拝啓、いつか君たちが住む大地へ

森居産業

君にアイスをひとすくい

 じりじりと焦げるアスファルトの上を、銀色の保冷バッグを抱えて走った。ブルーのTシャツの襟や背中は汗が沁みて色が濃くなっている。空を見上げると、強化特殊樹脂で作られたコロニーの天井の向こう、灰色の空に、ぽつんと白い点が見える。


 蒼真の両親が生まれた星、地球だ。


 数カ月前からこのコロニーの気温は高めにコントロールされており、ここ数日は摂氏30度前後に保たれている。灰色の研究施設郡の間には蒼真よりも背が高い黄色い大きな花がみっしりと栽培されていて、紫外線を効率よく受けるために広げられた葉が風で揺れてざわざわと音を立てていた。

 日本人が多く住むこの火星コロニー・通称「トヨアシハラ」では、暦に応じて、半世紀以上前の日本の気候を再現している。今の時期を大人たちは「夏」と呼ぶ。

 幼い頃、蒼真は母に訊ねたことがある。なぜ貴重なエネルギーを生命の維持に必要ない気候操作に割くのか。子どもの無邪気な問いに、母は寂しそうに笑って答えた。


 地球上に、日本と呼ばれた大地があったことを忘れないために。


 幾棟の研究施設を通りすぎて、蒼真の眼前にひときわ大きい施設が現れる。窓のほとんどない四角を組み合わせたような白い建物は、高い合金の柵とフェンスとで二重に守られている。表の入り口には紺色の制服を着た守衛が立っていて、彼らが殺傷能力を持つレーザー銃を所持していることを蒼真は知っている。

 蒼真は施設の裏へ回った。かつて、この研究施設は蒼真の遊び場だった時代がある。蒼真の両親はいずれも研究者で、父は気候操作の、母は生理学の専門家だ。託児施設に預けられないとき、両親は仕方なく幼い蒼真をつれて出勤した。

 施設の裏に廃棄場がある。施設内で生じた有機廃棄物はそこでバイオ分解し、痩せたコロニーの土壌に漉き込まれ、植物の栽培が可能な地面を広げていくのだ。

 その廃棄場の近くの柵に一箇所だけ、他の場所より間隔が広くなっている場所がある。廃棄場内で廃棄物が撹拌される低い音が辺りに響いている。その柵の隙間を通るとき、蒼真は自分の成長が遅れ気味なことに感謝する。よかった、巡回の守衛はいない。安堵しながら、蒼真は柵に触れないように細心の注意を払って、その隙間をすり抜けた。

 そのとき、ビリッ、と背中に僅かな刺激が走った。

「!」

 蒼真は慌ててTシャツの肩口を引っ張り、自分の背中を確かめた。肩甲骨の辺りに軽い焦げ跡がある。合金柵に流されている電流が焼いた跡だ。蒼真は喉がからからに渇くのを感じた。その場にしゃがみ込み、守衛の足音が聞こえないかと耳を澄ませた。

 今まで、柵に自分の身体が触れたことなんてなかった。

 確かに、最近蒼真の身長は目に見えて伸びてきていた。「コロニー内でコントロールされた重力でもちゃんと人間が成長できることを証明しているの」と母は喜んでいる。そんなのちっとも嬉しくない。いずれあの柵を通れなくなる日が来るのだとしたら。

「ソーマ!」

 フェンスの向こうで、白い服を着た褐色の肌の少年が立って手を振っている。あどけない笑みを浮かべた彼の姿を見て、蒼真はやっと安心して立ち上がる。

「ハロー、ソーマ。何してたの、しゃがみこんだりして」

「なんでもないよ、スタン。今日はアイスクリームを持ってきたんだ」

「アイスクリーム!」

 ちょっと待ってろ、とフェンス越しに声をかけて、保冷バッグを開ける。中に詰めていたドライアイスが一瞬にして融け出し、白い煙となって辺りにたなびく。それを見てスタン――スタンリーはきゃあきゃあと笑う。鮮やかなピンクと黄色のカップの中に詰まっているのは、チョコレートミント味のアイスクリームだ。

 カップの蓋を開け、ピンクのプラスチックのスプーンでそれをひとすくいしてフェンスの網目の間から差し出すと、アレックスは薄い唇を開いてスプーンの先を口に含むんだ。その一瞬に見える舌が苺のように赤いのを見て、蒼真は胸が痛んだ。


 緩いウェーブを描く黒髪に、瞳孔の区別がつかないほど真っ黒な虹彩。


 スタンは「メラニズム」――メラニン色素が多く生成されるように作られたデザインチャイルドだ。この施設では大勢のメラニズムの子どもたちが製造され、育成されている。その責任者は他ならぬ蒼真の母親だ。

 彼と蒼真が出会ったのは、蒼真が研究施設内を自由に動き回ることが許されていた頃だ。褐色の肌の不思議な子どもと蒼真はすぐに仲良くなった。

 後から知ったことだが、スタンはメラニズムのデザインチャイルドの初期ロットだった。彼と同時に製造された子どもたちは半数以上が胎児のうちに死に、残りの半数も自力で生命維持ができずに死に、スタンは最後の生き残りだった。

 蒼真が研究施設内にいる間、スタンが実験や治療を受けている以外の時間を、ふたりはずっと一緒に過ごした。一緒に絵本を読み、一緒に文字の読み書きを教わり、一緒にボール遊びをした。

 そんな蒼真がスタンといずれ別れるときが来るのを知ったのは、深夜にトイレに立って、両親がキッチンで――コロニーでは貴重な――酒を飲みながら話しているのを聞いたときだ。

「蒼真が『タマヨリヒメ』と仲良くしているの。何とか上手く引き離さないと……」

「いいじゃないか、お互いいい遊び相手ができて」

 俺たちはほら、蒼真に弟を作ってやる暇もないからさ。と肩をすくめる父に対して、いつもの小綺麗な格好とは正反対の、バスローブの胸元を半ばはだけさせて脚を組んでいる母は「ダメよ!」と声を荒げた。

「スタンリーは蒼真の弟じゃないわ、私の成果物タマヨリヒメよ。まだ17歳まで育つ確証もないし、17歳になればコロニー外活動の実験をすることになる。このまま兄弟同然に育てていたら、いずれスタンリーが死んだときに蒼真がどんな思いをするか……」

 母の嘆きに耐えられず、蒼真はキッチンのふたりに問うた。

「スタンは、死ぬために生まれたの?」


「ソーマ、食べないの?」

 スタンに上目遣いで問われて、蒼真はハッとしてスプーンをフェンスのこちら側に引っ込め、慌ててアイスを掬って口に含んだ。ミントの爽やかな味と、チョコレートの甘みが舌の上に広がる。最近になって好んで食べるようになった、チョコレートミント味。

 口元を緩めた蒼真に、スタンが言った。

「これ、最近実験前に飲んでるドリンクと同じ味がする」

 その一言に蒼真は危うくスプーンを取り落としそうになった。ひと月ほど前の母の謎の行動の意図を知る。十種類以上のアイスクリームを蒼真の前に並べて、一口ずつ食べさせて、「どれが一番美味しかった?」――。

「ごめん、スタン、これは捨てよう」

「ダメだよ、蒼真が好きなアイスなんでしょ、食べるよ。もうすぐ蒼真にも会えなくなるし」

「な、」

「背、伸びたでしょ。もうあの抜け道、使えないんでしょ」

 見透かすような言葉にスプーンを握った蒼真の拳が震える。

「食べさせ続けてよ、会えなくなる日まで。ソーマの手で、ソーマの好きなものを」

 そう言ってスタンはかぱ、と口を開く。舌が苺のように赤く、メラニン色素の定着が薄いのは、「味がわからなくなるからなんだって」と、幼いころスタン本人が言っていた。

 蒼真はスタンの口にアイスを掬ったスプーンを差し入れる。苺色の舌がそれを舐め取ると、今度は自分がアイスを口にする。それを交互に繰り返すうちに、スタンが笑い出した。

「変なの。何で泣くのさ」

 スタンは蒼真の頬を流れる涙を何とか拭おうとしてフェンスの網目に指を差し入れた。蒼真は自分からその指に頬を寄せる。ごしごしと熱い涙を拭うスタンの手は掌まで黒い。


 カップが空になって、ふたりはその場を離れた。別れ際、スタンが言った。

「明日も待ってる。明後日も、明々後日も」

 来た道を引き返す蒼真を、スタンがずっと見つめている気配がする。廃棄場からは相変わらず、廃棄物を撹拌する音が響いている。

 合金柵を、今度は服まで気をつけて通り抜けてから、重い足取りでアスファルトの道を帰っていく蒼真の目の前に、鮮やかな黄色が広がった。研究施設の間に広がるヒマワリの花畑。

 そのとき、どうしてこの研究施設群には貴重な有機土壌を使って花が植えられているのか、どうしてコロニーの気候をもう戻れない大地に似せるのか、蒼真はようやく理解した。理解と共にじわりと熱い涙が込み上げた。

 明日も待っているとスタンは言った。明日は苺を持っていこう。スタンの舌と同じくらい赤い、甘ずっぱい苺を。丸い苺をスタンの舌の上に手ずから置くのを思い浮かべて、蒼真は声を上げて泣いた。

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