ゆめにねむるさかな
榛葉みのる
第1話「幻想」
ごつごつとした岩場へ乗り上げた時、最初に感じたのは冷たい空気だった。
水気を纏う体は反射的に震え、寄せた腕を擦り顔を上げる。ほんの僅かだが、前方から柔らかい温もりを感じて太陽が沈むところなのだと彼女は知った。
ざわざわと波立つ音は海中にないというのに、どこか懐かしさを思わせ心地良い。耳を澄ませているうちに慣れた温度に、そっと腕を下ろした。
「太陽は明るい色で大きいと姉様達は言ってたわ。でも海の方がもっと大きくて、夕暮れになるとまるで海が太陽を吸い込んでいくようだって……」
一人、記憶を頼りに呟いていると上空で鳥の鳴き声が通過する。
「あれはカモメ。私達の腕より平べったい翼を上下させて風に乗り空を飛ぶ生き物。口は尖っててお魚さんを食べてしまうのよね」
マティ姉様が仰ってたかしら、と呟く。その時少し波とも鳥とも違う音が聞こえた気がしたが、体ごと向きを変えて静かにしていても何も聞こえなかったのでカニなどが陸地から這い上がったのかしらと首を傾げる。
ここは人の来ない場所で、今の時期は凶暴なサメ達も近寄らないから安全だと案内してくれたカメのウォンおじさんが話していたことを思い出す。太陽が沈み切る前にまた迎えに来てくれることになっている彼には、いつもこうして陸地で一人を満喫するミリルートの我儘に付き合わせてしまっているので申し訳なかった。今度また歌でもうたってお礼をしようと思い付いたミリルートの思考に、片隅に追いやっていた言葉が浮かんだ。
『本当の景色を知らないミルの歌は聞いても情景が浮かんでこない』
それは幼馴染の言葉だった。喧嘩をしても次会う時にはお互い何事もなかったように話し出す間柄だったのに、それだけは、その言葉だけは忘れられなかった。
ミリルートが歌うことが好きなのも影響しているだろう。ただのお遊び程度に口ずさんだものなら仕方ないで済んだことかもしれないのに。
ミリルートは生まれた時から目に物を映したことがない。僅かな光加減はわかるものの、暗い海の中では役に立たない。その分人一倍耳は良かったけれど、周りが当たり前のように見えているものが自分には理解できていないのだと知った時のショックは、今でもしこりとなり心の中に残っている。それを少しでも突かれると、まるで網に囲まれたと気づき逃げ場を失った魚のように周囲にビクついてしまう。
小さい頃の戯れだと笑って誤魔化せるほど、ミリルートは強くなかった。「バカにするな」と食ってかかれるほど勇気も行動力もなかった。きっと言った本人は忘れていることだろう。そしてそれをずっとミリルートが気にしていることも。
もうすぐそんな幼馴染と夫婦にならなければならない。あの時のことがなければミリルートも喜んで受け入れられたというのに、未だに昇華できず欝々としている。
せめてこの陸にいる間だけは忘れたかった。
陸は海中とは違い、光の強弱が強い。ミリルートでも見えているような気がするほど明確な明るさの違いがあり、楽しい。ここに色というものが加わればもっと素敵なのだろうと夢想し、ミリルートは手を伸ばす。
あと少し、陸でなら見えるかもしれないと期待を込めて空を掴もうとする。
ふっと光が消えた。
驚くミリルートは次に空気が動く気配を察し、咄嗟に手を引っ込めようとした。しかしその手首を何かが掴み、思わず小さな悲鳴を上げた。
姉様達に掴まれた時と同じ感覚、少しだけ熱い体温。人魚でないとしたら――人間だ。
引っ張り寄せる腕はそれより強い力で相手の方へ持っていかれ、バランスを崩したミリルートは衝撃にぎゅっと体を縮こませた。迫っているのは岩だ。先に出したもう片方の手が何かに触れ、顔から倒れるのは免れそうと瞬間的に感じた。ところが思っていたよりすぐに顔に何かが当たる。それも岩より柔らかく、温かく、冷え切っていた背中も何かに包まれていた。
頭上で息遣いを感じた。掴まれていた腕は外されていて、頬を何かが滑っていく。
「怯えないでほしい。ただ君があまりにも綺麗だったから見とれていただけなんだ。僕はシェイド、人間だ。でも君に何かするつもりも、捕まえるつもりもない。驚かせてすまなかった」
それは、ミリルートが最も恐れていた事態だった。
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