ああそうだった。兄はこんな人だった。自分の理由の無いやさしさをおせっかいだと言う。押し付けがましいと認める。それでも押し付けたいから押し付ける。自分勝手である意味他人のことなどお構いなしなのかもしれないが、その無関心さゆえに、居心地の良い距離感があった。

「さて、まずは掃除だな」

「え~、窓開けたら寒い」

「何かしらやらないと母さんが怒るだろ?俺に」

「はいはい、結局自分がかわいいわけね。じゃ、お兄ちゃんはテーブルよろしく」

「了解」

 掃除を終えると十四時半になっていた。掃除道具を片付けている途中で兄が、私の買ってきたスーパーの袋の中に洗髪用の薬品が入っているのに気付いた。

「お、髪染めんのか……って金?」

「いや、気分変えようと思ったんだけど、さすがにきついかなって後悔してる」

「いいじゃん。カオルそんなに髪長くないし、顔も端整で目つき悪いから似合うって」

「目つき悪いは余計だ」

「どれ一つ、俺が染めてやろう」

「まぁいっか。よろしく、お兄ちゃん」

 私達は洗面所に移動した。昔から兄は手先が器用で、やや神経質なのもあってか、こういう細かい作業は得意だった。脱色剤でしっかり色を落とし、むらなく綺麗に金色に染まった、肩にかかるかかからないかくらいの長さの自分の髪を鏡で見たとき、私は素直に感心した。

「すごい。やっぱりお兄ちゃんなだけある」

「それは褒めてるのか。俺が細かいって言いたいのか」

「どっちもだよ」

「はぁ。それにしてもホントに似合ってるな。まさにヤン……」

「何か言った?」

「何でもございません」

 洗面所を片付けリビングに戻ると、十六時を回っていた。朝食が遅かったとはいえ、昼食にビールしか飲んでいない私は空腹を覚え、何か食べようかと考えていると

「カオル、これ食べよう。囲炉裏で」

 と言って兄が自分の荷物から取り出したのは、パック詰めされた鶏肉だった。レバーなど色んな種類の肉が入ったパッケージに付いたバーコードには、半額と大きく書かれたシールが重ね貼りされている。

「俺の自腹だ。かわいい妹の為に買ってきたんだから感謝しろよ」

「だから半額か。ちょっと待って、それなら蕎麦掻も作って食べようよ。そば粉買ってきたんだ」

「お、いいね。そんじゃ、下行くか」

 私達は必要なものを持ってリビングを出て、祖父母が暮らしていた一階へと向かった。途中、二階の他の部屋が片付いていないのを見て、兄は

「まだ伯父さん達片付けてないのか。全く、恥ずかしくないのかねぇ」

 と呟いた。以前ここに住んでいた伯父たちは、出払う時にろくに家具やごみを片付けないままで出て行ったのである。大学生になった私はこの二階で暮らすために、リビングや風呂場、洗面所等は片付けたのだが(ブレーカーが入ったままになっていたことには怒りを通り越して呆れてしまった)、使っていない部屋は依然として汚いままだ。祖父が死んで、この家も処分しなければならないのに、顔を出すこともしない伯父は、やはりその程度の人間なのだろう。母や叔父が軽蔑するのも十分分かる気がした。

 一階に着いた。祖父が死んで以来、何となく死の匂いがするような気がして、私は掃除や遺品の整理をする時意外は極力一階に行くことを避けていた。私がドアを開ける時、ノブを回す手がほんの一瞬だけ強張ったのを見て、私のそんな気持ちを全て読み取った兄は、私を先導するようにして準備を進めた。兄は幼い頃から感情の機微に聡かった。口調、返答の早さ、視線、歩き方、服装、靴の並べ方やささいな動作のわずかな変化を、逃すことなく全て捉え、相手の感情を、思考を、読み取ってしまうのである。それは血の繋がりを持つ者のいない兄が、この世の中で一人で生きていく為に身に付けた能力であったが、私が家族と、主に母と、衝突した際に、相談したわけでもないのに兄は全部を理解して私の為に上手く立ち回ってくれていた。

「昔、よくこんな風にカオルと蕎麦掻作ってたよな。ばあちゃん達と一緒に」

「うん。どっちがきれいな形に仕上げられるか勝負したりしてね」

「覚えてる覚えてる。結局ばあちゃんには敵わないんだよな」

「だっただった。じいちゃんは黙々と炭焼いててさ」

 私達は二人並んで台所に立ち、熱湯でそば粉をこねながら話した。冬の冷たい空気で冷えた手を温めるようにして蕎麦掻を丸めていく。私が大学生になり家を離れてからはあまり会っておらず、祖父の葬式ではそれなりに忙しかったために、こうして二人で話すのは久しぶりだった。蕎麦掻を作り終えると私達は囲炉裏で炭をくべた。向かい合うようにして座り、炭の上に置いた金網で鶏肉を焼く。蕎麦の匂いが漂っていた部屋は、たちまち煙と脂の匂いでいっぱいになった。火災報知器が作動しないか心配だったが、どうやら大丈夫だったようだ。腿肉を一欠片つまむ。炭火で焼いた鶏肉は独特の香ばしさがあっておいしい。気分が乗り、二階からビールを取ってきて開ける私に、呆れた顔をして兄が言った。

「まだ飲むのか」

「まだ五本目だよ。こんぐらいじゃ酔えないし」

「カオルはホント酒強いよな。俺なんて二本で怪しいところだぞ」

「お兄ちゃんが弱いんだよ」

「俺の血筋は多分酒に弱い血筋だったんだよ」

 兄は私の前では平気で自分の本当の両親を話題に出す。血の繋がっていないことを気にしない。それは多分わざとなのだろうと気付いたのは大きくなってからだった。

「母さんに内緒で飲みに行った時も、高校生の私の方が飲んでたじゃん」

「そうだったな。ま、楽しめればそれでいいんだよ」

 兄の買ってきた肉も半分食べ終えた所で、蕎麦掻を網の上に置いた。表面に少し焦げ目が付いたあたりで、砂糖醤油につけて食べる。蕎麦の風味ともちもちとした食感、醤油の甘辛さが相まって美味い。“ぜんざいに入れるとこれがまたおいしんだよな”なんて言っている兄に、私は訊いた。

「お兄ちゃんはさ、何でそんなに平気でいられるの?一人なのに」

 兄は網の上の鶏肉を引っくり返しながら言った。

「別に平気なわけじゃない。平気なふりをしているだけだよ。俺は最初から孤独だったから割り切れてしまっただけだ。こんなもんだってね」

 さっきまで当たり前のように耳に入っていた炭や肉の焼ける音が急に遠のいた。二人だけの静寂の中で、兄は続けた。

「俺には何もないと分かってたから、とりあえずまともに生きていけるだけの人間になろうとした。自分以外には何も無いから他人とは常に付かず離れずの距離をとった。他人は他人、自分は自分って言い聞かせながら。絶対的に孤独だったから、逆に自分の好きなように生きようとした。理解者がいなければ理解される必要も無い。全部自己完結で終わってしまえるから、人の境界を生きて、その中で境界をはみ出さない程度の自由を満喫しようとする自分に納得出来てしまうだけの人間なんだよ、俺は」

 その言葉は兄にしてはまとまっておらず、断片的であったが、それは私がそれで理解できると兄が分かっているからだと思った。私は兄と似ているのだと。

「でもな、しがらみのないのと、しがらみを作らないのは別だ。だから俺はいつまでもカオルの兄でいたいし、そうなんだって覚えていて欲しい。血の繋がっていない、たった一人のお前の兄なんだって」

 兄は私の瞳を真っ直ぐ見つめ、そう言った。私はずっと空っぽのままだったものが急に満たされて嬉しいような恥ずかしいような気がした。私が望んでいたのはこれだったのだ。理解者。家族を、母を嫌いながらもそれを断ち切ることが出来なかった私は、心の奥底で母に理解者であって欲しかったのだろう“家族だから……”こだわっていたのは私の方だったのかもしれない。兄には無い可能性が、私にはあったから。私は祖父の亡骸を見る兄の寂しげな表情を思い出した。兄は何を葬ったのだろうか。いや、何も葬ってはいなかったのかもしれない。それでも兄は私に手を差し伸べてくれた。私の理解者なんだと。自分に理解者はいなくても、私の理解者にはなることが出来るのだと。

「ふふふ」

「な、何だよ」

 思わずこぼれてきた笑みを止められず、私は吹き出してしまった。兄はというと照れて少し頬に赤みがさしていた。呼吸を落ち着かせてから私は言った。

「ありがとう、お兄ちゃん」

「おう」

「まぁこれで、さっき掃除機かけてる妹の尻をじろじろ眺めてたことくらいは目を瞑ってあげよう」

「なっ、お前、気付いてたのか?」

「鏡にばっちり映ってたよ。にやけ顔が」

「……お前がジーパンなんて穿くから」

「それは理由になってません」

 それから鶏肉と蕎麦掻を食べ終え、遺品の整理をしていた時に出てきたオセロと将棋で盛り上がり、夕食時になったので、兄は帰った。帰り際、私が

「お兄ちゃんこそ、私が血の繋がっていないたった一人の妹なんだってこと忘れないでよ……ちょっとこれはおせっかいだったかな」

 と言うと、兄は驚いたような顔をした後、嬉しそうに笑って私の頭をぽんと叩き

「忘れない」

 と言って玄関を出た。私はその日の夜、羽根のように軽くなった心でぐっすりと寝た。


「それじゃ、何か問題があったらすぐに連絡してくださいね」

 そう言って須藤は荷物を運び終えた部屋を出た。私は、引越しの当日まで客に付き合う須藤に感心しながらその後姿を見送った。床に置いてある数個の大きなダンボールの箱の隙間を歩き、窓を開ける。冷たい風と、街の喧騒が入ってきた。今日は日曜日。明日は一週間ぶりの学校だ。この部屋から通うことになる。

「さて、始めますかね」

 とりあえず部屋の隅に置いた鏡に映る金髪の自分に向かってわざとらしくそう言った後、私は一番近くにあったダンボールの蓋を開け、荷物の整理を始めた。

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きょうだい 夢野言乃葉 @yumenokotonoha

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