七.

 「ほう、やっと出てきやがった」

 そう話す神野の声は一層低く、先程までの飄々とした余裕が一斉に消えた。その様子を見た太権やギンはおろか、鏡時と鏡花でさえも背筋が凍り、その場から一歩も動けないでいた。

 一方、突然倒れ込んだ蓮子は、神野の言葉の直後に四肢に力をぐっと入れ、ゆっくりと立ち上がった。顔を上げ、神野を睨む蓮子の姿は一瞬で一変した。黒髪はお紺と同じ毛並みの茶色に。黒い瞳は金色に変わっていた。

「こりゃあ完全にお紺だな。お蓮の気配は微かに感じられるが…」

「…よくもこっちが黙ってりゃあ、好き勝手言ってくれたねえ…!」

 神野の声を遮り、蓮子は怒りの声を上げた。その声も蓮子のものではなく、お紺のものである。鏡時と鏡花は神野同様に顔色一つ変えなかったが、太権は蓮子の変容を目の当たりにして動揺してしまった。あれはもはや蓮子でも、今まで接してきたお紺でもない。そして蓮子=お紺の身体から溢れ出る妖気はまさしく狐狸のものである。蓮子は遂に、管狐の妖怪・お紺そのものとなった。

「神野、貴様のお陰でようやく思い出したぞ…! 玉藻前様の屈辱、念願を! 玉藻前様は大人しく眠りに就いたのではない! あやかしの王としてこの世に再び君臨し、人も妖も、そして神さえも弄び転がすことこそが本願よ! …だが、玉藻前様でも人間の霊力と、人を通した神通力には敵わなかった…。だからあたいは、母であり、王である玉藻前様の願いを成就させるため、日本中を巡っていたんだ。そして…好機はようやく訪れた」

 お紺はそこで口角を吊り上げた。

「貴様に一度だけ礼を言ってやろう、神野よ。お前が妖気の溜まり場を創ってくれたお蔭で、妖力はほぼ全盛期のものに戻った。これであたいの目的に一歩近づけたよ」

「それで、次はどうするんだ? 俺への意趣返しか?」

「そうしたいのは山々だけどね、流石にあたいだって自分の力量は弁えてるさ。玉藻前様ならいざ知らず、管狐の、ようやく妖力を全て取り戻したばかりのあたいがあんたにどうこう出来る訳ないじゃないか。一瞬で塵も残らないよ。だからあたいはあんたには何もしない。ただ、この空間から出て行くだけさ」

「何だと?」

 神野は怪訝な表情になった。

「あんた、随分と丸くなったようじゃないか。管狐のあたい一匹なら、あんたもばっさり斬り捨てるだろうねえ。でも、今は違う。今のあたいは蓮子の身体を乗っ取り、まだ蓮子自身も生きている。だから、あんたは手出し出来ないだろう?」

 お紺は鼻を鳴らした。神野は無表情に戻る。

「…待ちなさい、ここは幽現道よりも強い結界が張ってある空間です。九尾の眷属といえども、あなただけではここから出られないのでは?」

 鏡花は冷たい眼差しを向けながらお紺に尋ねた。

「正確に言うなら、あたいだけでこの空間を突破するってことじゃない。なあ神野、そうだろう? この身体の持ち主の為に、見逃しておくれよ」

「…呆れを通り越してよく分からん気持ちになるな。そこまで人質の蓮子頼みかよ」

 鏡時は吐き捨てるように言った。

「何とでも言いな。あたいら管狐は人間を利用してこそナンボのもんだからね。生憎、あんたら妖狐のような矜持はないのさ」

「なっ! 心外でやんす! 腐っているのはてめえだけだお紺!」

 お紺の言い分に思わずギンが声を荒げた。鏡時とギン、両者の言葉に対してお紺は鼻で笑うだけであった。そして、再び神野を見遣る。

「そういうこと。どうする? 逃げ道を作ってくれるのかい?」

 神野とお紺はそこで睨み合い、互いに言葉を交わさない。暫くして神野は何も言わず、指でぐるりと円を描いた。すると、お紺の背後、数メートル先に、お紺一人が丁度通れる大きさの穴が開いた。それを見た神野以外の者たちはぎょっとする。

「優しいねえ、さすが魔王様。それじゃあ、玉藻前様が復活するまで、首を洗って待ってなよ」

 お紺は微笑んで皆を見回すと、踵を返して歩き出す。一歩、また一歩と出口へ近付いて行く。ようやく、自分の悲願達成に少しだけ距離が縮まったのだと思うと、お紺はほくそ笑むのを抑えられなかった。

出口まであと三歩。そのとき――硬く、そして冷たく、それでいて確実に自分の肉を斬り裂いた感覚が、落雷の如くお紺を襲った。痛みが無いまま力が一気に全身から削げ落ち、お紺は成す術もなくその場に倒れ込んだ。声を出すことも、手足の指先一つ、ピクリとも動かせない。そこへ神野がやって来る。お紺から見えるのは神野の草履と、神野の所有する大太刀の切っ先だけであった。

「敵に回した、それも魔王に簡単に背を見せた阿呆が」

 神野の声が天から降って来る。

「…そも、お前は最初から敗北していたのだ。敵である筈の俺の前でべらべらと企てを話し、正体までご丁寧に明かしてくれた。そして何より、人間のお蓮に魂まで依存してしまったことだ。その中途半端な在り方で、妖怪、ましてや玉藻前の眷属とは笑わせてくれる」

 神野は静かに、だが確かに怒気を孕んだ声で語った。お紺はただ黙って、目の前に突き出された大太刀の切っ先を見つめることしか出来なかった。

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