八.
目を開けると、紅、紅、紅。どこを見渡してもその色が視界に入って来た。蓮子は体を起こし、自分が今どこにいるのかを確かめる為に辺りを見回す。地面は丸い小石が敷き詰められており、空は紫と金の二層の色彩、そして目に入る紅の正体は―彼岸花であった。この光景を認識した瞬間、蓮子は雪が降る外に出るよりも強い寒気を覚えた。これに似た光景は、一度目にしている。初めてお紺と出会った、三途川の近く。自分が意識を失っている間に何があったのか。もしかして自分は今度こそ死んでしまったのではないだろうか――一気にその考えにまで至り、蓮子は全身の血の気が一気に引くのを感じた。そして、頭が回らないまま、ふらふらと歩き始めた。
それからは何も考えることなく歩き続けるが、彼岸花の咲く砂利道、という風系の繰り返しがあるだけであった。意識を失う前までいた空間のように、生温い風が吹いているわけでもなく、かといって寒いわけでもない。どちらかというと、蓮子の中から来る冷や汗と寒気が、蓮子自身を寒くさせていた。
更に歩き続けたが、三途川も、三途川を渡ろうとする人々も一向に見えない。単にまだ見えていないだけなのか、それとも三途川の近くではないのか判断しかねるが、見えなくて良かった、と蓮子は少しだけ安堵した。痛みや疲れはないが、蓮子が途方の無さに足を止め、深く息を吐いたそのとき、
「お、いたいた。蓮子!」
背後から突然、聞き覚えのある声がしたので驚きながら振り向く。そこには刹那が立っていた。困惑しながらも見知った顔に出会えたことに蓮子はひどく安心し、思わず泣きそうになる。
「せ、刹那さん! あのっ、私…」
「あー、落ち着け。ここは三途川じゃねえよ。ここは魂の一番深い場所…心の底とも言う」
刹那から明かされた場所の正体に、今度は混乱で泣きそうになる。実際、もう視界が滲んでいた。刹那は蓮子のその様子にぎょっとし、困った表情を見せる。
「…だが、命はまだあるみてえだな。魂に傷もない。神野も本当に人間に甘くなったよなあ…」
刹那はどこか感慨深そうに言った。蓮子は事情を知っているらしき刹那に、訊きたいことが山ほどあった。
「あの、刹那さんはどうしてここに…?」
まず、率直な疑問を投げかけた。
「神野の野郎に頼まれたんだよ。『もしお蓮がお紺に身体を乗っ取られて、魂が封じられたら助けてやって欲しい』って。ちなみに、鏡花からも頼まれた」
「そう、なんですか…でも、私の心の底って…何でこんな寂しいんですか?」
次にそう質問すると、刹那はバツの悪そうな顔をした。
「多分、この場所…三途川の風景がお前の魂に深く刻まれているんだろう。それと…今のところはまだ保ててはいるが、徐々にお紺の魂に喰われ始めて、本当に肉体も魂も彼岸に近くなっている…ってのもある」
刹那の表情の理由が分かったのと同時に、蓮子の身体は凍り付いたかのように動かせなくなり、脳内はますます混乱を極めた。〝自分の魂がお紺に喰われ始めている〟――この言葉が意味することはぼんやりと分かるが、実感が伴わない。自分はお紺に殺されかけているのか―蓮子はその事実を受け止めきれずにいた。
「おい、蓮子! しっかりしろ!」
刹那の腹にまで響く声で、蓮子は我に返った。
「あの…刹那さん…私…このままし、死ぬんですか…?」
蓮子の声は言葉の端から端まで震えていた。歯を食いしばり、刹那の答えを待つ。
「…やっと現れたか。どうやら死なない為の鍵が、こっちに来ているようだぜ」
刹那は至極真剣に言ったが、蓮子には何のことなのかがさっぱり分からない。刹那は更に話を続ける。
「いいか、そもそもお前が死にそうになっているのは、お紺に魂を喰い潰されそうになってるからだ。ということは、そのお紺をどうにかするしかねえ。暴走しているお紺を説得した上で、お前は〝自分の魂は自分のものだ〟って強く認識して、且つお紺に主張しなけりゃならねえ。そうでないと、どんどん魂を侵食されていくぞ」
「そ、そんなこと言われても! そんなのどうすれば…!」
あまりにも抽象的な答えに、蓮子は思わず刹那に詰め寄った。
「まあつまり、お紺と面と向かって話し合えってことだ。お前とお紺の魂は繋がっている。ってことは、お紺と直接会えるってことだよ。…その張本人が、今ここにやって来る」
「え…?」
お紺がこちらに向かっているという事実を知り、蓮子はぽかんとする。刹那の言葉がにわかには信じられなかったが、徐々にお紺のものと分かる気配が近付いて来ているのが蓮子にも分かった。そして――近くに群生していた彼岸花からガサガサという音と共に、お紺がそろりと姿を見せた。蓮子はつい身構えてしまう。お紺はそれ以上蓮子に近寄ろうともせず、ただ感情の無い目を向けているだけである。刹那はお紺に面と向かって話せ、と言ったが、いざ目の前に現れるとこれまでの怒り、悲しみ、戸惑いなど、複数の感情が入り乱れて何も言えなくなった。お紺もまた、蓮子の方を見てはいるが口を開こうとはしない。その一人と一匹を見兼ねた刹那は、大きく溜め息をつくと、両者の間に立った。
「お紺、その様子だと神野にこっぴどくやられたらしいなあ?」
茶化す、というよりは呆れた調子で刹那はお紺に訊いた。
「ふん、だからここにいるんじゃないか。いくら丸くなったとはいえ、神野もやっぱり魔王だね。後ろからバッサリだよ」
刹那の言葉に対し、お紺はどこか諦めたような声で答えた。〝斬る〟という不穏な単語が聞こえて来たことに、蓮子は不安を募らせる。
「そりゃそうだろ。目の前に調子に乗って挑発して来る奴がいりゃあ、オレでも斬るね。それで、お前の野望とやらは潰えたらしいが、これからどうするんだ?」
「どうするもこうするもないよ。なーんも後のことなんて考えられないね。まあ、目的が無くなればこのまま自滅かな…」
「ちょっと待って!」
お紺の投げやりな、且つこのまま死ぬことを望んでいるかのような言い方に、蓮子は声を上げた。お紺は驚く素振りを全く見せずに、蓮子と視線を合わせる。
「何を勝手に自滅とか言ってるの!? 私はお紺に好き勝手に乗っ取られ続けた上に、今は本当に死にそうになってるんだよ!? 私のことなんか全く考えないで!」
蓮子は怒りから一気にまくし立てた。するとお紺は、溜め息を一つつく。
「そりゃ悪かったね。確かにあたいはあんたに命を助けられた。…でもね、あたいはあんたを犠牲にしてまでも達成したい目的があったんだ。でも、それも終わった。本当に虚しいし悔しいよ…。あんたを裏切ってまで行おうとしたことが失敗したあたいに、もう生きる意味も価値もない。刹那、あんたなら神野に言って、蓮子と値の魂を切り離してもらうことは出来るだろ?」
お紺に話を振られた刹那は、険しい表情になる。
「そりゃあ無理だな。一度繋がった魂はいくら魔王の神野といえど、どうすることも出来ない。切り離すだけなら出来るかもしれないが、そのときはお前も蓮子も死ぬ。魂を救うのはそれこそ神業であって、魔王には出来ない。むしろ、魔王は魂を壊す方だ」
「えっ!?」
刹那の言葉にお紺よりも先に反応したのは蓮子の方であった。一番頼りにしていた神野でも、お紺と繋がった魂はどうにも出来ないと知って、いよいよ死への恐怖がじわじわと脳内を侵食していく。一方お紺は蓮子から視線を外し、空を見上げた。
「…そうかい。あたいはもう…どうでもいいや…」
「なっ、何ですって!?」
生死が係っているにもかかわらず、ずっと投げやりなお紺に対して蓮子はまた怒りが湧き上がる。そこへ、刹那が蓮子の肩を軽く叩いた。蓮子は感情に任せてつい、刹那を睨んでしまう。
「何ですか?」
「ちょっと話しておきたいことがある。お紺から少し離れるぞ」
刹那はそう言うと、蓮子の返事も訊かずにお紺がいる場所とは逆の方向へ歩き出した。蓮子は慌てて刹那の後を追う。お紺は二人を目では追っていたが、付いて行くことはなく、すぐに視線を空へと戻した。
「いいか、このままあの状態のお紺と話しても平行線だ。それに、このままここに居ても、魂はまだ大丈夫だろうが、蓮子の肉体が先に衰弱していく。つまり、死に繋がっている。そうなればお前とお紺の魂は、ずっとここに留まり、果ては彷徨い続けることになる。どっちにしたって救いのねえ未来だ。だからこそ、蓮子、お前はお紺にどうして自分が生きたいのか、生きる理由を話さなくちゃならねえ。そんでもって、お紺にも生きる意思を持たせるように説得もするんだ。…あー、大雑把過ぎるが分かるか?」
刹那は最後、困ったように蓮子に訊き、蓮子は自然と頷いていた。刹那に言われた通り、お紺を説得しなければ最悪の結果が待っているだけである。そして、蓮子は自分が生きたい理由を継ぐ次と頭の中で羅列していく。これらをぶつければ、お紺は少しでも心を変えてくれるかもしれない。蓮子は歩き出すと、お紺の目の前で足を止めた。
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