[2]
発砲事件の後、ようやくフラットに帰ってきたマーカスに、キャシーは首に抱きついて泣きながら、言った。
「あなたでなくてよかった」
そして生まれたばかりの赤ん坊にするように、マーカスの身体を手で軽く叩いて確かめた。指は手も足も10本そろっていることを確かめ、顎をなぞる。
「ひげが伸びてるわ。剃ってあげる」
熱いお湯をはった湯船に、マーカスは身体を横たえた。疲労でぎりぎりの状態だった心身が、少しずつほどけていくのが分かった。両手で湯をすくって顔をざぶりと洗うと、マーカスは眼を閉じ、吐息をもらした。この瞬間が、いちばんリラックスする。
「虎がネコになって、ゴロゴロ言ってる」
湯船のへりに腰かけたキャシーがそう言って笑い、ひげの見える辺りを掌に出した白い細かな泡を塗りつけて、ゆっくりとすべて覆ってゆく。なるべく丁寧に指先を使いながら、ごく自然な仕草でマーカスが眼を閉じたのを、キャシーは少し安堵して眺めている。
「さぁ、やるわよ。動かないでね」
そして右の頬に左手を当て、耳の下からそっと右手のカミソリを滑らせる。シェービングクリームが削り取られ、そこから覗いた皮膚が、なめらかに光って見えた。明るさを増した皮膚のその色は、体の中を流れる血の色そのままに見えて、キャシーはマーカスが生きているのだということを確認しているようだった。
ほとんどマーカスの上に覆いかぶさるようにして、キャシーはそうして、そっと伸びたひげを剃り落としてゆく。顎の向きを変えさせ、反らした喉に手を添え、濡らしたタオルで何度も使い捨てカミソリの刃先を拭いながら、少しずつあらわになって来るつるりとした皮膚に、キャシーは目を細めている。
「今度は身体を洗うわよ。上がって、上がって」
「やけに大サービスじゃないか。何も出ないぞ」
「いつかあたしにも同じことをすること。これが、条件よ」
湯船から上がったマーカスを椅子に座らせると、キャシーはボディソープをスポンジに垂らして盛大な泡を作り、がっしりした筋肉質の身体に塗りたくっていく。
手や腕に、小さな赤いツタのようなひっかき傷が点々とある。指のしわに、手錠が食い込んでできた擦り傷ができていた。脇腹には新しいミミズ腫れがあり、銃が当たる腰の部分に居座っている打ち身は、日ごとに黒ずんだ紫色になっていく。防弾チョッキを着けていた胸はひりひりして、泡を付けられると、マーカスは思わず顔をしかめた。
「やっぱり、あたしには分からないわ」
「何が?」
「あなたが警官になった理由」
マーカスは苦笑を浮かべざるを得なかった。マーカス自身もこの数日、その理由が分からなくなってきていたからであった。
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